現代の風景

《21》 いのちへの畏敬 生涯現役の日野原さん

《21》 いのちへの畏敬 生涯現役の日野原さん

「長生きをすれば人のために時間が使える」という言葉を聖路加国際病院理事長の日野原重明さんはよく使う。1911年(明治44年)10月4日生まれだから、98歳だ。現役として飛び回る日野原さんの言葉だけに説得力がある。2009年11月には、日野原さんより2歳後輩の俳優、森繁久弥(久彌)さんが亡くなった。明治末期から大正初めの世代が少なくなる中で、日野原さんの存在は、ひときわ輝いている。
日野原さんは、長い間小学生向けに「いのちとは何か」という授業を続けている。その延長で、千葉大学の日本財団寄附講義「いのちを考える」でも常連の講師として毎年教壇に立った。その中で医学部や看護学部の学生に対し、命の大事さ、平和の精神を説いた。学生と一緒にその講義を聞いたことがある。受講の学生は約450人。授業が始まっても私語を交わす学生や途中から入ってくる遅刻組もいてなかなか静かにならない。携帯電話でメールをしている学生もいる。
業を煮やした日野原さんはこう言った。「聖路加からアメリカに留学させた医師からの報告では、アメリカの大学で遅刻する学生はいないし、みんな前の方に座るそうだ。日本では遅刻はするし、席は後ろから埋まる」。さらに「もう居眠りをしている者がいる」と、そちらを指差した。日野原さんにこう言われて、さすがに室内は静かになった。しかし、この日の日野原さんは終始不機嫌で、授業が終わって控室で私が話を聞いている間も笑顔は見せなかった。途中で学生が入ってきて、将来の相談を始めると柔和な表情に戻った。そうした姿を見て、物事に全力を傾注していると感じた。
そんな日野原さんに言わせれば、定年世代の60歳の人たちは「まだまだこれからだ」で「自分で自分を教育すること、新しい人生に挑戦すると思えばいい」ということになる。自身も平均5時間しか睡眠時間を取らず、スケジュールは3年先まで埋まっており、食事も夕食は別にして朝はジュース、昼は牛乳とクッキーと簡単に済ますのが習慣だという。
講演や執筆活動に忙しい日野原さんが2008年10月に長崎市で開かれたmemento mori(メメント・モリ)という「ホスピス啓発セミナー」最終回で行った講演は感動的だった。「いのち・平和への願い」と題して、日野原さんは平和の大切さを訴え「子どもたちに命とは何かを教えることが大事なことだ」と力説した。結びには「私は西の方に向って立つと、97歳(当時)という長い影があるが、(神から)与えられた年月を全力で激しく生きていきたい」と、力強く言い切ったのだ。聴衆から大きな拍手が起きたのは言うまでもない。
日野原さんが凡人とは違うところは、仕事に対し常に前向きに考えることだろう。あるインタビューで「カナダの生理学者、ハンス・セリエはよいストレスと悪いストレスがあると説いているが、よいストレスは人間を前向きに成長させるバネになる。ぼくは他の人が負担に感じたり、嫌だと思うストレスをよいストレスにするのが得意なのかもしれない」と語っている。だからこそ、年齢を超越して、第一線に立ち続けることが可能なのだろう。
日野原さんは、各地の講演でノーベル平和賞の受賞者でアフリカの医療に生涯をささげたアルベルト・シュバイツァー博士について触れることが多い。シュバイツァーは、ドイツで牧師の子どもとして生まれ、小さいころから音楽を習い、神学、哲学を学んだあと、30歳になって医学を志した。38歳の時にアフリカ(ガボン)へと向かい、医療活動を始める。その後平和運動も行い、マザー・テレサ、ガンジーとともに20世紀のヒューマニストの象徴といわれている。90歳で亡くなったが、「生まれつき非常に頑健で、あまり疲れない体を持っていた」というから、現在の日野原さんと共通するものがある。
最後に日野原さんが千葉大で学生にシュバイツァーに関連して語ったことをついて記したい。
—シュバイツァー博士はアフリカで50年間医療奉仕をした。人生の最後には世界平和のために核兵器追放の運動もした。人の命を救うには公衆衛生の向上も必要だが、戦争をなくすことが大事だ。戦争を経験した私たちは、子どもたちが殺し合いをしないよう考えなければならない。それには『許す』という考え方を持ち、いい人間関係を維持することだ。米国は9・11テロに対し、それ以上の反撃をしたから100年戦争になってしまう恐れがある。平和こそが多くの命を救えることになるのだ。