プロジェクトニュース

[ 2010/08/16]

犯罪被害者の声・11【犯罪で傷ついた命のために】
娘を失って初めて知る交通事故の非情


 夢の貯金箱では皆様から寄せられた寄付を「犯罪被害にあった方」の支援のために活用しています。
 理不尽な犯罪により最愛の家族を奪われた遺族の方々の声、被害者にもかかわらず、事件後の社会の冷たい仕打ちに孤立し苦しんでいる事実がニュースで報道されることは稀です。
多くの被害者や遺族の方々が、悲しみ、苦しみの中から、犠牲者の生命を無駄にせず、犯罪のない社会のために役立ててほしいと願っています。
これからお届けする「犯罪被害者の声」は夢の貯金箱が支援するNPO法人全国被害者支援ネットワークによせられた手記です。

娘を失って初めて知る交通事故の非情

1999年12月26日、鳥取大学3年生だった二女・真理子達が乗った車に、飲酒運転の暴走車が反対車線にはみ出して正面衝突するという交通事故に遭遇してから、はや、10回目のお盆を迎えました。犠牲となったのは、真理子一人ではありません。同じフォークソング部だった仲間の大谷知子さん、大庭三弥子さんと3人一緒に亡くなったのです。また、同乗していたMさんも怪我をし、体にも心にも傷を負いました。3人の夢は21世紀に生きてかなえる事が出来なかったのです。裁判はあっけなく3回で終わり、3年の実刑判決でしたが、到底、遺族の納得がいくものではありませんでした。それから10年、全国の遺族の血の滲むような努力の結果、今日のような法律の改正や裁判員制度や、被害者支援が行われ、時代は大きく変わっていきました。
 あの日、図書館の司書教諭の資格を取る為に集中講義を受け、就職活動や卒論の準備で忙しくなる前の束の間の時間を縫って、クリスマスのイルミネーションを見に、4人で倉敷のチボリ公園に出かけたのでした。今でも後悔するのは、娘は余り気が向かなかったのに、司書教諭の免許を取るように勧めたのは私であり、出発の時刻が集中講義を受けていなければもっと早く出発して、その車には出遭う事が無かったのにという思いです。英語が専攻で、中学校で教育実習もすでに終え、海外には10カ国、語学の研修に行っていました。それも、全て費用は自分のアルバイトで貯めたお金で行ったのです。親にとっても、本人にとっても、夢はもうすぐ実現しそうな20歳の冬でした。
 娘が大学1年の時、愚痴をこぼした私に、FAXで次のような便りをくれました。

お母さんへ
 あんまり、くよくよ悩みんさんな。
 納得のいく人生送っとる人なんか少ないじゃん。お母さんがお父さんと結婚せんとうちもお姉ちゃんも、やっちゃんも生まれんかったし。やっちゃんもそんなに悪い子じゃないよ。もっと偉い子も一杯おるけど、もっと悪い子も一杯おるよ。私はどうか知らんけど、鳥大に来て後悔はしてないよ。もし、私立に行っとったら凄い事になっとっただろうね。お金が。
 悠子の事もあるし、やすけは進学するかどうかも分からん今は、結構、楽しくやってるよ。こないだは肉じゃがを作ったし、一杯作って冷凍してある。ずっと前に作ったカレーも冷凍してあるし。私はお母さんとお父さんが両親で良かったと思っとるし。お母さんがそんなにくよくよしとったらこっちまで暗くなるじゃんか。子どもの幸せは親の幸せだし、親の幸せは子どもの幸せじゃろ?うちもこれから人生どうなるか分からんけど、頑張るわ。
まりこ

そして、亡くなる3週間前に、私には、次のような手紙をくれました。

お母さんへ
 いつもお世話になっています。ありがとう。イタリアのフィレンツェで買ったお土産を渡していなかったので、帰るまでにまだ時間もあるし、郵便で送るね。私とおねえちゃんの趣味で選んだから気に入ってもらえるかどうか分からんけど、たまにはおしゃれした時に、このネックレスをつけてくれると嬉しいな。今年も色々あったけど、もうすぐ終わるね。早いもんだ。もうすぐ、大学生も残り少なくなってきて嫌だよ。来年は就職活動もしないといけないし、大変な一年になりそう。でも、頑張るわ。では、年末、島根に帰るのを楽しみにしています。 真理子より


