ただいま、ブルーシー・アンド・グリーンランド財団(B&G財団)の梶田会長さんからお話がございましたが、梶田さんは大阪万博が開催された箕面市の市長さんでいらっしゃいます。
住之江競艇場という日本一の競艇場を運営されながら、日本でいち早く下水道100パーセントの市を実現されました。また、競艇の収益金を市民だけのために使っていたのでは申し訳ない、できれば財政が豊かではない市町村にも広く使っていただきたい、日本あっての我々箕面市である、という非常に大きな志を抱いてくださる方でもあります。
同じように、全国に24ある競走場の市長さんたちも、「そうだ! 我々だけのためではなく広く日本国のために、また日本の将来を担う子供たちのためにも汗を流したい」と、こうした考え方に賛同していただき、このB&G財団ができたわけでございます。財団を創設した私の父、笹川良一も、社会の改革、改善は常に若者たちが行ってきた歴史があり、これからもそうであるべきという考えを持っていました。
皆さん方から、お叱りを受けるかもしれませんが、これからの日本を改革するのは、皆さん方ではありません。これから育つ青年たちこそが、将来の日本をどうするかを決めていくのです。
私は、様々なところから会合の出席を頼まれますが、近年、そうした会合には、ほとんど出席しておりません。何故なら、国が、政府が、役人が悪い、教育が、先生が悪いと、皆さん大変立派なことを口にいたしますが、実はそう言う我々の世代がこの日本国をつくってきたのです。ここにいる皆さんを含めて、私たちがつくってきた日本国なのです。
従いまして、今後どうするかは、実は我々に重大な責任があるのです。そこで私は、私自身の活動としまして、これからは35歳未満の人たちを対象に、これからの日本をつくる青年のためのチャンスの場をつくっていく仕事を、重点的にしていきたいと考えている次第です。
笹川良一は、実は小学校しか出ていません。造り酒屋の倅でしたが…当時、造り酒屋といえば、まあまあの家柄であり、ノーベル文学賞を受賞した川端康成さんとは同窓生で親友でした。川端さんは、中学校から東大へあがられましたが、私の父は小学校を出たあと、近所のお寺に預けられることになりました。
何故なら、大変なワンパク小僧で、小学5年生のときには同級生を集めてストライキをしていました。同級生を集めて山に連れて行き、山から出ないのです。どうしていたのかといえば、小枝を集めて薪をつくり、売りに出していました。とうとう、校長先生以下がそろってカンテラを下げて山に入り、「出て来い!」ということになりました。
また、学校に行くときは、家で竹棒を構えて待っており、迎えに来た同級生に肩車をさせて通学していました。いわば、自家用車付きで学校に通っていたのであります。
こういう男をそのまま上級の学校に行かせたら、必ず(将来)アカになる、当時は一般的にそう思われていました。皆さん、アカってご存知ですよね。最近では死語になりつつありますが、要するに、頭の良い子、リーダーシップのある人間は、必ず社会主義に染まる、共産党に入る、というように考えられていたのです。そのため、寺に預けられてしまったということです。
お寺に預けられた父、良一は非常に厳しい躾をされましたが、母親への恩義は忘れませんでした。後年、仕事で郷里の大阪へ帰ると、まず両親の墓参りをしてから所用に出掛けていきました。信仰心も厚かったのです。
成人してからの彼は、村会議員をやり、国会議員も務めました。戦前のことですから、議員になるといっても、今のような選挙ではございません。翼賛選挙といって、大政翼賛会の推薦のない人は、ほとんど落選する仕組みでした。非推薦者は、立候補しても警官がポスターを破って歩き、夜寝るときは床下に刑事が張り込んでいました。そのような選挙ではありましたが、彼は非推薦で立ち上がり、国会議員に当選し、裏の幹事長と言われるぐらいに大きな力を発揮しました。
また、ご記憶にない方もいらっしゃるかもしれませんが、社会党のなかにも右派と左派がありました。右派の代表は西尾末広という人で、後の民社党の系統になります。左派の代表は鈴木茂三郎という人でしたが、このような思想、信条の違う人たちとの深い交流があったというところにも、笹川良一の懐の広さと申しましょうか、男気の強さと申しましょうか、実にスケールの大きなところがありました。
こうした交流が後日、大変重要な役割を果たすことになるわけであります。また彼は終始、戦争反対論者であったことを加えておきたいと思います。このことに関しては、東大の佐藤誠三郎先生が書かれた「笹川良一研究」を読んでいただくと良く分かると思います。
「笹川良一は、どちらかと言えば右の人だから、戦争に賛成だったのだろう」と言う人がいますが、いったん事が始まったら国家のために力を尽くすのが当然で、それは世界中、皆そうしています。それなのに、いまの国会をご覧ください。イラク派兵が国会決議で決まった以上は、みんなで応援しなければならないのです。アメリカだって、半分の人は反対ですよ。反対ですが、大統領が決めたらそれに従います。それが民主主義というものなのだと私は思います。
国家の一大事にコソコソ山に隠れ、戦争が終わって多くの人が死に、傷つき、焼け野原になったところへ、「俺は平和主義者で戦争反対だった」と自慢し、それがすばらしい人であるかのような解釈がまかり通ってきたのが戦後の50年です。朝日新聞でも毎日新聞でもいいですから、戦前の新聞を読んで見てください。「これは勝たねばならない聖戦だ」と書いてありますよ。
そんなことを、皆が忘れてしまったんです。
さて、終戦になって占領軍のGHQが日本に来ました。すると、皆が逃げました。ある人は気が狂ったマネまでしました。それが、位階勲等をつけた陸軍大臣であり、海軍大将であり、貴族院のなにがしであったわけです。父は、国会議員の1回生ですよ。その人が、どうしてA級戦犯容疑者になるのですか。戦争を開始した、ならびに遂行した最高の指導者をもってA級戦犯となすと、書には記されています。国会議員1回生が、どうしてA級戦犯になるのでしょう。
彼は、戦争に敗れたあと、この国難から再び日本を蘇らせるためには自分が犠牲にならねばいけないと考え、演説をして歩きました。「食料をどうする」、「勝った国が負けた国を裁くのが法の正義なのか」と訴え続けたのです。日比谷公会堂でも、マイクは必要ありませんでした。ずっと奥まで通る大きな声で話したからです。また、その演説が優れていました。当時は、テレビなんてない時代で、講演会を聞きに行くぐらいしか楽しみなどありませんから、聴衆がドッと詰め掛け、そのなかで熱弁を振るい続けたのです。
「天皇制をどうする」、「天皇制を維持しないで日本国はやっていけるのか」とも問い質し、それを聴衆に紛れてCIA(アメリカ中央情報局)が聞いていました。そして、これから日本を治めていく上で大衆を惑わす扇動者がいたらやりにくいということで、彼は収監されてしまいました。