今日は、この街にいます。

《14》 愛知県蒲郡市

《14》 愛知県蒲郡市
「藤原俊成」という名前はもちろん知っている。ずっと昔の雅な時代、偉い歌詠みの中の大きな名前として教わった。そして息子は、さらに高名な藤原定家ではなかったか。しかしこの程度の知識しかないものだから、その俊成さんが蒲郡の海辺で、沖合を見つめていたのには驚いた。平安時代の終わり近く、三河の国司になった俊成は、蒲郡の開発に当たったと『吾妻鏡』に書いてあるのだそうで、そのことに感謝する840年後の住民たちが建立した像だという。
蒲郡は、よくできた景勝地である。丘に建つホテルから見晴らすと、湾に浮かぶ小島「竹島」と松の緑は、まるで人の手で創られたかのように整った風景を生み出している(写真・上)。そこは、伊勢湾という大きな内海の中で、知多と渥美の二つの半島が、腕を延ばして二重に守っている三河湾の、そのまた奥の小さな岬で仕切られた渥美湾(三河港)の最奥部なのである。三段構えで外海の風波を避けている、まるで深窓の令嬢のような土地だ。
俊成の時代、このあたりの地名は竹谷、蒲形という表記であったというから、竹や蒲が繁る寒村だったのだろう。国司になっても都で暮らしていたらしい俊成さんは、蒲郡の風光を愛でて、といったロマンチックな動機で開発を指示したのではないだろうが、それでも昭和9年、竹島と向き合う丘に「蒲郡ホテル」が建設されたころには、国内有数の保養地として蒲郡の位置は定まっていたのだろうから、俊成さんの功は認めていい。
そのホテルに泊まって街を歩いた。リゾートのシーズンではないから人影は薄く、三谷の漁港あたりも静かな時間が流れていた。蒲郡ホテルは大手ホテルチェーンの傘下に入って名称も変わったけれど、城郭のような屋根をもった和洋折衷の3階建ては、蒲郡のランドマークとして贅沢な雰囲気を保っている(写真・下)。老朽化を感じさせるところはあるものの、それを補って余りある庭園と眺望を備えていた。
ホテル備え付けのパンフレットによると、建設費40万円は「大蔵省が30万円を拠出、名古屋の実業家が10万円を寄付」し、政府の国際観光旅館第1号に指定されたとある。国策ホテルだったのだろうか。華やかだったのは昭和40年代ころまでで、55年には廃業に追い込まれている。閉鎖中の7年間は市が庭園を管理していたのだそうで、このホテルの盛衰が、リゾート地・蒲郡の賑わいの変遷そのものであるようだ。
「深窓の令嬢的盆栽美」が特徴の蒲郡は、高度成長期に入って1億総レジャー時代になると、いささか物足りない観光地になったのかもしれない。また名古屋から列車で1時間程度という便の良さが、マイカー時代には日帰り圏となってホテル経営を圧迫したのか。それでも「天下の奇祭・三谷(みや)祭」は続いているし、蒲郡が「恵まれた地」であることに変わりはないのだから、そのうちまた俊成さんが現れて、新しい賑わいを創ることだろう。
ちなみに蒲郡ホテルのようなクラシック・ホテルの全国連携があるようで、奈良ホテル、日光・金屋ホテル、箱根・富士屋ホテルのパンフレットも置いてあった。私はこのうち奈良ホテルしか知らないが、奈良にしても蒲郡にしても、建物探検が楽しいし、庭が心地よい。また利用した文人や作品に思いを馳せる楽しみもある。こうしたホテルが残っていることは、大げさにいえばこの国の文化的層の厚さを保持しているようなものではないか。
2階のバルコニーでいただく朝食は、焼きたてのパンとオムレツだった。眺めが味を、さらに美味しく引き立ててくれる。こうしたホテルの難は、いささか料金が高いことで、朝食の客は3席4人でしかなかった。そのうちの私は、レイトチェックイン・プランという割引コースの、ホテルの売り上げには貢献度が低い客だった。それにもかかわらず、珈琲を3杯もお替わりする横着な客でもあった。
朝、橋を歩いて竹島に渡った。島の主は八百富神社の市杵島姫命という神様で、俊成さんが琵琶湖の竹生島から勧請したのだとか。江ノ島を手のひらサイズにしたような、土産物店が並ぶスペースさえないことがいい。神社は高台の天然林に覆われていて、その裏に回ると島を巡る細い道に出る。岩の上でおじいさんが、三河湾に向かって屈伸運動の最中だった。日本中のウォーキングじいさまで、最も贅沢なステージを独占している、との自覚はなさそうだった。
| 蒲郡を訪ねた日(2009年9月29−30日)、三谷の港近くを歩いていると、地元のNPOが運営する作業所の広場が賑わっていた。その様子は「日本財団ブログ・マガジン」に。 |