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[ 2009-08-26]

【論点】 政治主導で「日本人」認定 フィリピンの日系残留2世


著者名笹川 陽平
記事タイトル【論点】 政治主導で「日本人」認定 フィリピンの日系残留2世
コラム名論点
出版物名読売新聞
出版社名読売新聞社
発行日2009-08-26

※この記事は、著者と読売新聞社の許諾を得て転載したものです。
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フィリピン残留2世が日本国籍の取得に向け裁判所に起こした「就籍」申し立てが却下されるケースが増えている。日本人の父と本人をつなぐ証拠が薄いのが原因。終戦の混乱と60年以上を経た歳月の流れで新たな手掛かりを発掘するのは難しい。

「生あるうちに日本人の証」を求める彼らの願いをかなえるには、中国残留孤児と同様、日比両国政府が2世を「日本人」と認め就籍を促進するしか方法はない。

援護行政を進める厚生労働省には、国の政策として両親が旧満州に渡った中国残留孤児と、父親が職を求めて渡比し現地女性との間に生まれた比残留2世は別、とする空気が強いと聞くが、ともに国の名で行われた戦争の犠牲者であることに変わりはない。政府の速やかな対応を改めて求めたい。

比残留2世は1995、97両年の外務省調査で約3千人の存在が確認された。うち約2千人は父親の身元や戸籍に本人の名が搭載されていることが確認され日本国籍を入手した。しかし残る2世は父親の身元が判明せず、日本国籍を取得できないまま既に半数近くが故人となった。

国籍を取得するには家庭裁判所の許可を得て新たに戸籍を作る就籍手続きしかなく、これまでに106人が東京家裁に申し立てを行い、28人が認められたが、最近になって6人が相次いで却下となった。

当時は日比双方とも国籍法で父系主義を採っており、残留2世が「日本人」であることに議論の余地はない。問題は裏付け資料の不足にある。しかし戦中、戦後の混乱で現地領事館に届けられた2世の出生届などが日本の役場に届かなかったり、比移民の過半を占める沖縄出身者の戸籍が沖縄戦で焼失したのは何ら本人の落ち度ではない。

戦後、現地に取り残された母親や2世が「敵国人の妻、子」としてゲリラの標的となり、山野を逃げまどううち、父との関係を裏付ける婚姻届や2世の出生届を捨てたのも戦争に伴う悲劇と言うしかない。

実態調査が行われるまで半世紀もの空白があるのは、関係者が自ら日系人を名乗ることができない厳しい状況が長い間、続いたことを示している。「比日系人連合会」の結成も92年と遅い。

1世の多くは戦前、戦中に職を求めて渡比、最盛期2万人が住んだミンダナオ島の港町ダバオには“リトル東京”と呼ばれる日本人町もあった。戦禍がなければ彼らが尊敬を集め豊かな暮らしをしていたのは容易に推察できる。

日本財団では中国残留孤児の国籍取得を支援し、日中両国政府が孤児を日本人の子と確認することで就籍手続きに道を開き、既に1250人が日本国籍を取得した。比残留2世についてもNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」と協力して国籍取得を支援しているが、厚労省と外務省のどちらを窓口とするか、いまだに決まらない現状はあまりに無責任と言わざるを得ない。

比政府は既に2人以上の証言があれば終戦時にさかのぼって婚姻届や出生届を新たに発行する遅延登録制度をスタートさせ、日本側の超党派の国会議員で作る「フィリピン残留日本人問題等特別委員会」が要請した法務、外務両省や入管局など比側窓口の整備にも前向きの姿勢を見せていると聞く。

中国残留孤児と同様、残留2世に関しても日比両政府が協力して名簿を作成し、双方が日本人と認め合えば、2世の就籍の扉は大きく開く。自分の名を漢字で書き、日本の歌を今も歌う2世をこれ以上、放置するのは許されない。国の名で行った戦争の犠牲は、国の名で償わねばならない。(了)


笹川 陽平(ささかわ ようへい) 日本財団会長
WHO(世界保健機関)ハンセン病制圧特別大使、政府の人権啓発大使。「人間として生きてほしいから」など著書多数。70歳。