保健分野におけるスティグマと人権に関する会議「病気の制圧と差別撤廃に向けた闘い」

米国・ミネアポリス

只今ショートフィルムをご覧いただいたのは、この病気に苦しめられ、今もなお苦しんでいる人たちの現実を皆さまに知っていただきたかったからです。映像にあった通り、ハンセン病は何世紀にも亘り不治の病、呪いや神の罰などとされ、人々から恐れ、忌み嫌われてきました。

しかし有効な治療法の確立により、ハンセン病は治るようになりました。私はこの治療薬を、病気に苦しむ全ての人たちに届けることを決意しました。そこで、日本財団は、WHOと協力し、多剤併用療法(MDT)として知られているハンセン病治療薬を世界中に無料配布することを開始しました。

私たちは効果はすぐに現れるだろうと期待していましたが、多くの予期していなかった事態に遭遇しました。

当初、私がどのようなことに直面したのか、いくつか例を申し上げます。

たとえば、伝統医療薬しか使われていないような人里はなれた地方の村では、まずブリスターパックと呼ばれる包装から錠剤を取り出し、水で飲み込むという薬の飲み方から教えなくてはならなりませんでした。

また、アフリカのある部族の人たちは食べ物を平等に分け合うという習慣があるため、配布された薬をも同じ村の人たちで分け合ってしまっていました。これでは当然、薬の効果は現れません。

また、無料なのに患者が薬を取りに来ないということもありました。初期段階では痛みを伴う症状がないため、また、別の原因として、ハンセン病だと診断されることを恐れていためです。

ですから、薬を無料で配るだけでは効果的ではないということはよくお分かりいただけると思います。私たちは、効果的な治療をしていくために、その土地の習慣や風習、文化なども考慮する必要があったのです。そして、これを踏まえると、私たちはWHOや各国の保健省、医療関係者、NGOなどすべての関係者と協力していく必要がありました。

そのような方々結果、より多くの患者が病気を治療し、多くの蔓延国においてハンセン病患者の数は激減しました。私は、治療薬普及の成果が現れてきたことに、一種の達成感を感じ始めていました。

しかし、患者の数が減ったにも関わらず、私が目にした現実は、病気から回復した人たちの生活が治療前からあまり変わっていないということでした。彼らは治癒した後も、患者だったときと同じようにハンセン病療養所やコロニーで暮らし続けていました。そこは、草木も生えていないくぼ地のようなところで、外側からは単なる岩山にしか見えないような場所だったり、線路脇の土手のわずかな空間だったりしました。その場所と外の世界との境界に目に見える塀などは何もありません。しかし、まるでそこには目に見えない心の壁が立ちはだかっているかのように、彼らの住む場所とその外を行き来する人はいません。彼らはもう治癒しているにも関わらず、こうして「ハンセン病の元患者」として生活しなければならなかったのです。

この状況を見て私は、楽観的すぎたと気がつきました。私は治療薬を世界中で広めることに忙しくしておりましたが、この病気には、ひとたびハンセン病を患った人が、治癒してもなお、差別やスティグマの対象となるという、より深刻な側面があるということを見落としていました。

差別とスティグマは菌によって引き起こされるものではありません。これは、人々の意識の問題です。

私は、ハンセン病との闘いとは、オートバイに似ていると考えるようになりました。前輪は病気を治すための医療面のアプローチ、後輪はスティグマと差別をなくすための社会面のアプローチを指します。この前輪、後輪が同時に動かなければ前に進まないオートバイのように、医療面、社会面の双方からのアプローチを同時に進める必要があると、私は考えています。

私は何から始めればいいのかわかりませんでした。しかし、ハンセン病の差別とスティグマの問題は明らかに人権問題であると感じました。そして、このことを訴えるのに適切な場所は国際連合であると思い至りました。

私がジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を初めて訪ねたのは2003年のことでした。そこで私が言われたことは、ハンセン病の差別の問題が単独で人権問題として議論にあがったことがないということでした。他の病気同様、これまでは保健衛生の問題としてしか捉えられていなかったのです。

なぜそのようになってしまったのか、想像するのは難しくありませんでした。ハンセン病から治癒した人たちは、声をあげ、自らの人権を主張することをためらっていました。彼らの多くは、自分たちに人権があるとすら考えていなかったのかもしれません。ハンセン病から治癒したある人は、私にこう質問しました。「本当に私に人権などあるのですか?」

