現代の風景

[ 2010-08-16]

現代の風景

石井 克則


《38》 ものづくりは挑戦する姿勢で 頑固な弦楽器製作者の思い

人の心を打つために
人の心を打つために

音楽を聴いていて、演奏者や歌い手のことに気を取られ、楽器のことにはあまり目が行かないが、名高い楽器も少なくない。バイオリンの「ストラディバリウス」やピアノの「スタインウェイ」は、代表的な名器として知られる。日本のヤマハ・ピアノも世界的に評価が高いし、無量塔(むらた)蔵六というバイオリンの名製作者もいる。京都府京丹後市出身の田中博もバイオリンづくりに生涯をかけた一人だった。田中が亡くなって20年の歳月が流れ、一人娘はいま、父親の故郷で音楽を通じた街づくりの活動を進めている。頑固一徹の職人気質の男が作ったバイオリンは内外の音楽家に愛され、そのいくつかは京丹後で大事に保管されている。

私の手元に「田中博 活動の軌跡」という冊子がある。田中の一人娘で、現在NPO音楽のまちづくり理事長を務める田中千穂さんがまとめたものだ。この冊子を読むと、田中博という楽器作りで生涯を送った男の姿が鮮明になる。人生は人との出会いが大切だが、田中の場合も楽器製作者と出会ったことで楽器作りへの道へと進んだという。

田中は1920年、京都府峰山町(現在の京丹後市峰山町)で生まれ、1938年に当時の京都府立工業学校(現在の府立峰山高校)を卒業した。後輩には野球の野村克也さん(1956年卒業)がいる。卒業後、丸紅京都支店に入社した田中は1年半で退社、翌39年12月には陸軍騎兵部隊に入隊し、40年に日中戦争最中の中国大陸に出征する。その後、戦闘で負傷して除隊、終戦の年の45年から実家に戻り療養生活を続ける。実家は主に公共事業を請け負う建設業を営んでいた。

長男だったから、そのままなら建設業の跡を継いだかもしれない。しかし、たまたま町内に疎開していた弦楽器製作者の峯沢峰三、泰三両氏に出会い、ギターやバイオリンの製作に興味を持ったのだ。2人から弦楽器作りの手ほどきを受けた田中は、その後独立して京都に移り、さらに3年間修行を積む。1956年に上京し、当時の大指揮者近衛秀麿氏の信頼を得て各地の演奏旅行に同行する。この後、田中は58年に青山に工房を構え、本格的に国内外のオーケストラのメンバーやソロ活動をする演奏家の楽器の製作、修理、調整に当たるのだ。1971年にはNHK交響楽団の顧問にも就任する。

田中はどんな楽器製作者だったのだろう。「とにかく怖い人で、機嫌が悪い時に行くとよく説教された。音についてはうるさく、奏法についても我々以上に客観的に物が言えた」(バイオリニスト、小林武史さん)、「田中さんがいてくださることで安心して毎年帰ってくる日本でした。ためになる毒舌に一生懸命耳を傾け、いろいろ楽器の勉強をさせていただきました」(同、前橋汀子さん)—などの声からは、厳しいが職人芸を発揮する姿を想像することができる。

田中は1978年、くも膜下出血で倒れる。その翌年には、彼の再起を願うチャリティコンサートがイスラエル出身のバイオリニスト、ロニー・ロゴフ氏の提唱で開かれた。それほど内外の演奏家に愛された。しかし仕事に復帰できないまま、12年間の闘病の末、90年1月、69年の生涯を閉じた。

日本人が初めて西洋音楽に触れたのは、1549年に日本にやってきたフランシスコ・ザビエルが持ち込んだ楽器だったというから、450年以上の歳月が流れている。その後、明治17~18年(1884~85)ごろに、日本人の手によって初めてバイオリンが製作され、その約60年後、田中もこの道に入り、ひたすらいい音を求めて名器作りに励んだのだ。

私は昨年9月、ラオスの山間部を訪問した。南部のサラワン県のナトゥール村は、電気のない村で、高床式の家が散在する農村だ。この村の唯一の小学校ナトゥール小には、バイオリンどころか楽器が一つもなかった。この小学校の子どもたち(1-2年生、62人)に一緒に訪問した姉妹校の福島県矢祭町立東舘小学校の宍戸仙助校長が東舘小の校歌をラオス語にしてプレゼントした。楽器はないが、子どもたちは若い校長の指導でそのメロディーを覚え、半年で自分たちの歌にした。宍戸さんはラオスの子どもたちに楽器を贈ろうと保護者らに呼び掛け、集めた楽器をラオスに送り始めている。宍戸さんは、音楽は人の心を豊かにすると信じているのだろう。

田中の娘の千穂さんも、音楽を信ずる一人である。自身は東京の青山で生まれ育ったのに、父の死後、京丹後に移り、音楽によるまちづくりの活動を始めたのだ。情報化社会とはいえ、地方の子どもたちが生の音楽を聴く機会はそう多くはない。そんな子供たちに、音楽に接する機会を与えようと、千穂さんは動き回っている。

田中は生前、あるインタビューで弦楽器の製作について「こんな複雑で個性的なものはない。これだと思うものができても、ほかにこれをはるかに越えたものがあることに気付く目を持っているわけで、つらいです。だけど、どうしてもできないものを作ろうとする心、それが魅力的だと思いませんか」と語っている。人の心を打つバイオリンやビオラなど、弦楽器づくりに挑戦する姿勢が伝わる言葉である。バイオリンの名器中の名器、ストラディバリウスを製作したアントニオ・ストラディバリも、数百年前、イタリアのクレモナで同じような気持ちを抱いて工房に入っていたのかもしれない。





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