現代の風景

[ 2010-04-12]

現代の風景

石井 克則


《28》 バームクーヘンからホスピスまで 米国人建築家のヴォーリズの夢

夢は大きく
夢は大きく

米国人の建築家で実業家だったウィリアム・メレル・ヴォーリズは、東京五輪が開催される5ヵ月前の1964年5月7日、日本で亡くなった。85歳だから天寿を全うした人生だったといえよう。彼が世を去って46年になるが、ヴォーリズの「生きた証」は多くの建築物だけでなく、洋菓子のバームクーヘンとしても残されている。滋賀県近江八幡市には彼の名前を付けた病院もあり、そこには「希望館」という日本財団の支援で建設したホスピスも併設されている。ヴォーリズは「青い目の近江商人」といわれるほど日本を愛した。沖縄の米軍基地やトヨタ問題などで日米関係がギクシャクしているのを見て、ヴォーリズの存在を思い起こした。

ヴォーリズは1880年、米国のカンザス州レブンワースで生まれた。もともと建築家志望だった彼は、家庭の経済事情で入学が決まっていたマサチューセッツ工科大をあきらめ近くのコロラドカレッジ哲学科に入学した。そこでプロテスタンとして外国へ伝道に出ることを決め、卒業後の1905年、滋賀県立商業学校(現在の滋賀県立八幡商業高校)の英語教師として来日した。

3年後には、京都で建築設計事務所を開業するなど、日本で建築家としての歩みを始め、さらに「メンソレータム」(現在はメンターム)で知られる近江兄弟社の前身、近江ミッションや結核療養所(現在のヴォーリズ記念病院の前身)の設立など、実業家としての顔も見せる。日本の女性と結婚した彼は太平洋戦争が始まった1941年には日本に帰化、夫人の苗字をつけ「一柳米来留」(ひとつやなぎ めれる)と名乗る。「米国から来りて留まる」というしゃれだったという。

ヴォーリズが設計した建物は、現在も数多く残っている。伝道師としての顔を持っていたため教会の設計も行い、福島市の日本基督教団福島教会(1909年)をはじめ、いまも各地で美しい教会の姿を見ることができる。福島教会から数百メートル離れた同じ通りに新町教会(1927年)もあり、「ヴォーリズ通り」と呼ばれている。滋賀県高島市にも同じ名前の通りが存在するのだから、彼は大きな足跡を残したのだ。

ヴォーリズは教会以外でもミッション系の大学(明治学院、同志社、西南学院、神戸女学院)や郵便局、小学校、個人の邸宅まで幅広く設計した。彼が英語を教えた八幡商業高校の本館も彼の手になる建物だ。

終戦後、マッカーサー連合軍司令官と当時の近衛文麿首相が昭和天皇の戦犯問題で会談した。結局、昭和天皇は戦犯に問われなかったが、この会談を仲介したのがヴォーリズだという説が新聞の報道やノンフィクション作品で後になって公表され、戦後史の中にも名前が刻まれた。

ヴォーリズの幅広い人間性を思わせるのは、近江八幡市の洋菓子メーカー「たねや」とのかかわりだ。本店近くに住んでいたヴォーリズがバームクーヘンのつくり方を指導したのがきっかけで1951年から製造が始まった「たねや」の「クラブハリエ」というバームクーヘンは、現在日本で最も人気が高い商品といわれる。

ヴォーリズが愛した近江八幡は自然と街並みの調和がとれた美しい街だ。そんな街に彼の名前をとった「ヴォーリズ記念病院」(近江兄弟社運営)があり、その一角にはホスピス「希望館」が建っている。鉄筋コンクリート2階建のホスピスは、赤い屋根の落ち着いた雰囲気の建物だ。ヴォーリズは「建築の品格は人間の品格の如く その外装よりもむしろ内容にある」という言葉を残したという。各方面に多彩な業績を残したヴォーリズらしい言葉である。ホスピスを訪問した私はこの言葉を思い出しながら、内部を見て回った。

現在は、外国人は珍しい存在ではない。しかしヴォーリズが生きた時代の日本は外国人、特に米国人への偏見を持っていた。にもかかわらず、彼は建築をはじめ多方面で影響力を行使した。その基本にあるのは「品格」だったのかもしれない。見栄えよりも内容の充実を追求することを目標としたヴォーリズの生き方は、時代は変わっても私たちの指針となるものだ。




最新記事

現代の風景

《76》不安の時代をどう生きる  ムンクとピカソとトインビーと…

現代の風景

《75》60代からの挑戦  立山連峰とともに生きる作道さん


現代の風景

《74》みんなでやろう「おらほのラジオ体操」  被災地石巻から広がる笑顔の輪

現代の風景

《73》2011年も暮れる  東日本大震災を忘れまい