ハンセン病の制圧に向けて
人間の安全保障

「声なき人の声になる」 ハンセン病に対する差別撤廃を推進するために


2010年に国連総会本会議で採択された「ハンセン病患者・回復者及び家族に対する差別撤廃決議」。決議とともに採択された原則ガイドラインの実行を各国に促すため、日本財団と人権教育啓発推進センターは共同で国際ワーキンググループを設置、提言書作成に向けて準備を進めている。2013年8月、日本で開催された国際ワーキンググループの会議に出席するため米国から来日した回復者のホセ・ラミレスJr.さんと、彼を支える夫人のマグダレナさんに、差別との闘いについて聞いた。

2013.10.16

世界中でカービル療養所の体験を語る

写真紀元前から不治の病として恐れられてきたハンセン病の治療薬が開発されたのは米国ルイジアナ州の「カービル療養所」だ。1941年、試験的に使用された「プロミン」の効果は劇的なもので、世界中の患者を救う第一歩となり、後に「カービルの奇跡」と呼ばれるようになった。一方で、カービルでも世界中のハンセン病療養所と同様に入所者たちは差別の対象となっていた。プロミン開発後、病気が完治するようになってもその状況は変わらなかった。

写真ホセさんは1968年、20歳のときにハンセン病と診断され、カービル療養所に入所。所内に残るさまざまな差別的習慣に疑問を感じ、声を上げることにしたという。病を完治させて社会に復帰した後も、多くの人がハンセン病からの回復者であることを隠す中で、病歴を隠すことなく、「カービル最後の語り部」として、世界で最も有名な療養所での経験を語り、ハンセン病に対する正しい知識の啓発や差別撤廃のために、世界中を飛び回っている。

ハンセン病は、「Separating Sickness」(離別の病)と呼ばれ、罹患者の多くが自分の家や故郷から遠く離れた隔離施設に住むことを強要され、家族・親族からも見放されるケースがほとんどだ。ホセさんの場合は、療養所に入った後も、家族や、婚約者のマグダレナさんとの絆を失うことなく、病と差別の両方に立ち向かうことができたという。病気が完治してマグダレナさんと結婚。この家族との強い絆が闘いの原動力となっている。

ハンセン病への差別と偏見に立ち向かう

カービル・ハンセン病療養所は1894年、米国ルイジアナ州に開設された。入所患者数は、1940年には450名で、広大な園内に教会などの施設も備えていた。一度入所したら戻れない場所と考えられていた。1941年、試験薬として患者に投与されたプロミンが治療に劇的な効果があることが発見された。1999年に閉所され、現在は博物館となっているが、日本人女性を含む数人の元患者が生活している。
ホセ・ラミレスJrさんは、1968年から7年間入所。所内の教会や食堂などでの差別的な取り扱いの排除に取り組んだほか、大学への患者の入学規制と闘い復学を認めさせた。退所後も啓発活動に取り組み、特に差別を象徴する用語「レパー leper」の使用に抗議を続け、2011年のアニメ映画(海賊船長)の表現を修正させたほか、2013年7月、ローマ法王の発言への抗議を行うなどしている。

——ハンセン病への差別や偏見に対して、世間に立ち向かおうと決心されたきっかけを教えてください。

ホセ「(決心までは)簡単なことではありませんでした。カービルでは誰も病気のことを話したがりませんし、他の人にも知られたがりません。周りの患者たちはみな声のない人々でした。スティグマ(社会的烙印)や、所内の差別的な規則によって話せなかったのです。そこで私は、『自分が彼らの声になればいい』と考え、発言することにしました。 本格的な啓発活動を始めたのは、ゲストスピーカーとして招かれた1994年のカービルの開設100周年の記念行事からです。当初は5分程度の予定でしたが、自分の経験を話し出すと涙が出てきて30分にも及んでしまいました。このとき、もっと自分の経験を話していこうと決めたのです」

マグダレナ「カービルで実際に過ごした事実が、人々に伝えたいとホセに強く思わせているようです。人々にこの病気について知ってもらい、恥ずべきことではないと教えたいのです。多くの人はハンセン病の話になると『聖書に出てくる病気でしょ。もう存在しないのかと思った』といいますから。差別的な環境の中で、ほかの人は誰も病気のことを話したがりません。彼は『自分には発言する機会がある』と、まずは自分たちの地域で語り始め、現在では新聞紙上で世界中の人々に向かって、『なぜ人々は未だハンセン病を恐れているのか、それと結びついているスティグマとは何なのか』といったことを発信しています」

