[ 2009-11-16]

現代の風景

石井 克則


《17》 学問への情熱 貧しさを乗り越えて

ラオスの子供たち
ラオスの子供たち

教育が大事なことは世界共通だ。しかし、世界各地で学校に通うことができない子どもたちが数多く存在する。日本もかつてそういう時代があった。貧困という現実と闘いながら、学問・教育への道を進んだ人に最近出会い、その思いを聞くことができた。貧窮の生活の中で炭鉱に身を投じて学費をためて学者になった松田恵明さん(70)と、母親の教育への思いを受け継ぎ、校長になった宍戸仙助さん(57)だ。2004年度の文部科学省の統計では、大学や専修学校など高等教育機関への進学率は74・5%になっており、教育環境は2人が育った時代とは大きく変化している。では、2人はどんな歩みをしたのだろう。

松田さんは、神戸市で生まれた。父親は絹織物製造販売業を営んでいたが、戦争のため疎開した出身地の福井県で商売を続けた。しかし、1948年6月28日のマグニチュード7.1の福井地震(死者3728人)とその直後の7月24-25日に発生した集中豪雨の影響で倒産、父親は単身北海道に渡った。北海道でも生活を立て直すことはできず、父親は不慮の死を遂げる。高校まで福井県で過ごした松田さんは「牧場を経営したい」という夢を抱き、父を追うように北海道に行き、働きながら酪農短大で学んだ。そのころから、牧場よりも大学に進み学問の道に進みたいと考えるようになった。

だが、進学して勉強する学費は全くない。大学に合格する自信もなかった。意を決した松田さんは、岩見沢市近くの炭鉱に働き口を見つけ、坑道を掘る作業に従事した。1年間の炭鉱生活で学費をためた松田さんは、札幌に行き、予備校に入った。最初に受けた模擬試験(英数国の3科目)では、360点満点で72点しか取れず、最下位だった。予備校からは「来年の受験は無理」といわれた。夜も勉強したいと粘る松田さんに、予備校は夜の部を無料にしてくれた。それ以降、この予備校で朝から夜まで最前列に座って頑張った。

半年後、松田さんは模擬試験で250点台まで成績を挙げるようになった。松田さんは翌年、北海道大学水産学部を受験し合格した。大学院を終えてから1968年に米国の大学に留学、その後1980年に帰国するまで米国の海洋研究所などで研究員生活を送った。帰国後は、鹿児島大学水産学部の教授となり、2005年3月に定年退職するまで大型海藻(こんぶ)を使った海の再生の研究などを続けた。学者としての道を歩んだ松田さんは、青春時代にともに炭鉱で汗を流した友人たちを忘れず、彼らとの交流をいまも大事にしているという。

北海道で苦闘の青春時代を送ったのは、松田さんだけではない。福島県で生まれた宍戸さんの母親も、生家が貧しかったため幼いころ、北海道の親類の家に里子に出された。学校へ行くこともできず働き手として育った母親は、成長すると結婚のため福島に呼び戻された。宍戸さんは12人きょうだいの一番下に産まれた。母親は宍戸さんたち子どもに「家には財産は全くなく、私は教育も受けていない。でもおまえたちが勉強したいなら、一生懸命応援する」と口癖のように言い続けた。そうした母親の思いを受け継いだ宍戸さんと姉の1人は、教職の道を選んだ。

宍戸さんは、幼いころの一つのエピソードをいまも鮮明に覚えている。ある日、宍戸家にこじきがやってきた。すると、母親は玄関口に招き入れ、握り飯を渡して食べさせたという。こじきが姿を消してから、宍戸さんが「あんなことは恥ずかしいからやめて」と母親に訴えると「あの人にいつか助けられるかもしれないのだよ。人は見かけで判断してはいけない」と、きつく叱られたそうだ。

そんな母親に育てられた宍戸さんは、小学生の高学年になると、自宅の物置を使って下級生に算数や国語を教える寺子屋を始めた。そのころから、既に教職を天職と考えていたのだろう。現在、福島県の南端にある矢祭町立東舘小学校の校長を務める宍戸さんは、ラオスの小学校との国際交流に力を入れている。小学校の子どもたちには「世界に目を向けて、夢や希望を持ちなさい」と言い続けており、9月には交流校のサラワン県ナトゥール小学校を訪問した。その際に接した子どもたちについて「どうしてあの子たちの目はあのように輝いているのだろう」と感想を漏らした。

子どもたちに人を大事にしなさいと教えた母親は、一番下の息子が教師の職業を選んだのを見届け、30年前に亡くなった。その母親を思いながら子どもたちに接する宍戸さんは、ラオスの報告会でラオスを含め、いま世界には学校に満足に行けない子どもたちがいることを説明し「世界中の子どもが幸せになるために、好きなだけ学校で勉強ができるようにしてやることが必要なのです」と語りかけた。

自分の努力で学者への道を切り開いた松田さんと母親の愛情で教職への夢をかなえた宍戸さん。松田さんは現役を離れて、「豊かな海の再生」というボランティア活動に精を出し、宍戸さんは校長という忙しい職務をこなす日々だ。2人の物事に積極的に挑戦する姿勢はいまも変わらない。



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