今日は、この街にいます。

《2》 新潟県魚沼市

《2》 新潟県魚沼市
雪のないスキー場は、いかにも間の抜けた空間である。急斜面が殺風景な肌を晒し、休業中のリフトは景観と釣り合わないまま所在なさそうである。しかし周囲を見晴らしたい者にとっては、すこぶる都合の良い展望台だ。眺望を遮るものがなく、何よりも人の気配の薄いことがよろしい。
ここは新潟県魚沼市の須原スキー場。私は標高555メートルの頂上に立ち、越後三山を望んでいる(写真・上)。その山塊は越後と会津・上州を隔てる越後山脈を形成し、眼下の谷は南から北(写真では右から左)へ、JR只見線が遡って行く。合併前は小出、広神、守門、入広瀬といった町村が点在していた。
その谷筋が「地のシワ」に見えて仕方ないのは、今日10月23日が中越地震の発生日だからだろうか。5年前、この一帯は震度7の烈震に襲われた。山は崩れ川は塞がれ、多くの人命が奪われた。麓では、ちょうど慰霊祭が行われている時刻なのではないか。
蒲原平野の南、新潟県南部から長野県にかけての山間部には、私がいま眺めているような「地のシワ」がいく筋も見られる。衛星からの、角度を強めたアングルで見る日本列島は、プレートの力で逆「く」の字型に大きく押し曲げられている。その「折れ目」にあたるのが新潟から長野あたりだ。
折れ目にはシワが寄る。シワは圧力が貯まった地震の巣であることを教えている。それは研究者にとっては常識なのだろうが、住民は体験によって初めて知る。高校生であった私も、1964年の新潟地震でそのことを知った。何の不安もなく生活している大地が、唐突に揺らぎ裂けた事実は、例えようのない恐怖であった。
地名としての「魚沼」は古代に遡る。「地のシワ」に定住した魚沼の先人たちは田を耕し、雪に埋もれ、時に地震に襲われながらもまた田を耕し、美しい上布をつむぎ、錦鯉を育て、日本一うまい米を作ってきた。人間の勤勉さ、生きる英知の積み重ねをこの大地に見ることができる。
しかし今度の地震はとりわけ激しかった。それ以来、人口の流出に歯止めがかからないと聞いた。地方経済の疲弊に加え、烈震という恐怖の体験が、去り難いふるさとに別れを告げる決断となるのだろう。私の地震過敏症は30年は治癒しなかった。さらに激しい体験をした魚沼の人々に、「5年」は生々し過ぎよう。
スキー場を北の麓に降りると、福山新田という集落があった(写真・下)。ちょうど見ごろの紅葉が山肌に燃えて、桃源郷かと見紛うばかりだが、人影はない。170人ほどが暮らすこの集落は、来年にはその半数が75歳以上という人口構成になるそうだ。このままでは遠からず集落の維持は困難になって行くだろう。
過疎と高齢化。日本の至る所で増殖するこの現象と折り合いをつける方策は、未だ見出されていない。今年度で3度目の時限を迎える「過疎地域自立促進特別措置法」は、当面、延長される方向のようだが、そのことだけで集落の限界状況が解決されるわけではない。
しかし世の中、捨てたものではない・・・かもしれない。離れて行く人々がいる一方で、「こうしたフィールドを仕事場にしたい」とやって来る若者もいるのだ。子どもたちの合宿や放棄田の復活、さらには林業作業車を駆使して里山整備にも取り組んでいる「魚沼伝習館」というNPOなどがそれだ。
この列島は、どこで暮らしても地震に無縁とはいかない。むしろ「地のシワ」地域は辛い体験を乗り越えて、田舎暮らしの素晴らしさを体感させてくれる場になるかもしれない。「5年目の1日」を歩き、その「地域力」を感じた。都市と地方のそうしたバランスがとれてこそ《豊かな国土》の看板を掲げることができる。
| 今日(2009.10.23)は新潟県魚沼市と南魚沼市を、NPO法人・魚沼伝習館のみなさんに案内していただきました。その紹介は「日本財団ブログ・マガジン」で。 |