アメリカに今も残るハンセン病差別 ~カーヴィルを訪問して~
| 著者名 | 笹川 陽平 |
| 記事タイトル | アメリカに今も残るハンセン病差別 ~カーヴィルを訪問して~ |
| コラム名 | 【多磨1057号】 |
| 出版物名 | 多磨 |
| 出版社名 | 多磨全生園自治会企画編集委員会 |
| 発行日 | 2010-02-01 |
※この記事は、著者と多磨全生園自治会の許諾を得て転載したものです。
多磨全生園自治会に無断で複製、翻案、送信、頒布する等多磨全生園自治会の著作権を侵害する一切の行為を禁止します。
| 著者名 | 笹川 陽平 |
| 記事タイトル | アメリカに今も残るハンセン病差別 ~カーヴィルを訪問して~ |
| コラム名 | 【多磨1057号】 |
| 出版物名 | 多磨 |
| 出版社名 | 多磨全生園自治会企画編集委員会 |
| 発行日 | 2010-02-01 |
※この記事は、著者と多磨全生園自治会の許諾を得て転載したものです。
多磨全生園自治会に無断で複製、翻案、送信、頒布する等多磨全生園自治会の著作権を侵害する一切の行為を禁止します。
私は2009年10月初旬、アメリカ・ルイジアナ州に残る「カーヴィル」というかつての国立ハンセン病病院の跡地を訪問する機会を得ました。この病院は1884年に、アメリカ国内で唯一ハンセン病患者が入院できる施設として330エーカーの広大な敷地に設立され、1999年に閉鎖されるまで多くのハンセン病患者が隔離され、治療を受けた場所です。今回、カーヴィルに住むハンセン病回復者の方々にお会いし、アメリカにおけるハンセン病の歴史に触れ、また、1990年より前にハンセン病が制圧されているアメリカでさえも依然として回復者に対する差別が残っていることを知ることができ、大変貴重な訪問となりました。
10月2日、昼下がりのルイジアナ州の州都バトン・ルージュ空港に降り立つと、ふわっと夏の名残と秋の始まりを感じさせる風に出迎えられました。そしてもう一人、出迎えてくださったのが国立ハンセン病プロジェクトの理事を務めるジェームズ先生です。ジェームズ先生は長い間ハンセン病の研究をされていて、カーヴィルでも多くの患者さんを看てきた方です。
バトン・ルージュからカーヴィルまでは約20マイル(約30キロ)。体の大きなジェームズ先生の運転する車で30分ほど走ると、ミシシッピー川にぶつかりました。カーヴィルはミシシッピー川の向かいにあると聞いていたので、いよいよ近づいて来たかな、と左手に流れるミシシッピー川を眺めていると、ジェームズ先生がふいに車を止めて「ここが1884年に最初の患者さんが船で連れてこられた場所です」と川辺を指して教えてくれました。
私は車から降りて川辺まで歩いて行きました。単なる川辺ですが、私は歴史の重さをひしひしと感じ、患者さんたちは自分たちの運命をどのように思いながらこの地に降り立ったのだろうか・・・、おそらく不安でいっぱいだったのではないだろうか・・・そんなことに思いをはせてしばらくその場に立ち尽くしました。
そこから更に車で約5分走ると、カーヴィルに到着しました。入り口には患者さんが最初に収容されたという建物が当時のまま残っていました。他にも当時のままの建物がいくつか残っており、ここで亡くなった900名が眠るお墓もあると、ジェームズ先生が説明してくださいました。
患者が最も多かったのは1940年代で、450名の患者が住んでいたそうです。現在は軍の施設として使用されていますが、施設の一部に13名(平均年齢79歳)の回復者が住んでいます。
最初に案内されたのはカーヴィル・ハンセン病博物館です。博物館に入ると、ハンセン病回復者の一人、ピートさんが出迎えてくださいました。カントリーハットをかぶり、サスペンダーがお似合いのピートさんは週に数回、博物館のガイドとして働いています。今年で81歳、ここには58年間住んでいると言っていました。ジェームズ先生は、尊厳を保つことにつながれば、とピートさんのように施設内で仕事をしている回復者の方々にはわずかでもお給料を支払っている、とおっしゃいました。
1996年に開設された博物館は、100年あまりの歴史を語り、ハンセン病に対する国民の理解促進のために大変重要な役割を果たしているそうです。
かつては敷地の周りには有刺鉄線が張り巡らされ自由に外へ出ることは許されず、差別を理由に入院するとすぐに名前を変えさせられました。施設内にあるプールの使用は1990年まで禁止されていたといいます。
また、ハンセン病患者が子供をつくることを禁ずる法律(1960年廃止)や、選挙権を与えない法律(1945年廃止)などもあり、アメリカでも多くの差別が存在していたのです。

