RSKテレビ放送60年 特別シンポジウム「ハンセン病療養所 世界遺産にむけて」基調講演

日本・岡山市

本日は、シンポジウムにお招きいただき、ありがとうございます。ただ今、映像(Leprosy in Our Time外部サイト)でご覧いただいたように、私は、世界保健機関(World Health Organization:WHO)の大使として世界各地でハンセン病の制圧に取り組んでおります。また、私が会長を務めている日本財団も、長年ハンセン病に取り組んできました。

今からおよそ60年前、日本政府は、国内におけるハンセン病の活動は、藤楓協会に、日本財団は海外での活動を、という棲み分けを決めました。以来、私たち日本財団は、海外を中心に活動をしてきました。

本日のシンポジウム第2部でコーディネーターを務められる山陽放送の米澤さんは、今年の1月、私と一緒にインドを訪問され、現地の様子を取材されました。山陽放送は、長年に亘り、国内のハンセン病問題の取材を続け、国内に加えて、世界の様子を伝えることも重要だと考えてくださっているようです。

本日は、せっかくのこのような機会をいただいたので、ただ今、皆さまにビデオをご覧いただいた海外でのハンセン病をとりまく状況をご紹介いたします。

日本財団がハンセン病に関わるようになったのは、先ほども申し上げたように、昭和40年前後です。当時は、海外に病院を作るなどの支援をしておりました。

その後、病気の制圧という意味で、世界では1980年代に、とても大きな転機がありました。それは、いくつかの複数の薬を併用して飲むという治療法で、専門的には「多剤併用療法」と呼ばれています。英語では略してMDT(Multi Drug Therapy)とも呼ばれる有効な治療法が確立されました。

日本では1980年当時、新規の患者数も少なかったため、この治療法については、あまり注目されなかったかもしれません。しかし、この治療法は、まだ毎年多くの人が新たにハンセン病を発症するような海外の国々では、従来の治療薬では効果が現れない患者や副作用に苦しんでいるような患者もいましたので、患者自身や、保健や医療に携わる関係者の方々には大きな希望を与える出来事となりました。

1980年当時のハンセン病の蔓延国の多くは、開発途上国の段階にありました。先ほどの映像でイメージしていただけるかもしれませんが、人々は非常に貧しい暮らしを強いられていたのです。

医療システムも十分ではなく、もし地方に住んでいてハンセン病の治療を受けようとしたら、街の専門病院まで何日も旅をしなければならないような状況でした。行政からの医療費の補助もありませんでした。

その頃に確立されたMDTという治療法の効果は画期的なもので、WHOがお墨付きを与えたものでもあったのです。しかし、このように貧しく、薬代も払えない人々にとっては、この治療法は、まだまだ手が届かないものでした。

そのような状況を見て、私は、「もし、この薬が無料だったら、多くの貧しい患者たちをも救えるようになるのではないか」と考えました。そこで、WHOと協力して日本財団が資金を出し、1991年にこの新しい薬を無料で配布することを開始したのです。

大きな専門病院だけでなく、世界中の町や村の小さな診療所、本当に小さな小さな診療所にも薬を置いて、貧しい患者たちにも薬を無料で受け取れるような仕組みを作りました。

こうして、有効な薬が無料で手に入るようになったので、ある一定の効果はすぐに現れるだろうと、私は期待していました。

しかし、実際には、予期していなかった色々な事態に遭遇しました。例えば、アフリカの奥地の方では、それまで錠剤になっている薬を飲んだこともないため、もらったものが薬だということも理解できず、薬の飲み方を知らない人もいました。

また、手に入れたものやもらったものは、何でも仲間で分けるという習慣のある部族の場合は、配られた薬を、患者ではない仲間とも分け合ってしまったために、せっかくの効果がでなかったということもありました。

ある国では、無料のはずの薬が、高値で取引されて海外に流れてしまい、薬を必要とするその国の患者たちの手に渡っていないということもありました。また、薬は無料であるにも関わらず、患者たちが差別を怖れて取りにこないということもありました。

