現代の風景

《23》 冷たい風の中でも 山谷のきぼうのいえ

《23》 冷たい風の中でも 山谷のきぼうのいえ

「人々は忙しすぎます 何かに夢中で時間がありません 互いに微笑みを交わす暇さえないのです」。ノーベル平和賞の受賞者、マザー・テレサの言葉である。現代の日本人に向けられたような、はっとする表現だ。他人の行動に干渉せず、自己中心の風潮が進行する日本。社会の片隅で助けを求める人たちの声は、かき消されがちだ。マザー・テレサがインドで開設した「死を待つ人々の家」の日本版ともいえる在宅型ホスピスは、そうした人たちの救いの場になっている。
人は、自分が末期の病気で死が間もなくやってくることを知ったら、どうするのだろう。肉体的、精神的苦しみの中で日々を送ることはつらい。ホスピスで最期の時を迎える人もいるし、最近は自宅で家族に囲まれ、旅立つ人も増えてきたという。だが、簡易宿泊所が立ち並ぶ東京・山谷地区の住人たちは、ただ死を待つより仕方がなかった。そこに一人の男性が現れなければ、その状態は現在も続いたに違いない。
その男性は、山本雅基さん(46)という。ある日、山谷を歩いていた山本さんは、生気のない路上生活者が数多くいるのを目撃し、子どものころのつらい出来事を思い出した。広場に捨てられていた子猫を拾って家に帰ると、母親から「アパート暮らしなので、うちでは飼えない」といわれ、泣きながら広場に戻したのだ。あの時の子猫と路上生活者の姿が重なった。山本さんは大学の神学部在学中から小児がんや心臓病など難病の子どもの親たちを支援する市民団体でボランティアとして活動、卒業後は事務局長として働いた。しかし人間関係などで悩んでうつ病になり、団体をやめた。山谷を歩いたのは、病気からようやく回復し、自分でホスピスをつくることを考えていたころだ。
山本さんは、上智大学のアルフォンス・デーケン博士の社会人向けのホスピス・ボランティア講座で知り合って結婚した妻の美恵さんとともに、身寄りもなく末期のがんやHIVで苦しむ路上生活者のためのホスピづくりを始めた。借金と修道会からの寄付で2002年2月、緊急一時保護施設の「なかよしハウス」を開設し、この年の10月には在宅ホスピス「きぼうのいえ」の活動が始まった。
山本さんは、きぼうのいえについて「死を待つ人の家が原型だが、ここは命を生き抜く人の家だ」と強調する。こんなエピソードを聞いた。北陸出身の男性は、死を意識してから故郷に帰ることを願うようになった。長い間故郷を離れていて、彼の心の中には望郷の念が強くなったに違いない。
そんな気持ちを知った山本さんは付き添いの看護師を同行させ、帰郷させた。希望がかなった彼の喜びは大きかった。帰郷からあまり時を経ずして、彼は亡くなった。亡くなる直前、看護師は携帯電話のカメラで記念写真を撮ったが、その直後に彼は看護師の腕の中で息を引き取ったという。バブル期には6000万円の月収があり、ベンツの高級車3台とクルーザー2隻を所有していた男性は、バブル崩壊で全財産を失い、脳梗塞になってよだれを流し続ける状態できぼうのいえにやってきた。
4階建てのきぼうのいえには、祈りの部屋もあり、亡くなった人たちの遺骨も一時安置されている。2008年11月には、長野県伊那市の天竜川に近い霊園にきぼうのいえのお墓も完成し、身寄りのない人たち41人の遺骨が眠っている。
このきぼうのいえをモデルにした映画がことし1月30日封切りになった。山田洋次監督の「おとうと」だ。吉永小百合さんと笑福亭鶴瓶さんが姉と弟役を演じる家族をテーマにした映画であり「看取り」と「ターミナルケア」(終末期医療)の問題に目を向ける。鶴瓶さんが入所しているホスピス「みどりのいえ」のモデルになったのが、きぼうのいえだ。山本さんらきぼうのいえのスタッフが全面協力し、美恵さんや入居者もエキストラとして出演した映画は、人の死を看取ることへの強い思いが込められている。
山本さんが2006年に出版した本を加筆、再編集した「山谷でホスピスやってます『きぼうのいえ』涙と笑いの8年間」(実業之日本社)が1月に刊行された。この中で、山本さんは「ぼくたちは、日々の経験を通して、意識せずとも自分なりのターミナルケアにおける人間観、死生観、あるいは信念や哲学を学んでいく。(中略)いつもユーモアを大切にしながら、死をネガティブなものと見ないで、物質的存在からの解放と見る。死出の旅は悲惨や絶望ではなく、ふるさとへの里帰り、大いなる源への帰郷なのだ」と書いている。映画を見て、そんな山本さんの思いがよく伝わってきた。
山田監督は本の序文で「こんな素晴らしい人たちがいてくれるから世の中はそんなに捨てちゃもんじゃないと思える。こういう仕事はもっと広がっていくことがとても大事じゃないか」と記し、きぼうのいえに温かなまなざしを向けている。
マザー・テレサは、1979年のノーベル平和賞授章式で、記者の「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいか」という質問に答えて「家に帰って、家族を大切にしてください」と答えたことで知られる。きぼうのいえは、この言葉のように身寄りのない人たちを家族として受け入れ、ともに生と死を見つめる日々を送っている。