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[ 2002-10-04]

日中国交正常化30周年記念講演会開催


理解と協力の世紀における民間交流の課題

笹川理事長の基調講演
笹川理事長の基調講演

日中国交正常化30周年を記念して笹川平和財団(会長:田淵節也)は9月24日、東京のホテルニューオータニで「理解と協力の世紀のおける日中民間交流の課題」と題して講演会と訪日団歓迎レセプションを開催した。

講演会では、日中間の民間レベルでの交流と友好を深めるために同財団の招きにより22日から来日している日中民間友好人訪日代表団80人や森喜朗前首相、武大偉駐日大使ら要人を前に日本財団理事長の笹川陽平が基調講演を行った。

「歴史を鑑(かがみ)として未来につなぐ」とする江沢民主席など中国の政治家たちの発言に触れ、「(国交正常化)30年たってもなおこの言葉が中国の政治指導者たちから発言され、中国の今日の近代化のために協力を惜しまず努力をしてきた経緯を考えると、過去の歴史の一部分だけ取り上げられることについてやりきれないと感じている日本国民は多数いる。これが両国の不協和音をひきおこし、ODA(政府開発援助)の削減につながっている」と述べた。また「2008年の北京オリンピックを前に30億人運んで未だ死亡事故がない日本の新幹線を中国で開通させるのが私の願望である。こうした優れた技術の移転は最大の日本理解になると考える」と話した。


乾杯の音頭をとる笹川平和財団田淵会長
乾杯の音頭をとる笹川平和財団田淵会長

講演会後の歓迎レセプションでは、牛尾治朗(ウシオ電機代表取締役会長)笹川日中友好基金運営委員長などの歓迎挨拶、田淵節也笹川平和財団会長の乾杯の音頭で懇談に移り、参加者は日中両国の友好と交流を深めた。

今回の日中民間友好人訪日団は、笹川平和財団が設立した「笹川日中友好基金」により招へいされた。かつて日中の友好関係のために尽力された故竹下登元首相の墓参を始め、民間友好人士団、市長代表団、マスコミ代表団、安全保障対話代表団、IT産業政策代表団、青年代表団の6つのテーマに分かれ、それぞれ関係施設などを視察し、29日帰国した。


笹川日中友好基金とは

日中友好基金運営委員長の牛尾治朗氏
日中友好基金運営委員長の牛尾治朗氏

1989年、日中両国の永久の平和と相互理解の促進を目的として設立された。基本財産101億円。

2001〜 2005年度の事業方針は、「対等な日中関係」の構築に向け、二国間の総合的な友好協力を「民」の立場を活かして推進する。具体的には、次の4つの柱 −1.直接的交流の深化・・・安全保障交流を推進し、信頼性構築の強化を図る。2.日中問題の整理・・・二国間に存在する諸問題を整理し、不信払拭を目指す。3.地域的安定基盤の整備・・・中国社会の構造転換とグローバリゼーションの推進を図る。4.多層交流の推進・・・多層的な政策交流の推進を図る。− として事業を展開する。


笹川陽平基調講演内容(全文掲載)

中国交正常化30周年記念 「21世紀における日中民間交流のあり方」
2002年9月24日 於:ホテル・ニューオータニ「鶴の間」

私は政治家ではございません。また金儲けをしなければならない経済界の人間でもございません。従いまして、私が関わってきた日中関係における経過、問題点などを率直にわかり易い言葉で話すことが私の責務ではないかと考えております。私の中国との関わり、そして日本と中国との関係。現在、そして将来、どのような方向性がいいのか、といった点を私なりに考え、お話ししたいと思います。

特にこの10年、中国では1992年のトウ小平先生の南巡講話により、改革、開放路線というものが明確に打ち出されました。それがWTOへの加盟、そして2008年オリンピックの招致に結びつき、いよいよ国際社会の中での中国の役割の増大、また世界の経済システムの中へ積極的に参加していくという意志表明のあった10年であると思います。

私どもは、中国の国際友好聯絡会との間で民間レベルの日中友好促進、お互いの協力関係を継続、発展させてきましたが、スタート当時は天安門事件の直後で、中国が国際的にも一時孤立している時期でした。私はこのような時期にこそ日中関係というものがもっとも重要だと感じ、大変多くの方々の反対がありましたが、50億円という基金を拠出し、後ほどこれが100億円になるわけですが、笹川日中友好基金を設立しました。そして日中友好基金と国際友好聯絡会との間で友好促進のための様々なテーマが選びだされました。パンフレットに記載されておりますように、日中両方の理事による忌憚のない意見交換の中から、この10年間でおよそ216事業、日本の参加者が4000人を超え、中国側は10000人を超える事業を、中国経済が目覚しく発展する中での必要な事業として行ってきました。

