医療面の取り組み~病気の制圧に向けて~

ハンセン病治療法の開発

ハンセン病は、らい菌が発見された1873年以降にようやく本格的な研究・治療の対象となりました。当初は“大風子(だいふうし:アジア原産のイイギリ科の落葉高木)”の種から作られた“大風子油(だいふうしゆ)”の筋肉注射が治療として広く行われていましたが、病状の再発も多く、効き目は不確実でした。1943年、プロミン(スルフォン剤)の静脈注射がハンセン病治療に有効であることが確認され、1950年代からは、プロミンの有効成分を抽出して経口剤としたダプソンが世界的に使われるようになりましたが、やがてダプソンに対する耐性菌の発現が世界的に報告されるようになりました。

1980年代、ダプソンに、リファンピシンとクロファジミンという2種類の薬を組み合わせる多剤併用療法(Multidrug Therapy; MDT)が耐性菌の発現を防ぐ治療法として開発され、1981年にはWHO(世界保健機関)はMDTをハンセン病の最善の治療法として勧告しました。 MDTは安全で、再発率が低い極めて有効な治療法であり、経口薬であるため日常生活において容易に管理できます。薬は1ヶ月単位のブリスターパックで処方され、6ヶ月から12ヶ月の投薬でハンセン病は完治します。最初の投薬の直後から、患者から周囲の人にハンセン病が感染することはありません。

日本財団とハンセン病との関わり

日本財団は1960年代より、ハンセン病支援を実施する財団法人藤楓協会を通じて日本国内のハンセン病療養所の図書館や集会所の建設、車両の購入資金などを協力してきました。また海外においては、笹川良一会長(当時)が私財によりインド、フィリピン、台湾、韓国等においてハンセン病施設の建設などの支援を実施していました。日本財団がハンセン病の活動の輪を世界的に大きく広げるきっかけとなったのは、治療薬プロミンの合成にはじめて日本で成功した石館守三博士(東京大学名誉教授)と協力し、海外のハンセン病対策事業の専門機関として笹川記念保健協力財団を1974年設立したことでした。同財団の初代理事長に就任した石館博士の「ハンセン病対策は公衆衛生事業として各国政府当局が取り組まなくては現実的な成果につながらない」という信念から、翌1975年、各国保健省に対するアドバイザー機関であるWHOのマーラー事務局長(当時)と協力関係を確立し、本格的に海外での活動が始動しました。以来、日本財団は笹川記念保健協力財団と連携をし、WHOを主要パートナーとすると同時に様々なNGOとも協力し、国際会議の開催、ハンセン病対策従事者の育成、現地技術協力、ハンセン病の研究、教材の開発・供与、広報啓蒙活動、薬品・機材援助等を中心に取り組みを拡大していきました。

ハンセン病制圧への道

MDTによってハンセン病が治療可能な病気となったことから、1991年にWHO総会は、“公衆衛生問題としてのハンセン病の制圧”の達成を2000年までに目指すことを決議しました。目標となる具体的な指標として、WHOは「ハンセン病の罹患率が人口1万人あたり1人未満となれば、公衆衛生上の問題としては制圧されたと見なす」と定義しました。この制圧目標を達成するために、WHO、各国保健当局、そして日本財団を含むNGOはパートナーを組んで活動をしています。

日本財団は、ハンセン病の制圧を推し進めるため、1995年から1999年までの5年間にわたりWHOを通して世界中にMDTを無料で供給しました。2000年以降は、製薬会社のノバルティス社が日本財団の意志を引き継ぎ、治療薬を無償配布しています。また日本財団会長の笹川陽平は、WHOハンセン病制圧特別大使として各国政府に対して制圧の達成や努力の継続を働きかけています。

MDTの無償配布によりハンセン病制圧という課題の達成可能性がより現実的に感じられるようになり、世界各国でのハンセン病対策事業に拍車がかかり末端の村々の患者にまで治療が届くようになった結果、ハンセン病患者の数は激減しました。MDTの効力が高く、ハンセン病が慢性疾患であるにも関わらず6~12の投薬か月で完治することも、患者数の急速な減少に貢献しています。WHOの統計によると、1985年には520万人であった登録患者数が、1999年末には75万人、2009年末には21万人までになり、1985年以降これまでに約1600万人以上が治癒しています。この間、2000年末の時点で、“公衆衛生問題としてのハンセン病の制圧”は、全世界レベルにおいては達成されました。各国レベルにおいては、1985年には122カ国において未制圧であったものが、2010年末の時点では1カ国(ブラジル)を残すのみとなりました。