今日は、この街にいます。

《19》 山形県米沢市

《19》 山形県米沢市
「シャッター通り」などという寂しい言い回しは、いつから使われるようになったのだろう。商店街、それも長く地域の中心繁華街として賑わって来た通りに、シャッターを閉じたままの空き店舗が次々と増えて行く。全国にそんな例が珍しくなくなるにつれ、この言葉が定着した。私がその現象を、統計データによって確認させられた街が米沢だった。繁華街で18年間にわたって続けられた通行量調査の、衝撃的な数字を見せられたのだ。
米沢商工会議所は1980年から市内の商店街にいくつかの定点を設け、毎年7月の最終日曜日の午前8時から午後6時まで、そこを通る歩行者や車の通行量を調べた。それは1998年に終了したようだが、私が初めてこの街を訪ねたのは、その最後の調査を終えたころだった。米沢城跡(写真・上)などを案内され、市の中心部を抜けて山形市へ移動したのだが、通りかかった商店街は「地方の街はだいたいこんな様子」といった印象だった。
しかし実際は、ピークだった81、2年に比べ、ほとんどの観測地点で通行量は10分の1以下に激減していたのだ。駅前から延びて来る平和通りが、置賜地方を代表する目抜き通りとなる靴屋さんの前は、ピーク時(昭和56年)には1万6357人が通行していたのに、17年後の同じ日は1454人しか通っていない。近くのデパート前は1万1305人(昭和57年)が1001人に減っている。この間、市の人口はほぼ横ばいなのに、である。
会議所は「空き店舗が増え、業種の構成不足によって魅力が低下する一方、周辺の施設が充実して消費者が離れた」と分析している。それから12年、再び米沢を訪ね、デパート前の「定点」から靴屋さん方向を写したのが下の写真だ。木曜日の午前10時4分、通りには車が一台駐車し、その脇に女性が一人立っている。ほかに人の気配を探すと、アーケードの上で雪降ろしに取り組んでいるおばさんがいた。
開店直後のデパートをウインドウ越しに覗くと、来店客を迎えようと店員が整列している。しかし客の姿はなく、私は気後れして入りそびれた。こうした閑散とした風景は、米沢に限ったことではない。いま地方を歩けば、ほとんどの街で目にする光景だ。とはいえ全国でデパートの閉店が相次いでいる現在、地元資本らしい小さな百貨店がこうした通行量の中で営業を続けている、その頑張りもまた興味深い。
米沢は、置賜盆地の中心の街で人口9万人。山形県では4番目の規模の街だ。開通して10年になる山形新幹線が、福島駅で切り離されて奥羽本線に合流し、板谷峠を喘ぎながら登り切ると広がる街が米沢だ。新幹線は米沢—上ノ山—山形—天童と城下町を結んで北上するが、藩の規模は米沢15万石が最も大きい。しかも謙信以来の上杉藩は会津120万石の大藩だったのだから別格で、市民が今も「上杉の城下町」を誇る気分は頷ける。
しかしこのところ、人口はじわじわと減り続けている。移動手段が進歩し、道路網も整備されれば、人間の生活範囲は広がって、従来の街と街の程よい距離のバランスは崩れる。そこでいったん、古い街は顧みられなくなり、シャッター通りが増えて行く。そんな具合に消えて行く街もあれば、頑張り続ける街もある。米沢は頑張っているけれど、人影は希薄だ。しかし状況は再び変化し始めている。社会の高齢化がそれだ。
中心商店街の歩行者数が減少に向かった80年代前半は、日本経済がバブル景気に浮かれ始めたころだ。誰もが車を駆って郊外の大規模店で消費を楽しむことを望んだ。しかし年齢を重ねて人々は、ご近所の商店街が持つ利便性を思い出したようである。旧繁華街の人波がピークアウトして30年、日本はまた、街の構造の変わり目を迎えている。米沢の「定点」付近には、「地域振興に大同団結」と彫られたモニュメントが建てられていた。
今でも使われているかどうか確認していないが、米沢の旧士族らを指す「ザワ衆」という呼称があるそうだ。120万石が30万石に減封され、遂には15万石に削られながらリストラは避けた「清貧の思想」の上杉藩だから、雪に埋もれても歯を食いしばり、「本国越後」などとうそぶいている頑固な気風が窺える響きだ。豪農の居館程度にしか見えない城跡も、村社のような上杉神社も、いっそいさぎよい。
街かどに「置賜地区は《おしょうしな》の街」という看板が立っていた。「ありがとう」の方言だという。それを見て、越後では《しょうしい》という言い方があることを思い出した。「そんげらこと、しょうしいコテ」などと、「気恥ずかしい」といった意味で使われる。この言葉も直江兼続につながる「ザワ衆」らが用い、変化しながら定着して行ったのだろうかと考えてみたが、確かめる術がない。
| 今日(2010年1月21日)は米沢を経て、置賜の地域おこし活動を訪ねた。その話は「日本財団ブログ・マガジン」で。 |