今申し上げた以外にも、この2つの団体の協力と意見交換から発展し、中国の近代化、国際化のためにもっとも重要な国際関係の人材を養成するための事業が生まれました。北京大学における国際関係論の大学院課程の設置やあるいは北京大学、南京大学、復亘大学、中山大学、蘭州大学、その他主な10大学における修士・博士課程の方々への奨学基金の設置をしました。また現在、特に東北3省を中心に大学図書館の充実のために100万冊の図書を贈呈する事業がありますが、現在約40万冊を超えるところまで成長してきました。


また保健衛生関係では、中国では無論、日本でも話題になりましたが、ハンセン病を制圧する事業があります。また中国の全省から今まで、16年にわたり 1600人のお医者さん方に来ていただき、北海道は札幌医大から沖縄県の琉球大学にいたるまで、日本中の大学の医学部や研究所等で勉強をしていただきました。既に1500人の方々が研修を終え帰国し、中国の近代医学の中で大変大きなウェートを占めるまでになり、活躍されております。
日本の受け入れ先である各大学などでは、授業料を無料で協力してくださっています。また、受け入れについても本当に協力的で、一度も断わられた事がありません。そして中国の方々に日本の医学を勉強するのみならず、それぞれの地方における文化や歴史、そして人々の生活の中に飛び込んで実体験をしたという方々がこれだけ多数生まれたわけです。このようなことは、表面化しないことですが、大変裾野の広い交流がなされているのです。

私は20年間の医学生の計画が終わると、中国におじゃまをしてお世話をしたお医者さんの家を一軒ずつごちそうになって回る計画を立てております。毎日おじゃまをしても6年かかりますので、今から健康に気をつけて乾杯の度数を減らさなければならないと考えております。

さて本論に入ります。日中友好30年、これは大変おめでたいことでございます。この30年間の日中はどのような関係にあったのか、どのような点が良かったのか、またどのような点がまだまだ理解が足りなかったのか。
私は国民の一人として日中友好は当然だと思いますし、日本国民でこれに反対する人は誰もおりません。しかしながら、この30年間の総括が日中間にきちんと行われていないことは、一体どうしてなのか今ひとつわかりません。これは日本側が反省しなければならないと思いますし、中国側についても同じことが言えるのではないかと思います。
特に日本人の性格というのは、世界の中でも大変珍しいもので、あまり自分たちのした良いことを人様に言わないことが“美徳”とされてきております。これが一つは日中間の不協和音を起こす問題についても言えるのではないかという気が致します。

そこで若干、私は日本人の美徳を捨てまして、皆様方のあまり知らないことをご披露したいと思います。


一つは、天安門事件の後、西側諸国は中国に対する経済制裁に入りました。しかし日本と中国の関係は、単に西側と中国という関係ではなく、過去2000年の交流の歴史があります。従いまして、天安門事件後のヒューストンサミット、G7ですが、サミットの歴史の中で、私の知る限り日本が主導的な役割を果たした、唯一の問題解決をしたサミットだと思います。

代表団の皆様は、日中友好を確立された一人である竹下登先生のお墓参りを予定されておりますが、これは(ヒューストンサミットで日本が主導的な役割を果たしたこと)竹下登先生が絵を書き、今日ご来席の森喜朗前日本国総理大臣を指導されました安部外務大臣(当時)が自分の身体が癌におかされていることを承知でアメリカに飛び、ホワイトハウスと話し合いをし、そして海部総理大臣がヒューストンサミットでこの提案をしたわけです。

私は、このヒューストンサミットにおける西側の経済制裁の解除、日本の第3次円借款の再開ということが、中国の改革・解放を一層加速させる引き金を引いたといっても過言ではないと思います。ODAとして約2兆円以上輸銀ベースで7兆円を超える借款などの供与が日本から出ていることをみても、ご理解いただける説得力のある話ではないかと思います。
ご承知のように中国に対するODAはこの1、2年少し下がってまいりましたが、継続的に拡大してきました。政策立案のための人材育成をはじめ、数千人規模の方々が日本にお越しになって日本の政策、法律、制度を研究されたということもございます。

