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[ 2008-10-27]

日本ゆかりの地で日本クイズ大会 鑑真の寺・203高地の街
~日本科学協会~


203高地「日露戦争の激戦地」

 日本科学協会が日本財団の支援で実施している日本知識クイズ大会。ことしは10月下旬、江蘇省揚州市と遼寧省大連市で開かれた。両市とも歴史的に日本にゆかりの深い都市であり、今回訪中した日本側関係者はその原点ともいえる2つの場所を訪れた。唐招提寺を建立した名僧、鑑真が住職を務めた揚州の「大明寺」と日露戦争の激戦地旅順の「203高地」である。そこは、観光客に開放されているとはいえ、訪れる人は少なかった。


鑑真の故郷

クイズ大会(揚州市)
クイズ大会(揚州市)

 鑑真は688年に揚州で生まれ、14歳で出家し修行の末大明寺住職になった。その後日本側の要請で来日(5回の失敗の末)、66歳の時に日本に到着。日本の律宗(戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派)の開祖といわれる。奈良の唐招提寺には、鑑真和上坐像の彫刻作品が残されている。

 

 来日前に鑑真が住職を務めた大明寺のある揚州市は、中国第二の都市上海から車で約3時間半の地方都市。人口は約467万人。中国清朝時代の傑作小説「紅楼夢」の舞台ともいわれる。大明寺は、仏教大学である「鑑真学院」を運営しており、今回の「華東地域クイズ大会」は同学院内で行われた。


大明寺
大明寺

 大明寺は、名勝地痩西湖から少し坂道を上った丘にある。階段を上り境内を奥に入ると、鑑真記念堂があり、正面には唐招提寺の鑑真和上坐像の模象があった。唐招提寺から和上坐像が提供され1980年に里帰り展を開催、坐像は2007年に唐招提寺に返されたが、この彫刻を模した坐像が記念堂に飾られたのだ。

 
 


能修住職
能修住職

 大明寺の能修住職は、クイズ大会に参加した学生に対し「あなたがたのような若者がいるから私たちは中日友好に自信を持つことができる。中日の新しい歴史のために鑑真のような若者に育ってほしい」と述べ、苦難の末に日本に渡り、仏教のために尽くした鑑真こそが日中友好の原点であることを強調した。日本財団の尾形武寿理事長も「日本人は鑑真和上の功績を忘れることはできない」と、日中の歴史の中で鑑真が果した役割を高く評価した。

 鑑真は、日本では知られた存在だ。中国でも、坐像が里帰りした際には、大明寺への拝観者が後を絶たなかった、現在その熱気はなく、人影も少なかった。しかし、静かな境内を歩くと、なぜか心が安らぐのに気がついた。


大連・激戦地203高地

 揚州に次いで「東北地域クイズ大会」が開かれたのは、遼寧省大連市の大連外国語学院だ。同学院は、以前は大連市の中心部近くにあったが、2007年に大部分の学部が遼東半島突端にある同市旅順口区の広大なキャンパスに移転した。中国東北地方唯一の外国語大学だ。現在、約7000人が日本語を学んでおり、日本科学協会から寄贈された日本語図書は約27万冊になる。クイズ大会には日本財団の笹川陽平会長も出席、席上大島美恵子日本科学協会会長とともに大連外語学院の名誉教授号を受けた。

 大連は人口620万人。1905年から1945年まで日本が租借地にしていたため、当時は日本人が多く住んでいた。現在の大連は日系企業も多く、学生の日本語熱も高い。クイズ大会個人戦優勝の曲璐璐さん(大連外語学院)ほか、クイズ大会参加者には日本への留学経験を持つ学生も少なくなかった。曲さんは10月初めに留学先の群馬県(群馬大)から帰ったばかりで、クイズ大会の準備期間がほとんどないままに参加し、見事優勝。「来年群馬大の大学院に留学したい」という希望を話してくれた。曲さんだけでなく、日本語を生かした仕事や教師の道を考えている学生が多く、大連外語学院の名誉教授号を授与された笹川会長は「いつか講演する機会をいただき、学生の日本語の勉強度合いを見せてもらうのを楽しみにしている」と語った。


203高地「頂上から見渡せる旅順港」
203高地「頂上から見渡せる旅順港」

 クイズ大会後、笹川会長一行は、日露戦争の激戦地、203高地を訪れた。旅順口区は軍港であり、周辺の一部はいまも立ち入りが禁止されている。203高地(標高が203メートルであることからこの呼び名が付いた)は旅順の旧市街地から北西2キロにあり、日露戦争当時の激戦地だが、1997年から日本人観光客にも開放された。駐車場でバスを降り、マイクロバスで5分ほど細い山道を上ると、すぐそこが頂上だった。

 


203高地「璽霊山」
203高地「璽霊山」

 頂上からは、旅順港が見渡せる。日露戦争当時、旅順郊外から旅順港停泊中のロシア艦隊に砲撃する際、弾着を観測する兵を配置するのに最適な場所であるとして、この高地をめぐって日本軍とロシア軍が激しい攻防を繰り返した。その場所にはいま「璽霊山」と碑文が書かれた大砲の残骸でつくった忠魂碑が建っていた。璽霊山という名前は、2人の息子を含め1万5000人をこの戦いで失った乃木大将が付けたという。

 1904-05年の日露戦争当時、はげ山だったこの203高地も、その後中国政府の手で植林が行われ、現在は緑に覆われていた。平日とあって、ここも人影はまばらだったが、軍関係者も視察に来ることがあるという。その203高地から見える旅順は、大連外語学院など新しい教育施設が林立する教育の街へと変貌を遂げていた。