次に、ジェームズ先生はペリーさんという101歳になる方に私を紹介してくださるため、回復者の住む建物に案内してくださいました。しかし待ち合わせ場所となった図書館に、時間になっても現れないので皆で探し始めました。私は101歳の方がいらっしゃるなんて思いもしなかったですし、100歳を超える方であれば普通ならベッドに横になってらっしゃるのでは・・・など様々な憶測をしながら探していると、車椅子のご老人がひょっこりと現れました。「あー、いたいた、探したよ。笹川さんという日本からのお客さんだよ」とジェームズ先生が私に紹介してくださったのがペリーさんでした。どう見ても80歳くらいにしか見えません。念のためお年を伺うと、「歳かい?今年で101歳だよ!」としっかりと答えてくださいました。本当に、驚きました。私がお会いしたハンセン病回復者の方の中で、一番の年長者です。しかもとってもお元気そうなのです。
ペリーさんはフィリピン人で、労働者として18歳の時にアメリカに渡り、カルフォルニアのりんご園で働いていた時にハンセン病を発症し、1936年、28歳の時にここに来たそうです。
最後に私はなぜそんなに元気なのかを伺うと、「元気の秘訣はね、ギターを弾きながらフランク・シナトラを歌うことかな。あと、タバコもお酒も飲まないよ!」とにっこりと答えてくださいました。
ペリーさんとの出会いが私に元気をくれたのは言うまでもありません。
この訪問中にジェームズ先生からいくつか興味深い話を聞くことができました。いまだにこの大国アメリカでも差別が多く残っている、ということです。その原因は、インターネットで高校生が顔や手足が変形した人の映像を使ってハンセン病の説明をしたら、ハンセン病は恐ろしい病気だと多くの人が思い込んでしまったというのです。また、ハンセン病患者を診断した医師が「ハンセン病患者が発見され、大変だ!」とメディアに訴えたケースがつい最近あったとのことです。このことに対してジェームズ先生は「ハンセン病に対する正しい知識を国民や医師らに啓蒙する活動が急務だ」とおっしゃっています。私は大国アメリカでもいまだにこのような誤解や差別が残っていることに驚きました。
明るい話も聞きました。「People Magazine」という雑誌にハンセン病になった女子高校生の記事についてです。この記事は2008年の11月のもので、女子高校生はハンセン病だとわかると障害についての怖れと、クラスメイトから恐れられたことに嘆き悲しんだそうです。しかし、ハンセン病が治ると学校で自分がハンセン病であったことを堂々と語り、「ハンセン病になっても早く治療すれば治るから普通の病気と変わらない。差別するのはおかしい」と話しているとことです。そして今では彼女を差別するものはいない、と言います。
この件に対してジェームズ先生は「差別される側の態度によっても変わってくる」、とおっしゃいました。
この言葉を聞いたときに私は、インドの回復者組織のことを思い出しました。現在、私はインドのハンセン病回復者が差別を受けずに社会で生きて行けるためのお手伝いをしています。ハンセン病回復者の代表者会議をインド全国で開催し、差別されている当事者たちが声をあげる場を作り、そのメッセージを大統領や首相、それぞれの州の要人に届けています。
ジェームズ先生がおっしゃるとおり、声を上げる当事者の態度がとても重要です。しかし、インドではまだまだハンセン病にかかる人は神から罰を受けたと思っている人も多く、なかなか難しいのも実情です。しかし、この高校生のとったすばらしい態度は、インドでも当事者が少しずつ変わっていけば、国民や社会も変わっていける、という私の持つ信念を揺るぎないものにしてくれました。
最後に日本人のトキコさん(仮名・80歳)について特筆しておきます。トキコさんは鹿児島県出身で、沖縄基地で働いていたときに発病して差別を体験。1969年に治療のために渡米し、それ以来、ここに住んでいらっしゃいます。事前にジェーズ先生が私の訪問を彼女に伝えてくださっていたのですが、会うことは叶いませんでした。その理由は、彼女は自分がアメリカにいることが、万が一日本に住む家族・親族に知られたら困るからということです。
トキコさんは、お茶の時間にクッキーを焼くなど、お料理上手でとても明るい方だといいます。彼女の心のうちを伺い知ることはできません。しかし故郷を捨てなければならなかった彼女の気持ちを考えると、胸が痛くなります。何も悪いことをしていない彼女が40年もたった今でも日本を遠ざけてしまっている「ハンセン病」という病気がもたらした重大な罪について改めて考えさせられました。そしてそれを作ったのは我々人間であるということも・・・・。
語られること、語られないこと、多くの歴史を残したカーヴィルという土地で、短い時間でも多くを学びました。世界には当然のことながら私が知らないことがたくさんのことがあります。知らないだけではなく、考えも及ばないことも・・・。この旅で、現場に足を運び、自分の目で確かめることがどれほど大切であるかということを再認識することができました。