まさか自分の子どもが21世紀に生きられないで、20世紀で生命を終えるとは夢にも思っていませんでした。今まで、事件や事故は自分の身にはふりかかってこない、他人事だと思っていました。警察?検察庁?裁判所?保護観察所?そういう場所に自分が足を運ぶ事なんて考えた事もありません。予備知識とか学習とか全くないまま、いきなり、現実は智頭警察署からの1本の電話で始まったのです。電話の後、理性だけが働いて、感情は押し殺し、涙も出ず、きちんと仏事をこなしたのですが、それ自体、非常に危うい事に気がつくはずも無かったのです。気丈だ、しっかりしている、という褒め言葉は実は被害者の感情麻痺によるものだと認識したのは随分後の事です。みんな、そういう様子を見て安心してしまう、それすら認知されていない遺族の実態でした。
 事故の電話を受けて島根県から鳥取県の病院に行く、その事がまず、大変でした。警察からの情報は交通事故に遭って、怪我をして入院したというそれだけのものでした。電話を受けた時刻には後で分かった事ですが、すでに亡くなっていたのです。その情報の間違いで、今もって迎えに行ってやれなかった後悔が私を苦しめます。いきなりで遺族にショックを与えてはいけないからという「配慮」と、死亡の確認を医師がまだしていなくて我々には怪我としか言えなかったかもしれないけれど、心肺停止とか、もっと重篤な状態で生死が危ぶまれるという事を伝えて欲しかったと思います。この「配慮」は思いやりではないのです。遺族にとっては生きているのか死んでいるのかによって取る次の行動が全く違ってきます。遺族が常に望んでいる事は正確な情報です。
 あの日から時計は止まり、カレンダーはあの月からめくれなくなり、景色は灰色にしか見えませんでした。10年経って、少し、色がついた世界と、花の美しさや季節の移り変わりに感動する自分を取り戻したと感じていました。桜の花も7回忌が済んでやっと見に行く事ができるようになりました。でも、この夏、10回目のお盆を迎えて、家に帰って来たのは長女とその旦那様、一歳になったばかりの孫、そして、息子だけでした。
 遺族にとって、「日にち薬」とか「時くすり」という時間がたてば少しずつ回復して行く事を肌で感じていましたが、今年は以前にも増して、娘・真理子を亡くした悲しさが募ります。1歳の孫は何も分からぬまま、私がやって見せるしぐさを即座に覚えて、お仏壇の、この世で会う事の無い「真理子叔母ちゃん」の写真に微笑みながら、鐘をチンと叩き、木魚をポクポクと叩いて見せます。そのあどけなさ!それを見る姉もきっと何かを思っているでしょう。2歳違いの姉妹同士で親にも話せない事を色々と話していましたし、今なら、お互いの子供同士はいとこになって行き来していた筈です。

当時、私は自分の事で必死でした。

子どもを亡くした親はその後、どうやって立ち直って生きて行くのか?その事ばかりが頭の中を堂々巡りしていました。被害者支援が今でこそ叫ばれる時代になりましたが、当時は何の支援も受けられない状況でした。49日忌を控えたある日、外出もままならない頃、図書館に行って、そう言う人の手記を探しました。そこで出逢ったのが、佐藤光房著、「遺された親たち」全6巻でした。
 その裏表紙には全国交通事故遺族の会の井手渉会長寄贈の事と事務所の電話番号が記載されていました。本は朝日新聞記者の佐藤さんがお嬢さんを交通事件で亡くされた事をきっかけに全国の子どもを交通事件で亡くされた親たちに取材されて、その切々たる想いが書かれていました。毎夜、主人と二人で夜中に布団の中で読みました。そして、事務所に電話をして、助けて頂きました。裁判の事等、我々に分かる筈がないので、懇切丁寧に教えて頂きました。
 この団体は、「被害者による、被害者の為の、被害者による」支援団体でした。起き上がる元気を出し、東京での総会にも出席し、仲間に出会いました。そこには、悲しいのは私一人ではない事を実感させるものがありました。その出逢いから、都民支援センターの自助グループにも連れて行ってもらいました。帰りの飛行機の時刻が迫っていて、たった1時間しかその会場にはいませんでしたが、その居心地の良さに目からうろこが落ちるようでした。さらに、そこで「生命のメッセージ展」代表の鈴木共子さんとの出逢いがありました。
 今の私を思うとき、この全国交通事故遺族の会と被害者支援都民センター、「生命のメッセージ展」は娘を失った悲しみから救ってくれた救世主のような存在です。

