[ 2010-01-18]

今日は、この街にいます。

加藤 春樹
加藤 春樹


《13》 新潟県胎内市


上越新幹線を新潟駅で「特急いなほ」に乗り継ぐと、37分で中条駅に着いた。新潟県北部の街・胎内市。私の記憶では中条町という旧町名の方が据わりがいいのだけれど、黒川村と合併して胎内市になった。晩秋の午後7時近くだから、日はすっかり落ちている。それにしても街の「暗い」こと! 上弦の月が懸かっているものの、月光は地上に届く前に闇に吸い摂られ、むしろ「漆黒」を際立たせている。懐かしくなる「街の暗さ」である。

昔、街は早々と暗くなった。ここにはその「昔」が残っている。部活帰りらしい少女が二人、影となって通り過ぎて行く。暗い街路の奥には、明るく暖かい団らんが待っているのだろう。たまに通りかかる車のボディーカラーは見分けがつかないが、テールランプがやけに明るく遠ざかって行く(写真・上)。人口3万2000人。工業団地への企業進出で賑わった街が、工場の海外移転で勢いを削がれ、スキー客で潤った観光も下火になりつつある。

翌朝、ホテルの屋上から俯瞰すると、他にビルらしい建物は市役所くらいだから、完璧な眺望が楽しめた。西は日本海で、津軽なら屏風山と呼ぶような、松林らしき砂丘が緑のベルトを霞ませている。320年ほど遡ることができれば、奥の細道から帰る芭蕉を見かけるだろう。東は小高い峰が連なる櫛形山脈が塞ぐ(写真・下)。この街の数少ない日本一で、全長が14キロしかない「日本一小さな山脈」だ。奥の飯豊山から胎内川が流れて来て、日本海に注ぐ。

私は高校卒業まで新潟市で育った。だから新潟のことはそれなりに知っていると思っていた。しかし今はその思い上がりを恥じている。胎内川の周辺を案内していただいて、このあたりのことは全く知らないのだと、痛いほど思い知らされたのだ。関心は常に中央(東京)を向いて、ちょっと離れた県内の街のことには無関心だったのだろう。「少年のふるさと」の範囲とは、かくも小さなものなのか。

ただ「あの雨」は記憶している。1967年8月26日から3日間降り続いた羽越豪雨だ。夏休みで帰省していた新潟市でも、息苦しくなるほどの異様な雨脚だった。そして北の方、荒川や胎内川あたりで集落が全滅しているとニュースが叫んでいた。「全滅」とはいったいどういう事態か、イメージできなかった。今回「越後胎内観音」を訪れ、殉難者の供養が続けられていることをしっかり記憶した。

額田王(突然ながら)が「あかねさす・・・野守は見ずや君が袖振る」と詠った、天智天皇の蒲生野ハイキングの2ヶ月後、日本書紀は「越国獻燃土與燃水」と記述している。旧黒川村に今も残る原油湧出地から、くそうず(原油)が献上された記録だという。いまそこは、掘削櫓と資料館が整備され、油臭さが漂っていた。毎年7月、古式により「臭水」が採油され、滋賀の近江神宮に献上されているのだとか。目が眩みそうな歴史遊泳である。

奥山の荘。何とも響きのいいこの呼称は、中世胎内地域を指す。鎌倉武士が移り住んで勢力を競い、重要文化財の荘園絵図を残している。ここはまた巴御前と並ぶスター・板額御前の活躍の地でもある。市役所前には、絶世の美女とも伝わる板額の、武者姿像が建つ。こうした史実を学んで往事の山城・鳥坂城に登り、奥山荘を眺めてみると、ここの時計は源平の時代から止まったままではないかと、また立ち眩みが起きそうになる。

鎌倉時代以来のライバル意識が根強い地域が合併して、さてこれからの時代、どうやって街づくりを進めて行くのだろうかと気になった。しかし心配ご無用らしい。次代を担う若手経営者らが、大人たちを担いで地域起こしに熱を入れており、さまざまなイベントで住民の融合を図っているという。子どもたちもたくさんのダンスグループを結成するなど、元気いっぱいだ。

「胎内(たいない)」は、越後においてはさほど違和感のない地名なのだが、全国的には珍しい部類に入るだろう。由来はアイヌ語説などいくつかあるようで、中央を流れる川(胎内川)が途中、胎の内に潜るかのように地中に隠れる様子から名付けられた、という説が面白い。今年の新潟は雪が深いようだ。しかしその雪の下でこの街は、黒光りするタールのごとく艶やかさを増しているのではないか。そして遠からず、この風変わりな地名は珍しくなくなる。そんな予感がする。


奥山荘を歩いた日(2009年10月23−24日)、「ふるさと奥山の荘」というNPO法人が企画した「ご当地まつり」の話を聞いた。その紹介は「日本財団ブログ・マガジン」で。


最新記事

今日は、この街にいます。

《20》 北海道小樽市

今日は、この街にいます。

《19》 山形県米沢市


今日は、この街にいます。

《18》 北海道夕張市

今日は、この街にいます。

《17》 香川県高松市