21世紀のハンセン病と人権

アメリカ合衆国・ワシントンD.C.
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講演の機会を得たウィルソン国際センターの外観

 私は40年以上にわたってハンセン病を制圧する仕事に携わってきました。亡くなるまでハンセン病との闘いに自らを捧げた父の遺志を引き継いで努力をしております。

 なぜ今、ハンセン病が問題なのかと不思議に思われる方も多いかと思います。しかし、ハンセン病は2つの点で今日も大きな課題を抱えています。

 ひとつは、医学的な問題です。ハンセン病は感染症であり、適切な治療を受けて治癒することが必要です。ふたつ目は、社会的問題です。ハンセン病はスティグマ(社会的烙印)を伴う病気であり、感染した人々は、常にこの社会的差別の問題に苦しまなければならないのです。

 ハンセン病は、M.レプレという細菌によって、引き起こされる病気です。このバクテリアは、1873年にノルウェー人の医師、アマルティア・ハンセンによって発見されました。従って、今日、この病(leprosy)はハンセン病(Hansen’s Disease)という名でも知られています。

 ハンセン病は、空気感染すると考えられています。一般に信じられていることとは異なり、この病気が接触によってうつることはなく、感染力も高くはありません。実際、大半の人はこの病気に対する免疫を持っています。ハンセン病は、皮膚や神経に作用し、治療が適切に行われなかった場合、変形や障害をもたらします。

 ごく最近まで、ハンセン病には治療法がありませんでした。この病は致死的ではありませんが、身体への影響から、人々に深く恐れられてきました。1980年代になって、効果的な治療法が確立されました。当時ハンセン病蔓延国は122カ国ありましたが、多剤併用療法MDTによって治療が飛躍的に進展し、以来今日までに世界で1,600万人の人が治癒しています。

 日本財団は、1995年から1999年までの5年間、このMDTを世界中に無料配布しました。2000年からは、この薬を製造している製薬会社ノバルティスが、その財団を通して薬を無料で提供しています。MDTの薬の効力と無料で手に入れることのできる環境は、ハンセン病と闘う上で非常に重要な要素です。病気制圧のための技術的指導は、世界保健機関(WHO)が提供してきました。

 WHOは、2005年までに世界中のハンセン病を制圧するという目標を打ち立てました。制圧とは、人口1万人につき、患者数1人以下の状態と定義されています。この段階に達すれば、公衆衛生上の問題ではなくなるのです。各国政府や国際機関、NGOの協力を得て、ブラジル、DRコンゴ、モザンビーク、ネパールを除く118カ国でこの制圧目標が達成されました。残りの4カ国も、制圧は目前です。

 ハンセン病制圧大使としての、私の役割のひとつは、ハンセン病蔓延国に無料で薬が手に入るこの機会を最大活用し、制圧を推し進めるよう後押しすることです。同時に、すでに制圧を達成した国がその制圧状況を維持し、更に病気を減らせるよう、一層の努力を奨励することです。制圧を達成しても満足はできません。

 世界では、年間25万人以上の新規患者が生まれています。ハンセン病の潜伏期間は長いので、この件数は今後もしばらく続くと思われます。早期発見され、適切に治療されれば、ハンセン病は跡も残りません。残念なことに、社会のハンセン病に対する反応は医療の進歩からは程遠いところにあり、感染性が高く、遺伝性があり、過去の罪に対する神罰である、というような誤解は消えていません。スティグマは根強く、取り除くのが難しいものです。

 おそらく、ハンセン病は人類に知られている最も古い病気のひとつです。有史以前より、ハンセン病に関して多くが語られてきました。その記録は、旧約・新約聖書、中国の古書、紀元前6世紀のインドの古文書などに見ることができます。また、ハンセン病患者にかかわる絵画も数多く残されています。

写真:スピーチする日本財団の笹川陽平会長

 このような古い時代から、ハンセン病患者は、人々の心深くにある異なるものに対する恐怖感を一点に集める標的となってきました。この病気を持つ人々を排除する傾向は、国、宗教、文化を問わず、共通です。結果、彼らを家族、友人、コミュニティから引き離して遠隔地へ強制的に隔離するようになりました。ハンセン病患者は究極のアウトカーストになったのです。

 多くのハンセン病療養所が島に位置する、ということがこれを象徴しています。19世紀にダミエン神父が奉仕したハワイのモロカイ島、ネルソン・マンデラ元大統領が幽閉された南アフリカのロベン島、これらはハンセン病患者が捨てられた地です。エーゲ海に浮かぶ島々、アジア諸国の島々、数知れない隔離の島々が世界に存在しました。

 アメリカの大陸内で唯一のハンセン病療養所は、1894年に設立され、1999年まで使われていたルイジアナ州のカーヴィルです。入院患者は鉄条網に囲まれた中で生活し、第二次世界大戦後まで参政権も与えられませんでした。ここカーヴィルの最も有名な居住者のひとりであったスタンレー・スタインは、「この病気は菌によるのと同じくらい汚名によるダメージが大きかった」と書いています。

 また、ソーシャルワークの修士号を持つ回復者指導者、ホセ・ラミレス氏も、10年間このカーヴィルで患者として過ごしてきました。彼は、霊柩車でこの療養所に送られたのです。家族や友人が、彼は墓場に連れて行かれるのだ、と考えたほどでした。「残念なことに、すべてのハンセン病患者は象徴的な霊柩車に乗せられて運ばれるようなものだ。その結果、人々からレッテルを貼られ、排除され、恐れられることとなったのだ。」

 世界には多くの悲しい話が数多く存在します。数年前、インドネシアのハンセン病療法所を訪ねた時、85歳のハンセン病回復者である老婆に出会いました。彼女は家族と別れ12歳の時から療養所に暮らしてきたということでした。病気が完治したのだから家族のもとに帰らないのかという私の問いに彼女は、「帰れば家族に迷惑がかかるし、喜ばれない。私はここで一人で淋しく死んでゆく」と答えました。私の祖国、日本でもハンセン病患者や回復者は厳しい隔離法によって療養所に幽閉されていました。

 「我々は火葬場の煙突の煙になって初めて家に帰ることができる」という入院患者の言葉が残っています。しかし、たぐいまれな精神力を発揮した例もあります。日本の詩人、明石海人は1920年代に病に罹りました。彼は、「深海に生きる魚のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」という言葉を残しています。

 幸い、ハンセン病患者や回復者が社会から強制隔離される時代は終わりました。しかし、見えない壁が、未だに彼らの社会参加を妨げています。社会の病気に対する無知と恐れによって、ハンセン病患者及び回復者は未だに教育、雇用、結婚の機会を制限されています。多くの場合、彼らの家族までがスティグマによって苦しめられています。