2008年9月には

島根県の出雲市で「生命のメッセージ展in出雲」を大谷さん夫妻と共に開催致しました。開催中の3日間には、4000人もの来場者があり、感激をいたしました。
 もし、その出逢いが無ければ回復は更に遅れていたと思います。その当時、義母の介護も必要でしたが、仕事を持たず専業主婦をしていた事、東京に行く気力、体力があった事が幸いでした。勿論、その費用だってバカにならない金額でしたが、必死で東京に脚を運びました。ですから、島根にもそういう団体があればと常に思っていました。
 現在は島根県にも被害者サポートセンターが設立され、私は、被害者と支援者の橋渡し役をしていますが、被害者が被害者を支援する難しさを痛感しています。最近起きた、大切な人を亡くされた事件、事故、自然災害の報道を目にすると、思いが自分の体験した事件の当日に逆戻りして行きます。もう一度追体験したり、その事件、事故、自然災害の方と同化して気分が憂鬱になるようになったりします。先日出雲市で起きた父親殺人事件では、出雲市に行く事すら出来なくなりました。去年、出雲市で「生命のメッセージ展in出雲」を開催して、開催前後には多くの学校で命の授業もし、多くの会場でミニメッセージ展を開催し、あれだけ、出雲の地で、「命」を考えてもらっていたはずなのに・・・また、その学校は授業をした当時の6年生が中学1年生に進学していました。自分の無力さを感じてやり切れませんでした。
 サポートセンターでは、通話料が無料の電話相談を行っています。しかし、県外からはつながらないという不便さがあります。事件や事故は自分が住んでいる土地で起こるとは限りません。我々も隣の鳥取県で事件に遭い、遺族は福岡県と島根県に住んでいます。何処の県にいても相談ができるような体制を作らねばならないと思っています。
 よく聞かれる事は、「被害者遺族として、どういう支援がして欲しいですか?」という事です。答えに窮します。メニューの無いレストランに入って、「御注文は何ですか?」と聞かれるのと似ています。中華が出来るのか和食なのか洋食なのか、はたまたケーキやドリンクが出来るのか分からないのに、注文を聞かれても答えようがありません。遺族の声を講演や本、手記、などで知って欲しいと思います。

