現代の風景

《32》 そこに彼がいる 職場に溶け込んだ青年

《32》 そこに彼がいる 職場に溶け込んだ青年

音のない世界に生きる聴覚障害者のある文章を読んだ。そこには「聴覚障害者の最大の関心ごと、悩みは仕事である。職業選択の自由といわれているが、聴覚障害者の就く職業は限られている。採用されるのは、聴覚障害者本人の意思とはほど遠いところにあり、仕事の内容も単純作業や定型業務、補助的業務が多い」と書かれている。いま、一人の聴覚障害の青年が日本財団で働いている。米国で長く暮らした青年は、職場に溶け込み、ひた向きに自分の道を歩み始めている。
日本財団には、海外での人道活動・人材育成のための国際協力を担当する国際グループがあり、吉田稔さん(30)はこの部署に席を置く。彼は私の問いに、生い立ちを淡々と話してくれたが、現在に至るまでの道のりは決して平たんではなかったはずだ。
吉田さんは1979年10月、京都市内で生まれた。父親は当時保険会社のサラリーマンで、3歳上の姉がいる。吉田さんは、1歳の誕生日前におたふく風邪にかかり、聴覚障害者になった。3歳で京都府立ろう学校の幼稚部に入ると、口話法(音声言語を発音させ口の形からそれを読み取り、健聴者と同じように音声言語によってコミュニケーションを行う)を習った。母親が片道2時間をかけて付き添う毎日だった。
会話はできるようになったが、他の聞こえる子どもたちとコミュニケーションがとれない。このままでは社会性も身に付かないと思った両親は卒園半年前、一般幼稚園に吉田さんを転園させた。小中校とも一般学級で学んだが、目が疲れてきて一日中集中するのは、容易ではなかったという。両親は、当時吉田さんに手話を習うことを勧めなかった。
しかし、小学校高学年の時、沖縄のろう学校の生徒たち高校野球の甲子園を目指す「遥かなる甲子園」というテレビドラマを見て、自分も手話をやってみたいと思った。ドラマの中で彼らは手話でコミュニケーションをとっており、それが気になり、親に内緒で手話サークルに入ったのだ。精神的に成長する転機だったといえよう。

「サークルでろう者のアイデンティティー(自己同一性、主体性)を持った人たちに出会った。これをきっかけにろうの仲間と一緒に勉強したいと考え、中学を卒業したらろう学校に戻ろうと思った」という。しかし、両親の反対で高校も一般高校(京都府立鳥羽高校)に進む。大学は外国語大学を受験しようとしたが、合格してもあとは自己責任で授業を受けてほしいといわれて断念、海外に目を向けた。敷地内に国立ろう工科大学(NTID)が併設されている米国のロチェスター工科大学(RIT)を留学先に選んだ。
1998年5月、米国に渡った吉田さんは、半年間英語学校に通ったが、口話による英語の習得がうまくいかず、米国手話を習う。翌99年9月大学に入学し、IT(ホームページの作成やシステム構築)を専攻した。そこでは1200人のろうの学生が学んでおり、人種、言葉の違いはあっても、同じ境遇を歩んできた人たちとの交流は、それまでの学校生活の中で一番楽しく、充実したものだったという。
インターンシップの1年を含め大学には5年在籍、2004年8月の卒業後4年間NTIDで働き、さらに06年にRITの大学院に入り、3年間公共政策の研究をした。修士論文は「電話リレーサービス」に関する研究だ。米国では聴覚障害者や言葉が不自由で電話でのコミュニケーションが困難な利用者のために、オペレーターが介在して即時双方向の会話を文字や手話などで中継する公的支援サービスがあり、このサービスの歴史的背景などを分析した。
大学院に進学してから国際協力の仕事をしたいと思うようになっていた吉田さんは、大学院を終えると2008年9月日本財団に飛び込んだ。そこには、生き生きと働く若い人たちの姿があった。しかし「コミュニケーションのモード(方法)が大きく転換したことに戸惑った」という。「コミュニケーションは、一方通行ではなく、お互いが取り合うことで成り立つと思う。耳が聞こえないから遠慮しているのかもしれないが、遠慮しないで話しかけてほしい」と吉田さんは訴える。最近、日本財団のサークルで手話を教え始めており、積極的に彼の方からコミュニケーションを取るように心掛けている。
吉田さんが学んだRITは、ニューヨーク州ロチェスター市にある。北海道・富良野のような広大な自然が広がっており、ここで10年間生活した。それと比べると、東京は落ち着かないという。在米時代は一人旅を楽しみ、8割近い州を回ったが、現在はそうした余裕はない。日本に戻って瞬く間に時が流れた感じがするという吉田さんに、いまの日本について聞くとこんな答えが返ってきた。
「日本の経済力のレベルは国際的にも高い。しかし日本の障害者が置かれている生活や労働環境の状況は他の先進国よりもかなり遅れている。障害者は一歩下がって生きている人が多いと思う。障害者が自分らしく、誇りを持って生きることができるような社会をつくりたい。後輩たちには夢や目標をもって勉強し、何らかの形でそれを実現してほしい」
私に話をすべきかどうか悩んだという吉田さんは、時にはにかみ、時には言葉を選びながら生い立ちを語ってくれた。その表情はとてもさわやかだった。「子どものころは親の教育方針が理解できなかったが、社会人になって親が願っていたことが分かり始めた。親のお陰でいまの私があるのです」という言葉が、私の心に響いた。