しかしながら率直に申し上げて今もなお、歴史認識の問題、あるいは教科書問題、靖国問題というように、日中間の長い友好の歴史の中に、喉に魚の骨が刺さったような状況もあることも現実に認めなければいけないと思います。
許先生から『歴史を鑑として未来へつなごう』というお話しがございました。またもう少し長くスパンをとってみたらどうかという話しも先生からございましたが、ともすれば日本のメディアで報じられる中国首脳の談話は、常にこの『歴史を鑑として』という言葉が日本の新聞に載ります。


言葉そのものは正しいことですから、何らこれを否定するものではございません。しかし日中友好、国交が回復して30年経ってなお、この言葉が政治指導者の口から出てくるということについて、日本国民の側はどのように見えるのか、ということについても少し話をしてみたいと思います。日本人には『歴史を鑑として』という言葉は、やはり友好2000年の歴史の、特に近現代史における日本側のマイナス面に重点を置いて映ります。

日本と中国との2000年の交流の歴史を考えると、様々な出来事がございました。良い事も悪い事もございました。
そこは省略いたしますけれども、文字の国、中国から私たちは多くの事を教わってきた国ですが、私たちもまた中国の皆さんにお教えしたことがたくさんございます。一つだけ例をとりましょう。中国の皆さんがお使いになっている、経済、資本、階級、あるいは改革開放の開放、労働、哲学、芸術、美術。この言葉は、日本で作られ中国に輸出された言葉です。

私は『歴史を鑑として』と言う前に『2000年の歴史を鑑として』というように言葉を追加していただければ、日本国民のこの言葉に対するとり方も、相当気持ちの上で楽になるのではないかと思います。


日本人は、ご承知のように戦争に対して深く反省していることについて、国民におきましても、日本国の総理大臣におきましても、多くの方々が触れています。我々はもう戦争ができる体制の国ではございません。私が7歳の時ですが、一晩で10万8000人が死にました。私の町では私と母を除き全員亡くなりました。原子爆弾によっても数十万人の人間が死にましたが、全て非戦闘員です。日本および日本人は、戦後50年、平和を希求するためにあらゆる物を犠牲にしたといっても過言ではありません。

もちろんお国(中国)に大きな災いをもたらしたということも事実でございますが、私自身もそのような体験の中から、新しい日本の国はどうあるべきかということを模索しながら、平和を愛する国民として、国づくりということをやってきたということは間違いのない事実ですし、未だにこの不景気な時代であるにもかかわらず、日本は武器の輸出を一切認めてないということを見てもご理解をいただけるのではないかと思います。

従いまして、この日中間において『歴史を鑑として』という短いセンテンスが前についた時に、日本国民は率直に言って、日本人が平和を愛好し、努力をし、そして中国の近代化のために協力をしてこれからもやっていこうというときに、過去の一部分だけをとった言葉が出てくることにはやりきれない、という感情が国民の中にあります。そしてそれがODAの削減、あるいは様々な不協和音を起こす要因の一つになっていることもご理解をいただきたいと思います。

私は、そのような意味から、中国側からの率直な意見と同時に、日本が努力して協力してきたことも具体的に評価をしていただければ、日本国民の気持ちは相当変わってくるのではないかと思います。
お隣の国、隣国との関係というのは、世界中どこを見ましても実に微妙なものであり、長く平和が続いた歴史はございません。そのような中で、日中両国のこの長い友好の歴史というものは、私は世界的にみても稀なものではないかと思います。


私たちの率直な反省は、中国の皆さんにもっとわかり易く、きちんとした説明をしてこなかったことです。日本の美徳である、あまり相手の気持ちを悪くすることは言わない方が良いとする気風によるものです。こうした日本人の気風は、今や国際社会の中では一つの大きな欠点となってきていると思います。
率直な議論を通じて、お互いの違いがどこにあるのか、それを知ることがもっとも大事なことです。お互いの意見が一致する方が稀なことであるというように理解して、違いをお互いが認めるという大前提に立って二国間関係というものが確立していかなければないらないというように私は感じております。

家庭内におきましても、夫婦の相互理解というものはなかなか困難なことです。ましてや国と国との関係になってくるわけですから、日中友好の促進ですとか、一衣帯水ですとか、子子孫孫の友好ですとか、この言葉を実現させていくためには、お互い本当に違うところがあることを認め合いながら努力をし続けていくこと以外に方法がないと思います。

私どもは日中間にあるトゲのような問題、歴史認識、あるいは教科書問題、靖国問題についても、正面から問題を取り上げ、真摯に中国側の方々と議論を重ねていきたいと考えております。
今までの日中交流の中で特に欠けていた部分の一つは安全保障の問題です。私は日中間の相互理解の中でもっとも重要なことは軍人交流であると考えております。それは最も戦争が嫌いな人は軍人さんだからです。