遺族は決して“かわいそうな人”ではありません。

尊厳を持った、今までは普通の暮らしのでき、幸福な生活を送っていた人たちです。それまで何不自由なく、家事も出来て、仕事も出来ていたのです。それが、ある日、突然、被害に遭い、自分を失い、未来を失い、路頭に迷っているのです。支援は警察から電話をもらうその時から開始して欲しいと、遺族は願っています。時間的経過によって支援の内容も違ってきますし、一回ならず、何回も聞いて欲しいです。自らセンターに電話をするのは相当時間が経ってから、相当の勇気を出して、やっと、かけている状態であることを知って欲しいです。今はネットの時代です。10年前にはそのような状態ではありませんでした。私もその当時、携帯を持っていませんでしたし、パソコンは眺めるだけの代物でした。でも、娘亡き後、必要にせまられパソコンを人差し指一本から始めて、やっと何年か掛かってメールが出来るようになり、世界が変わりました。でも、ネットは直接対面ではありません。多くの情報が得られても、やはり、人間は機械ではなく、人に支えられて生きています。直接、話す事が一番の支援だと感じています。間接支援と直接支援、警察と支援団体の協力なくして遺族の幸せはありません。
 また、鳥取県の自助グループの「なごみの会」と交流をしながら、島根での自助グループの設立の準備中です。鳥取県も島根県も東西に長い県です。県庁所在地が東に偏っている為に西部の人は行く事がなかなか時間と費用が掛かり、ややもすると隣の県の方が支援を受け易い状況にもなります。県と県が連携して、また、どこでもその仲間に入れて支援が受けられるようになって欲しいと願っています。
 多くの遺族は自分の想いを分かって欲しい、理解して欲しいと願いつつ、まず、閉じこもってしまいます。私もですが多くの遺族が外出できない、眠れない、食べられない、家事が出来ない状態に陥ります。そして、今まで出来ていた事が出来なくなった自分を責めます。情けない思いで一杯の中、それでも生きていかねばなりません。朝起きると、今日も生きねばならないかと思うと、起き上がれないようになってきます。自尊心も何もなくなり、人格が破壊されてしまったのかとさえ思います。それが、いつ回復するかの目途さえつきません。約束を忘れたり、日にち、時間がインプットできなかったり、大切な書類は見えなくなってしまって、家中を探し回ったり、今まで早めに出来ていたこと、さっさと処理できていたことさえ、出来なくなった自分が本当に情け無い、それを他の方に指摘されると、もう、それは、それは、悲しい気分に陥ります。どうか、遺族は普通の思考や行動が出来なくなっている事を認識して相手をして頂きたいと切に思います。
娘の無念な思いをどうしてやればいいのだろうか?生きた証を残してやりたい、他のどんな人にも私のような思いをする人が無い世の中にしたい、そう思って突っ走ったこの10年間。事故現場を花で飾る事もなかなか出来なくなりました。10年を境に取りやめようかと思いつつ、悩む毎日です。ですが、事件の時に、救出して下さった智頭の方々はお花に水をやって下さったり、毎日、読経して3人の供養をして下さったりしています。多くの方の支えが無かったら、多くの方との出逢いが無かったら、今の私はありません。
 最後に、出雲市の鳶巣コミュニィティセンターで開催された「ミニ生命のメッセージ展」で書いた真理子への手紙を紹介したいと思います。

30歳の真理子へ

1999年12月26日、あの日から10年という歳月が流れました。
 20歳だったあなたは30歳になっているはずです。でも、想像ができません。どんな仕事をして、どんな人と結婚しているだろうね。あの日、警察から「江角由利子さんのお宅ですか?驚かないで下さい。真理子さんが交通事故に遭われて入院されました。鳥取県立中央病院に来て下さい」との電話がありました。聞いても様子を教えてもらえなかった。怪我だと思いました。でも、電話があった時刻には、もう、この世にいなかったのです。愚かにも迎えに行けなかった事を一生、後悔しています。
 私は今も心療内科に通う日々です。薬の副作用で19キロも太ってしまって9号の服が着られなくなってしまいました。心療内科の隣にリサイクルショップがあります。ふと、大きい服を買おうと寄って見たら、ピンクのドレスが高い所にボディに着せて飾ってありました。一回は店を出たのですが、どうしてもあなたに着せてやれなかった後悔から、引き返して思わず買ってしまいました。真理子のウエディングドレス姿が見たかった。顔の無いボディにこれを着せて、オブジェの傍に置く。それは母の切ない想いです。笑うでしょうね。あなたは。
 そして、あなたの赤ちゃんが見たかった。抱いているのは京都の従姉妹の赤ちゃん。あなたが大学2年生の時に抱っこさせてもらったよね。もう、朱ちゃんは小学校5年生になったんだよ。あなたは・・・・今、どうしていますか?どこにいますか?あなたのお姉ちゃんは去年、赤ちゃんを産んでお母さんになりました。そのお姉ちゃんに「母子手帳」と「へその緒」を渡しましたよ。孫は本当に可愛いです。あなたが生きていれば、命のバトンタッチが出来たのに・・・
 あなたの子どもが見たかった、この手に抱きたかった。このウエディングドレスと、この写真は望みが叶えられなかった母の切ない思いの象徴です。どうか、この世の中でこんな想いをする人が居なくなりますように。夕べ、智頭の事件現場に置いて来た花の鉢植えが枯れそうだから、智頭町の人にお水をやってもらうように頼んだら、夜にわざわざ行って下さいました。そしたら、蛍が一匹、飛んで来たそうです。あなただったのかな? 不思議だね。
 もう一度、会いたい!  母より