写真

——回復者が自分の経験したことを話すことはやはり難しいことなのでしょうか。

マグダレナ「彼がカービルでのことを書いた『ハンセン病との旅』という本を執筆したとき、彼はすでにソーシャルワーカーとして、人生を前進させていました。カービルでの体験を立ち止まって思い返すことは、とても辛いことだったと思います。同じようにカービルにいた人で、本を書いた知り合いがいましたけれども、彼らは結局本を出版しませんでした。兄弟姉妹たちが嫌がったからということでした。私たちと同年代で、しかも、教養もある彼らがそうした判断をしたことに大変驚きました」

ホセ「私自身も、執筆したものの発表していない記事があります。記事の中に描いた人たちが、たとえ仮名になっていても周りの人々が気づくかもしれないから掲載しないで欲しいと言ったからです。そういう人の意見は尊重しますが、私自身が過去の経験を話さない理由にはなりません」

——ハンセン病と診断された後も、常に前向きでいられたのでしょうか。

ホセ「絶望したこともあります。いちばんつらかったのは、カービルにいたころ、妻の母が我々の結婚を認めないという気持ちを理解できなかったことです。妻と一緒になるという希望を一時失い、神への希望も失いかけました。希望を失うと人は滅びかねません。私はうつ病を患い、死ぬしかないと思いました。その時に、他の入所者がずっと寄り添って私を一人にしないようにしてくれました。以前、別の患者が自殺をはかった時の状況に似ていたそうです。誰かが自分を気にかけてくれている、愛してくれる人がいるということで再び希望を持つことができたのです。
ハンセン病は、肉体的にも精神的にも人を滅ぼしかねない病気で、いかに乗り越えるかを見つけることはとても難しいのです。肉体的には医師の正しい投薬により、長い時間がかかりましたが、回復することができました。しかし、カービルを出てからも『ハンセン病患者』というレッテルはついて回り、自分は永遠に病気によって判断されるのだろうと感じていました。患者としてではなく、夫、父、あるいは兄弟としての自分を取り戻すことが出来たのは、変わらずに傍にいてくれる妻のおかげです」

マグダレナ「病気というのは、その人にずっとついて回るものです。それは隠すことのできない事実です。そこから自由になるためには、話すことしかありません。病気になったことは、彼の責任ではありません。知ること、気づくことが人々を変えていくのです。話をすることで、人々はハンセン病が感染しないこと、指がとれてしまわないことを知るのです。人に教えることで、恐れは少しずつなくなっていきます。彼(ホセさん)の場合は、教会や地域できちんと話したことで人々は、彼を元患者としてではなく、彼を彼として知るようになったと思います」

——差別もやはり依然として残っています。今後はどのような活動を考えていますか。

ホセ「例えば、公共交通機関を使うことができない、という法律が残っている国もありますが、それ以外に『沈黙の法律』と呼べるものもたくさんあります。個人をいじめたり、汚名を着せたりする慣習があるのに、だれもとがめないことです。法律で『してはいけない』と定められていないからといって、良くない行いを容認する慣習があるのです。ハンセン病の患者たちは、汚名を着せられています。 だから、多くの子どもたちに話を聞いて欲しいと思っています。固定観念の影響を受けやすい子どものころに正しておかなければ、ハンセン病患者へのいじめにつながってしまいます。また、一般の方には、その時々で話題のニュースなどに結びつけて関心をもってもらうことで話をより聞いてもらえると思っています」

——国際ワーキンググループで策定作業を進める「国連(差別撤廃のための)原則ガイドライン」の実行を促すための提言書にはどんなことを期待されていますか?

ホセ「来年2014年には国連に提言書を提出し、国連全加盟国の署名を集め、承認が得られることを期待しています。基本的人権や尊厳のため、またスティグマをなくすためにも、まだまだ私たちは闘わなければならないと思っています」

撮影:大沢尚芳 ※視察写真以外