ソフィア大学名誉博士号授与式

ブルガリア・ソフィア

この度は、ブルガリアで最古かつ最大の大学であるソフィア・聖クリメント・オフリドスキー大学から名誉博士号をいただくことができ、大変光栄に思います。また本日は、ハンセン病の制圧という私の生涯をかけた活動について、皆さまにお話しさせていただく機会をいただき、感謝申し上げます。

先ほどショートフィルムをご覧いただいたのは、この病気に苦しめられ、今もなお苦しんでいる人たちの現実を皆さまにご覧いただきたかったからです。映像にもありました通り、ハンセン病は何世紀にも亘り不治の病、神の呪いや神の罰などとされ、人々から恐れ、忌み嫌われてきました。

しかし、有効な治療法の確立により、ハンセン病は治るようになりました。簡単なことではないとはわかっていましたが、私はこの治療薬を、病気に苦しむ全ての人たちに届けることを決意しました。そして日本財団は、WHOと協力し、ハンセン病治療薬の無料配布を開始しました。

有効な治療薬を配るのですから、私たちはある一定の効果はすぐに現れるだろうと期待していました。しかし、多くの予期していなかった事態に遭遇しました。

例えば、私は、多くの人が薬の飲み方を知らないという事実を目の当たりにしました。それまで伝統医薬品しか飲んだことがないという人たちに対し、私は、まずブリスターパックと呼ばれる包装から錠剤を取り出し、水で飲むという方法から教えなくてはならなりませんでした。

また、アフリカのある部族の人たちは食べ物を平等に分け合うという習慣があるため、配布された治療薬をも同じ村の人たちで分け合ってしまっていました。これでは当然、薬の効果は現れません。

また、無料であるにも関わらず、患者が治療薬を取りに来ないこともありました。その理由として、ハンセン病に罹っても初期段階では症状が現れないこと、痛みを伴わないこと、また、ハンセン病であることがわかると差別されることを彼らが恐れていたことが挙げられます。

薬を無料で配るだけでは効果的ではないということは明らかでした。私たちは、治療薬の配布に際し、その土地の習慣や文化なども考慮しなければならなかったのです。

このことを念頭に、より効果的に治療薬を患者に届けるために、私たちはWHOや各国の保健省、医療関係者、NGOなどと協力し、活動を続けました。

その結果、より多くの患者が病気を治療、治癒し、多くの蔓延国においてハンセン病患者の数は大きく減っていきました。私は、治療薬普及の成果が現れてきたことに、一種の達成感を感じ始めていました。

しかし、患者の数が減ったにも関わらず、私が目にした現実は、病気から回復した人たちの生活が治療前からそれほど大きく変わっていないということでした。彼らは治癒した後も、患者だったときと同じようにハンセン病療養所やコロニーで暮らし続けていました。そこは、草木も生えていない窪地のようなところで、外側からは単なる岩山にしか見えないような場所であったり、線路脇の土手のわずかな空間であったりしました。その場所と外の世界との境界に目に見える塀などは何もありません。しかし、まるでそこには目に見えない壁が立ちはだかっているかのように、彼らの住む場所とその外を行き来する人はいません。彼らはもう患者ではないのに、こうして「ハンセン病の元患者」として生活し続けていました。

この状況を見て私は、私がそれまでハンセン病の差別やスティグマ(社会的烙印)の問題を楽観視しすぎていたことに気づきました。私は単純に、病気を治すことは差別をなくすことにもつながるだろうと考えていました。しかし実際は、治癒してもなお、彼らは残りの人生を「元患者」として生きることを余儀なくされていました。これは特にハンセン病に顕著に見られる問題のように思います。

私は、ハンセン病の問題は医療の問題だけではないことに気づきました。それは私たちの意識の問題です。私は、この意識の問題にも取り組むことにしました。

ハンセン病の闘いについて話をするとき、私はよく、モーターバイクに例えて説明します。前輪は病気を治すための医療面のアプローチです。そして後輪は、スティグマ(社会的烙印)と差別をなくすための社会面のアプローチを指します。この前輪、後輪が同時に動かなければ前に進まないモーターバイクのように、ハンセン病とその差別をなくすためには、医療面、社会面双方のアプローチを同時に進める必要があると、私は考えています。

