ハンセン病の制圧に向けて
人間の安全保障

回復者自身が差別と闘う ハンセン病回復者協会の活動


日本財団では、インドにおけるハンセン病への差別をなくすためには、回復者自身が主役となって行動すべきだと考え、回復者組織「ハンセン病回復者協会(旧ナショナルフォーラム)」の立ち上げに協力し、継続的に支援を行っている。ビハール州を中心に活動する同理事のランバライさんにスポットを当て、回復者が直面する差別問題の現状を伝える。

2013.10.21

辛くて、何度も死のうと思った

ハンセン病回復者協会理事のランバライさん(43歳)が回復者のコロニーを訪れると、三々五々住民たちが集まってきて日々の不満を訴えかけてくる。
「井戸を掘ってくれ」、「トイレを作ってくれ」、「年金をもらえるようにしてくれ」など、生活に関することが多い。こうした苦情を聞き、住民とともに解決策を探る日々を送るランバライさん自身もハンセン病回復者だ。
ハンセン病回復者協会は、ランバライさんのような“当事者”たちが自ら差別と闘うため、約700のハンセン病コロニーの代表者によって2006年に結成された。

写真ランバライさんに、ハンセン病の症状が最初に現れたのは1980年。まだ10歳だった。
足の指先に白い斑紋が出てきて、だんだん痛みの感覚がなくなっていった。身体にも斑紋が出て、医者に行くと皮膚病と診断されたが、斑紋は次第に大きくなり、気付いたら足指の皮膚感覚がなくなっていた。さらに足裏にも潰瘍ができ、症状は悪化した。そのまま誰にも話せなくて2年間隠し通したが、ある日、友達に足指の斑紋が見つかってしまった。それからは仲間外れにされ、学校でランバライさんに話しかける子どもはいなくなったという。

そのショックで寂しくて勉強どころではなくなり、成績が急激に下がり、落第することになった。
校長室に呼び出されると、校長は落第には触れず、ただ「服を脱げ」と命じたという。そして、身体の斑紋を見て告げた。
「明日から学校に来なくてもいい」
その日、ランバライさんは学校から支給されたカバンを取り上げられて、泣きながら家に帰った。すでに村中で、物乞いがかかる病気だと噂になっていた。

学校に行けなくなり家にいると、今度は村長がやってきて父親に「息子を追い出しなさい。そうしないなら、家族ごと村から追いだす」と告げた。父親はやむを得ずランバライさんを家から追い出したが、川原に小屋を建ててくれた。「かわいそうだと思ったのでしょうね」と、ランバライさんは振り返る。

「当時12歳だった僕は、とにかくひもじかった。仕方ないので、食べる物を恵んでもらいに近くの村へ出かけるようになりました。それから2年間、物乞いをしながらなんとか飢えをしのぎました。本当に辛かった。何度も死のうと思いました」

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結婚できない姉妹

転機が訪れたのは14歳の時だ。水を求めて小屋にやってきた物乞いが、ランバライさんも同じ病気だと気付いて、初めて病名が分かった。
「ハンセン病は不治の病ではなく、薬を飲めば治る。リトルフラワーというキリスト教系のボランティア団体が運営するハンセン病コロニーに行けばいい」
その物乞いの言葉を父親に伝えると、喜んですぐにリトルフラワーに連れていってくれた。コロニー内の病院に入院して、潰瘍が進んでいた2本の足の指を切り落とした。

3カ間の入院で病気は完治。しかし、ランバライさんは家族の元に帰ることはできなかった。父親が「4人の姉妹が結婚できないのはお前のせいだ。村の人たちが誰も結婚したいと言ってくれない。お前がいる限り、家族に不幸が降りかかる。頼むからリトルフラワーに戻ってくれ」と、村で暮らすことを許してくれなかった。

リトルフラワーの病院にも働き口が見つからず、行き場がなくなったランバライさんに一人の神父が同情して、食事と寝床を与えてくれることになった。そして、2年間居候のような生活を続け、16歳の時に病院の雑役夫として初めて月10ルピー(約15円)の給料をもらった。

その後、リトルフラワーにやってくる外国人ボランティアから英語を学びながら、牧師の助手や回復者のリハビリテーションのインストラクターとして働いた。19歳でリトルフラワーに治療に来た女性と結婚。英語力を買われて欧米から来たボランティアのツアーガイドを引き受けた際の謝礼2000ルピーを元手に、32歳の時に日用雑貨の店を出した。38歳で家を建て、二人の息子をデリーの大学に通わせるまでになった。

