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[ 2010-02-01]

外交に敏感力を


著者名笹川 陽平
記事タイトル外交に敏感力を
コラム名折節の記
出版物名月間『正論』
出版社名産経新聞社
発行日2010-02-01

※この記事は、著者と産経新聞社の許諾を得て転載したものです。
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トルコ建国の父、ムスタファ・ケマル・アタチュルクの銅像の移転・補修をお手伝いすることになった。

像は1996年、トルコ共和国の好意で新潟県柏崎市のテーマパーク「トルコ文化村」に寄贈された。その後、文化村は閉園、いったん市が買い取った後、民間会社に譲渡、像は2007年の中越沖地震後、「倒壊の恐れがある」として台座から外され横倒しの状態でシートにくるみ保管されていた。 

アタチュルクはトルコ語で「父なるトルコ人」。トルコ革命を指導し1923年から18年間、トルコ共和国の初代大統領を務め、救国の英雄として現在も国民の敬愛を受ける。事態はトルコでも「建国の父に対し失礼」と報道され、駐日トルコ大使館も問題解決に苦慮されていた。

本来、外務省の仲介で解決されるべき問題との思いもあったが、今年は日本とトルコの友好120周年に当たり迅速な解決が必要との思いもあって奔走。関係者の理解を得て銅像の移転にこぎつけた。

移転先は1890年にオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が台風で遭難した和歌山県・串本町。6月3日に行われるエ号の「殉難将士追悼式典」で除幕式が行われる予定だ。 
像は高さ4・2メートル、幅3・8メートル、総重量4・2トンの騎乗像。当初、大きすぎ分割しないと無理と考えられたが、道路使用許可を受けることで特殊車両による陸送が可能となった。いったん東京の船の科学館に移し外装などを整えた後、串本に運び、遭難慰霊碑が立つ紀伊大島の樫野崎灯台広場に設置される。

同町では1929年6月3日に天皇が慰霊碑に巡幸されて以降、5年ごとに慰霊祭が行われ、120周年を前にトルコのプロジェクトチームが遺品発掘調査を行っている。

そもそも、この国が世界でも有数の親日国であるのは日露戦争(1903~04年)で日本がトルコの前身・オスマン帝国の脅威となっていたロシアに勝利したことに由来するが、その10年以上前に起きたエ号遭難に伴う地元民の献身が帝国で大きく報じられた点が大きい。

明治天皇表敬のため派遣されたエ号は、帰国途中の1890年9月16日、串本沖で沈没、500人を超す乗組員が死亡した。地元民が総出で救出に当たり69人を救助、翌年1月、日本海軍練習艦が大砲や金銭など遺品とともにトルコへ送り届け、日本の厚意は今も語り継がれている。

日本では忘れ去られたエ号遭難が蘇ったのはイラン・イラク戦争最中のトルコ航空機による邦人救出。自衛隊機も日本航空機も飛ばせず日本政府が苦慮する中、トルコ政府が救援機を派遣しテヘランに足止めされた邦人265人を日本に送り届けた。「エルトゥールル遭難事故における日本人の献身的な救助活動をトルコの人たちは忘れていません」との駐日トルコ大使の事後説明で、救援機の派遣が“95年ぶりの恩返し”であったことを多くの日本人が初めて知った。

それにしても、私はかねて国際問題に対する日本人の鈍感ぶりが気になっている。四方を海に囲まれ、海に守られてきた故に、国境をめぐり厳しい攻防を繰り広げてきた各国に比べ「国」に対する意識が希薄ということかも知れない。2007年に死去したロシアのエリチィン元大統領の国葬では、各国首脳が参加する中、日本は駐ロシア大使の参列にとどめ、その判断に疑問が出た。海外の航空事故などで日本人客の有無に殊更にこだわるメディアの姿勢にも同様の違和感がある。

友好120周年の今年は、1月4日から「トルコにおける日本年」も始まり、岡田外相も首都アンカラでのオープニング式典に出席した。そういう時期であるからこそ今回も外交を視野に入れ対処する手があったはずである。外交には常に鋭い感覚、敏感力が必要である。近年、日本が国際社会の中で急速に存在感を失いつつあるだけに、余計その思いを強くしている。(了)