夢の貯金箱では皆様から寄せられた寄付を「犯罪被害にあった方」の支援のために活用しています。
理不尽な犯罪により最愛の家族を奪われた遺族の方々の声、被害者にもかかわらず、事件後の社会の冷たい仕打ちに孤立し苦しんでいる事実がニュースで報道されることは稀です。
多くの被害者や遺族の方々が、悲しみ、苦しみの中から、犠牲者の生命を無駄にせず、犯罪のない社会のために役立ててほしいと願っています。
これからお届けする「犯罪被害者の声」は夢の貯金箱が支援するNPO法人全国被害者支援ネットワークによせられた手記です。
今回、冊子のお話を頂き、改めて資料を読み返してみると、その折々のことが鮮やかに蘇り、年月の微かな瘡蓋が剥がされ、血が滲みでてくる気が致します。
「事件の経過」はブログに少しずつ書き足していったもの、「2003年1月の手紙」は出来上がった追悼集を持って現地を訪れ、帰国後、追悼集に添えて友人、知人に送らせて頂いた手紙です。
事件の経緯
1999年1月22日、中国楽山市において藤本怜子は死去しました。
この4年間は、事件の真相を求めて中国の公安、弱腰の我が外務省との交渉の日々でした。
事件当日は金曜日、大使館には土曜日に至急電でFAXが入っていたそうですが、休日で誰もいなくて、月曜日に気づいて慌ててこちらに連絡などの動きを始めたとのこと。その間ほって置かれたのだと思うと不憫でたまりません。大使館の危機管理はどうなっているのでしょうか。
又、楽山市の公安よりの説明も結果のみで事件の経過についての説明はありませんでした。その後も起訴状の提供、裁判の傍聴などを要求しましたが、ことごとく拒否され、最後には外務省から、「これ以上中国に要求しても何も返って来ません」と返信が来ました。
その年の夏、何度かの交渉を経て(重慶駐在の領事さんには個人的に本当にお世話になりました)再度、訪中した私たち夫婦は、楽山人民政府、公安、裁判所の方々との会合を持つことが出来ましたが、新しいことは何一つ分からず、淡々と語る裁判官の、怜子の悲鳴が対岸の島に聞こえたとの説明に胸がいっぱいになり、ただうなだれるばかりでした。
その席で裁判官がお昼だといって中座してしまったこと(聞きたいことがいっぱいあったのに)、一方的に外弁室の人にまくし立てられたこともショックでした。国民性の違いをいやというほど感じたことでした。
帰国後苦しい日々の中で、どうしても納得いかない、真実を知りたい、そんな私に「お母さんが死ぬまでそんな気持ちを持ち続けるのは不幸ですよ。もう一度、中国と話してみましょう」と励ましてくださったのが、任期を終え日本に帰任していた領事さんでした。
そして2年後、21世紀を迎えた正月、たくさんの方々のお骨折りの結果、大使館もやっと動き、3度目の訪中が実現、公安当局と話し合いを持つことが出来ました。この席で、怜子の悲鳴を聞いた事件の通報者の名前が分かり、翌日訪問。あいにく留守でしたが、家族の方などの話を伺うことが出来ました。
この時お会いした方々の誠実な対応がどれだけ私たちの心を癒してくれたことか。
もはや、自分で調べることしかない。
2003年、4度目の楽山訪問
この訪中の目的は、5回忌の供養と、事件を目撃した島の方々から、より詳しく、話をお聞きすることでした。
事件から6年、2005年1月22日が7回忌でした。
今もなお、これでよかったのか?これで、幕引きしてもよかったのか?
民事裁判の道はなかったのか、自問の毎日です。
「2003年1月」
私たちは新年を楽山で迎え、2日に帰国しました。2年ぶりの、楽山は、大変寒かったのですが、それでも、ちらほらとほころび始めた菜の花が私たちを迎えてくれました。
気がかりだった公安による妨害もなく、島では事件を目撃した人達や、船頭さんに会うことができました。その人達の話だと、事件当時、霧は深くなく(今までの公安の説明では、事件は霧の中で起こったということでした)事件の一部始終はよく見えたとのこと、あの日にも、中洲に全く人がいなかった訳でもなく、たまたまその時に、人がいなかったそうです。
「どうして怜子が霧の中、中洲に行ったのか」ずっと気になっていたことの真実が分かり、やっと心の重しがとれました。
2年前に目撃者のお宅へ案内してくださった方に、幸いにもお会いでき、仕事の手を止め、他の目撃した人の所へも連れて行ってもらえました。その方達の誠実な対応がどれだけ私たちを癒してくれるかを、公安や、日本の外務省にも教えてあげたい気が致します。
2年ぶりに再訪した小学校の子供達は、私達のことをよく覚えていて、その子供達の胸に、怜子のことが少しでも残ってくれたらと願っています。
20名の援助している子供達も大きくなっていました。お土産に、さつまいも、里芋、落花生などをいただきました。怜子のささやかな願いは、日本と中国の橋渡しでした。その遺志を受け継ぎたいと、事件後、現地の小学校に図書と奨学金を贈りました。
怜子のことをたくさんの方に知って欲しいと思いつつも、何かのきっかけや後押しがないと新たに書き込みも出来ない自分を持てあます日々ですが、(京都犯罪被害者支援センターのMさんのアドバイスのように)有りの侭の自分を今は受容していこうと思っています。先日、かつての怜子が出演したテレビ番組のビデオが、怜子の友人のお骨折りで届きました。怜子はとても元気でまるで昨日のように私達の前に蘇り、暫くは主人も私も動けませんでした。
『娘(こ)の笑顔残るビデオや梅雨探し』
2007年7月25日