現在、中国の少佐から大佐クラス、日本を知らない人民解放軍の方々に日本にお越しいただき安全保障交流を行っています。日本は防衛庁、自衛隊を挙げてこれに取り組み、横須賀の海上自衛隊、茨城県の百里の航空自衛隊、あるいは富士の自衛隊学校の実態を見ていただいております。また日本の自衛隊、防衛庁のOBの方々がこの人民解放軍の方々を自宅に招き、日本の市民の生活がどのようなものか体験していただいております。

もちろん日本側からも若い自衛官や現場で働いている青森県八戸の自衛隊、あるいは長崎の海上自衛隊にいる方々にも中国に行っていただき、交流の輪を深めていただいております。日本でも人民解放軍の皆様が来て、制服姿で様々なところを視察している姿がテレビを通じて多くの国民に知らしめることができましたし、日本人がもっている人民解放軍に対するイメージも相当変わったのではないかと思います。

ご承知のとおり、現在、日中間の政府レベルの防衛交流がストップしています。しかし“トラック2”、いわゆる政府間が機能しないときに、民間が機能しなければならないという理解は、残念ながら日本国政府よりも中国側の方が進んでおります。ですから艦船の往来、あるいは防衛庁長官の訪中も事情があり止まっています。政府間は、様々な国際政治、あるいは情勢の変化によって変わるものですが、民間人の日中友好は変わることはないわけです。私は特に安全保障分野の交流を更に拡大し、防衛庁、自衛隊と人民解放軍との間の更なる理解が深まるように努力をしていきたいと思います。


また許先生からご指摘がございましたけれども、国民大衆レベルでの相互理解、交流という観点からの文化交流の重要性、これを更に活発にすべしとのご発言がございましたが、私もこの件については全く賛成です。ここに国際友好聯絡会の蕭榕先生がおられます。?小平先生のお嬢さんですが、以前オーケストラを連れて日本にお越しなり、私は残念ながら東京にいなく聞くことがきませんでしたが、多くの感銘を日本の音楽ファンに与えたということです。日本には約850の伝統的な太鼓、創作的な太鼓がございます。私たちも10月には中国を訪問してそのような太鼓のパフォーマンス、あるいはクラッシクの音楽会を北京で25日、 26日で行うつもりですが、そのような文化交流も大変重要なことであると思います。

私は当面、2008年の中国におけるオリンピックを前にして、日本の新幹線を中国で走らせたいと、長い間願望を持ってまいりました。私は経済人ではございませんから金儲けをする必要はありませんが、30億人を運んで一人の事故もなかったという日本の誇る近代技術を中国に導入することによって、年間1億人を超える中国の方々がこれを利用していただくことが、どれほど日本理解のために役立つか。私は、日中間におけるもっとも象徴的な、もっとも効果のあるものが新幹線ではないかと思い、努力をしてきたわけです。


2008 年のオリンピックを目指し、中国の経済発展、そして国際的な立場もより強化されることは間違いありません。世界は既に今世紀に入りまして、欧州のEU、あるいはアメリカの自由貿易圏構想、あるいは近々では、議論の分かれるところですが、アフリカの指導者が自らの将来に対してはじめて方向性を打ち出したアフリカ・ユニオンという形もあります。私は中国とASEANとの自由貿易圏構想の締結が早からんことを願っております。

もちろん日本もそれに参加することにより広域なアジア経済圏における、より具体的な日本と中国の果たすべき役割というものが明確化してくるのではないかと思います。地政学的にも離れがたい両国です。素晴らしいアジアの実現と、そして世界のための役割が日中相協力することによって私は可能であると確信しております。

先ほど、許先生から若い世代の交流をもっと活発にするべきとのお話しがございましたけれど、それに私はもう一つ追加をさせていただきたいと思います。
どうも男は過去にこだわり、そして女性は子どもを育てる意味からも未来に向かってたくましい、という言葉があるそうです。これからも未来に向かっての日中友好をさらに促進するために、是非とも女性の力を借りたいというのが私の率直な意見です。

小異を捨てて大同につくと、という周恩来先生の言葉がございます。二国間、お互いの意見の相違を何が違うのかを認識しつつ、二国間がこれから未来永劫にわたって、協力関係を作るためには、両国の国民一人ひとりが注意深くお互いの違いを認識しながら、大同につくという精神が肝要かと思います。
どうも有難うございました。
(以上)