後輪の差別の問題について取り組むにあたり、私は何から始めればいいのかわかりませんでした。医療面のアプローチのためには、WHOや保健省、医療専門家の方々と活動しましたが、社会面のアプローチには、新たな関係者を巻き込む必要があると感じました。

私はハンセン病の差別とスティグマ(社会的烙印)の問題は人権問題であると感じました。そこで、私は国連に働きかけることにしたのです。

私がジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を初めて訪ねたのは2003年のことでした。そこで私が申し上げたことは、ハンセン病の問題についてそれまで誰も訴えてこなかったため、ハンセン病の差別の問題は人権問題として認識されていないということでした。

なぜそのようになってしまったのか、想像するのは難しくありませんでした。ハンセン病から治癒した人たちは、声をあげ、自らの人権を主張することをためらっていました。彼らは差別を恐れていたのです。彼らの多くは、自分たちに人権があるとすら考えていなかったのかもしれません。ハンセン病から治癒したある人は、私にこう質問しました。

「本当に私たちに人権などあるのですか?」

私は、彼らの苦しみにこれ以上目を瞑ることはできませんでした。そして、このハンセン病の差別の問題を提起する必要があると思いました。

その後、この問題に注意を向けてもらうために、私はジュネーブを何度も訪れ、会議やポスターセッションなどを開催しました。この問題に対し注意を喚起しようとしましたが、それは簡単なことではありませんでした。

しかし、私が人権委員会の小委員会で鮮明に覚えている瞬間があります。それは、私がハンセン病の回復者の人たち5人と会議に出席していたときのことでした。会議場で話をする機会に、私は自分が簡単に話した後、彼らのうちの一人である女性にマイクを譲ることにしました。彼女はインドから来た女性でした。

彼女は立ち上がり、「私はハンセン病でした」と言いました。

それまで、話半分に聞いていた会場中の人がその瞬間に振り向き、発言した彼女の顔を見ました。

その時の光景は、今でも忘れられない瞬間です。

そしてその瞬間は、私にとって、ハンセン病の差別の問題を人権問題として国連が初めて認識した瞬間だったように思います。

私の最初の国連訪問から7年、2010年にニューヨークの国連総会で、ハンセン病患者と回復者、そしてその家族に対する差別撤廃の決議が採択されました。現在、加盟各国がこの決議の内容を実行に移そうと取り組んでくださっています。

社会的なアプローチを進める上で、私は、ハンセン病の差別やスティグマ(社会的烙印)の問題をなくすには、当事者を巻き込むことが不可欠であると考えています。彼らに声をあげてもらうよう働きかけ、彼らの声を聞いてもらうことが重要なのだと信じています。

私は自らの経験を通じて、私が彼らの声を代弁することはできても、彼ら自身の声よりも説得力を持つことはないのだということに気づいたのです。

ソフィアの後、私はバチカン市国でローマ教皇庁と共に、異なる宗教家、NGO、政府高官などとハンセン病回復者の包括的なケアと尊厳を考えるシンポジウムに参加する予定です。そのような時には必ず、ハンセン病回復者の声が直接、聴衆に届くよう、彼らを招待し、ご出席いただいています。

このような私の活動に対し、「ハンセン病は過去の問題ではないか、今さら取り組む必要はないのではないか」という人がいます。しかし、私は、ハンセン病を考えることは、今まさに私たちがすべきことではないかと考えています。それは、ハンセン病を考えることが人間を考えることにつながるからです。ハンセン病の歴史は世界中で忘れ去られ、消されようとしている「負の歴史」として語られることが多いです。

しかし、同時に、ハンセン病の歴史は、ハンセン病患者や回復者の方々が過酷な状況に置かれながらも、差別を乗り越えて生きてゆく、生命の輝きの歴史でもあります。名前を失い、故郷を失い、家族、友人をも失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として生きようとしてきたその軌跡は、人間の強さと寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史でもあります。

だからこそ、ハンセン病を患った人々の経験や記録を次世代に引き継ぐことで、人類がこの経験を忘れないようにしていくことが重要であると信じています。彼らの声を次世代に届けていくこと。このことも、私の重要な仕事だと思い、ハンセン病の歴史保存の取り組みも進めています。

本日、この名誉博士号を授与いただいたことにあらためて御礼申し上げます。この名誉ある賞を光栄に思うだけでなく、私は皆さまのご支持とご理解に励まされ、大変心強く感じております。