2009年、40歳になったランバライさんはハンセン病回復者協会での活動を始める。ビハール州での会議で出会った笹川記念保健協力財団の山口和子理事(当時)の言葉が、現在の活動の原動力になっているという。
「あなたはきっとこれまでにたくさんの涙を流してきたと思います。でも世の中にはまだ苦しんでいる人が数多くいます。まだ泣いている人のために何ができるのかを考えてください」

ランバライさんはビハール州での意欲的な活動と、流ちょうな英語で積極的に発言する姿勢が評価されて、2011年理事に選ばれた。

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回復者の子どもたちが受けた就学差別

写真ランバライさんが受けたような差別は、遠い昔の話ではない。今でもインド中の患者や回復者がそうした差別に直面している。

ランバライさんがビハール州アリラジのハンセン病コロニーを訪ねた時、平日の昼間にもかかわらず、29人の児童が学校に行かずコロニーにいた。不信に思ってコロニー・リーダーに尋ねると、地域の学校から就学拒否に遭っているという。
ランバライさんはアリラジ地区にある4つの小学校の校長に面会したが、いずれも「回復者のコロニーは学区内ではない、他の学校を当たってくれ」とたらい回しにされた。アリラジの地区長に就学拒否の問題を掛け合ったところ、地区長の指示で4つのうち1つの学校が子どもの受け入れについては約束してくれたが、「学校へは子供たちの食器を持参して、他の生徒の食器とは一緒にならないようにしてほしい」という条件をつけられた。
翌日、子どもたちの通学のために差別的な条件を飲んだランバライさんは、学校に子供たちを送り届けて、マーケットに彼らの食器を買いに行った。しかし、学校へ行ったはずの子供たちは、教師から学校には来なくていいと言われてコロニーに帰ってきてしまっていた。

写真地方紙の記者にこれまでの経緯を伝え、嘆願書を県の教育担当官に提出した。担当官はその場でアリラジ地区の教育担当官に電話をかけ、子供たちを追い返した教師を停職処分にするように指示を出した。
しかし3日後、子供たちがまたコロニーに戻されていると知らせが入った。出張中のランバライさんに代わり、ハンセン病回復者協会のメンバーで州リーダーを務めるカムレッシュさんが、アリラジで県の教育担当官を訪問。県の担当官は、差別を軽減するために、県内すべての小学校の校長を集めた集会を提案した。「カムレッシュさんを見なさい。ハンセン病のコロニーのために尽力しているけれど、感染なんてしてないだろ。どうしてそんなに怖れるんだ」と担当官が集会で教員たちを叱責して、ようやく子どもたちが学校に通えるようになったという。
ランバライさんは「その担当官はカムレッシュさんが回復者とは知らなかったらしい。もし回復者だと分かっていたら、違った結果になっていたかもしれない」と話す。

いまだに続く回復者とその家族への根強い差別

写真ランバライさんは子供たちの授業の遅れを取り戻すために家庭教師が必要だと考え、10人以上に当たった。しかし、「コロニーの外に部屋を借りてくれたら行ってもいい。コロニーにだけは行きたくない」と断られたという。たった一人、引き受けてくれたのが地区長が紹介してくれたサンジュ・デビさんだった。

「小学校の教室が足りないのも事実です。そこで小学校の先生をコロニーに派遣してもらうことも検討しています。しかし理想的なのは、やはり学校に通って、一般家庭の子どもたちと一緒にクリケットをしたり、勉強をしたりすることです。そうすることで、一般の子どもたちを通じて回復者の子どもと居てもうつらないことが親の世代にも確実に伝わっていきます。時間はかかりますが、少しずつ社会の意識を変えていくことが重要なのです」

ハンセン病回復者協会は、ランバライさんのような“当事者”自身が差別と闘うことで、着実に成果を上げつつある。
2010年、生活手当を回復者に支給するように日本財団の笹川陽平会長とともに州の副首相や保健大臣に陳情したことがあった。最初ハンセン病回復者協会のメンバーは要人の前で物おじしていた。しかし、「きちんとしたリストがあれば対応する」との回答を得たので、メンバーは北海道以上に広い州内を駆け回り、2週間で調査し、報告書にまとめた。迅速な対応に自信が持てたのか、前回の面会とは全く違う毅然とした態度で報告書を提出した。
そして粘り強い交渉の末、2013年、ビハール州に暮らすハンセン病回復者全員に、月額1800ルピー(約2877円)の生活手当の支給が決定された。以前の州政府からの障害者年金、月額200ルピー(約320円)に比べると破格の待遇だった。

こうした成果の積み重ねが回復者に自信を与え、差別との闘いにも弾みがつくはずだ。
世間から隔絶され、自らの声を発することができなかった回復者たちが、社会に向けて勇気をもって語り始めようとしている。

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撮影:大沢尚芳