私は、彼らの苦しみにこれ以上目を瞑ることはできませんでした。私はジュネーブを何度も訪れ、会議や小さな写真展などを開催しました。

しかし、私が国連人権委員会の小委員会で鮮明に覚えている瞬間があります。それは、私がハンセン病の回復者の人たち5人と会議に出席していたときのことでした。私は会議場で話をする機会を与えられました。私は自分が簡単に話した後、彼らのうちの一人の女性にマイクを譲ることにしました。インドから来た女性でした。

彼女は立ち上がり、「私はハンセン病でした」と言いました。

それまで、聴衆は話半分に聞いていましたが、皆その瞬間に振り向き、発言した彼女の顔を見ました。

その瞬間は、今でも忘れられない瞬間です。

私にとって、国連が初めてハンセン病の差別の問題を人権問題として認識した瞬間だったように思います。

私の最初の国連訪問から7年、ついに2010年にニューヨークの国連総会で、ハンセン病の患者と回復者、そしてその家族に対する差別撤廃の決議が採択されました。

私たち日本財団は、この決議を実行するために、世界の状況を確認し、報告する民間レベルの国際作業部会を結成しました。そこに人権問題の専門家として関わってくださっているのが、本会議を企画してくださったフレイ先生と、午前中にお話しいただく横田先生です。お二人には様々なアドバイスをいただき、非常に重要な役割を果たしていただいています。お二人のご尽力にあらためて感謝申し上げたいと思います。

社会的なアプローチを進める上で、私は、ハンセン病の差別やスティグマの問題をなくすには、当事者を巻き込むことが不可欠だと考えています。彼らに声をあげてもらうよう働きかけ、彼らの声を聞いてもらうようにすることが重要なのだと思います。

私は自らの経験を通じて、彼ら自身の声よりも説得力を持つことはないと気づきました。

ここまでお聞きになって、この病気は遠い国の話だと感じられた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここアメリカでも例外ではありません。

かつて全米のハンセン病患者は、二カ所の施設に強制隔離されました。一つは、ハワイ諸島モロカイ島のカラウパパ療養所です。ここは三方を海に囲まれ、残る一方は断崖で他の島々から遮断されていました。もう一つは、ルイジアナ州のカーヴィル療養所で、有刺鉄線の高いサイクロンフェンスと二つの監視塔に囲まれていました。

本日、奥さまのマグダレナと共にこの会議に参加している私たちの友人であるホセ・ラミレスも、かつてカーヴィル療養所に暮らしていました。彼はハンセン病から回復し、ご自身の経験に基づいて、ハンセン病と人権問題について語っています。彼の言葉は経験者だからこそ語ることができる重みがあります。彼は、これまでアメリカ国内だけでなく、世界中でハンセン病の啓発活動を牽引してきました。後ほど、彼の話を楽しみにしたいと思います。

私たちの活動に対し、「ハンセン病は過去の問題ではないか、今さら取り組む必要はないのではないか」という人がいます。しかし、私は、ハンセン病を考えることは、今まさに私たちがすべきことではないかと考えています。ハンセン病を考えることは人間を考えることにつながります。ハンセン病の歴史は世界中で忘れ去られ、消されようとしている「負の歴史」として語られることが多くあります。

しかし、同時にハンセン病の歴史は同時に、患者の方々が過酷な状況に置かれながらも前を向き、立ち直り、勇敢に立ち向かい、差別を乗り越えて生きてゆく歴史でもあります。名前を失い、故郷を失い、家族、友人をも失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として、生きようとしてきたその軌跡は、人間の強さと寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史でもあります。

2009年にはローマ教皇ベネディクト16世によって、カラウパパの患者たちのケアに全身全霊を捧げたダミアン神父が、聖人の列に加えられました。さらに、同年オバマ大統領の署名によって「カラウパパメモリアル法」が成立し、カラウパパに収容された8,000人全員の名を刻んだ記念碑が建立されることになりました。

私は、人類がこうした歴史を決して忘れないよう、ハンセン病を患った人々の経験や差別の記録を次世代に引き継いでいかなければならないと考えています。彼らの声を次世代に確実に届けていかなければなりません。このことが、私の重要な使命であると認識し、今後もハンセン病の歴史保存の取り組みを続けてまいります。