このように、薬は十分に供給できているはずなのに、それが患者のもとにきちんと届かないという現実に、私はこの問題が単純に解決できるものではない、ということを思い知らされました。

それでも、薬を無料で配布することを5年間ほど続けるうちに、多くの蔓延国において、ハンセン病患者の数が大きく減ってきたというデータが出てきました。それを見て、私は、治療薬の普及の成果が徐々に現れてきていると、一種の達成感を感じるようになっていました。

そして、現場の状況も、さぞかし改善されているだろうと期待しながら海外の視察に向かったのですが、その先で目にした現実に私は愕然となりました。
ある国では、薬を飲んで治療を受けて治った人たちが、以前と変わらず、故郷を追い出されたまま、草木も生えていないくぼ地や、岩山にしか見えないような場所、線路脇の土手のわずかな空間などに身を寄せて、暮らしていました。

彼らの生活は治療を受ける前となんら変わっていないように見えました。彼らの暮らす場所とその外との間には、まるで目に見えない壁が立ちはだかっているようにも見えました。

こうした状況を目の当たりにして、私は、それまでハンセン病の差別や偏見の問題を楽観視しすぎていたことに気づきました。

病気を患った人々に対して、引き続き、薬を届けなければなりません。しかし治療して治ったらそれで終わり、というわけではありません。差別や偏見は、治ってからも彼らを苦しめているのです。

ハンセン病の差別の問題をなんとか解決しなければと思い、私がアプローチしたのは国連人権高等弁務官事務所でした。そこで初めに言われた一言に、私は、大きなショックを受けました。

これだけ世界各地で深刻な人権侵害の事実があるにも関わらず、ハンセン病の差別の問題は、人権問題としてこれまで議題にあがったことがないと言われたのです。それは、この問題が、国連人権委員会に提起されることがなかったということ、この問題を提起した人が、今までいなかったということです。

私は、インドで出会ったある人に、「ハンセン病になってしまった私に、人権なんてあるのでしょうか」と尋ねられたことがあります。

ハンセン病にかかったら、人権までも失ってしまう、それでも仕方がないのではないか、というあきらめの気持ちを持っている人たちがいるのではないかと感じました。

しかし、そのようなことがあってはなりません。

そこで、私は、その後も、国連人権委員会に差別や偏見の問題を訴えました。そして2005年、国連人権委員会の小委員会で鮮明に覚えている瞬間があります。それは、NGOの参加者が、自分の主張を発言する機会が与えられる場面でした。

私に発言が許され、私のところにマイクが回ってきたのですが、私はそのマイクを、一緒に来たインドの女性に手渡しました。彼女は、初めての国際会議の場で、震える声で、「私はハンセン病でした」と語ったのです。その瞬間、それまで話半分に聞いていた会場の人たちが一斉に彼女の方に振り向きました。

この勇気を振り絞って彼女が発言した瞬間は、ハンセン病の差別の問題が、人権問題として初めて国連で認識された瞬間だったように思います。

その後も、多くの人たちの協力を得て、人権委員会への問題提起や説明を繰り返しました。そして、2010年、ニューヨークの国連総会で、ハンセン病の患者と回復者、その家族に対する差別撤廃の決議が、全会一致で採択されました。

私たち日本財団は、この決議で決められた内容が世界中で実行されるように、今も活動しています。先日も、国連で状況のさらなる改善を訴えてきたところです。

まだまだ、世界各地には差別法や差別を助長するような制度や慣習が残っています。これからも、世界中でハンセン病の差別撤廃に向けた動きを活発化させなければなりません。

しかし、その時に重要なのは、この活動にハンセン病の当事者に参加してもらうことだと思っています。当事者の方々が、自らの経験からつむぎだした言葉は、人々の心を揺さぶり、人々の心に届き、私たちにハンセン病について考えさせる大きな力を持っていると思います。

私は世界各国を訪問してきましたが、その国の政府や役所が情報をきちんと把握していない状況に数多く遭遇してきました。海外では、私が訪問先の言葉を話すことができればいいのですが、私は現地の言葉を話せません。

そこで、「ハンセン病は治ります。薬は無料です。差別は不当です」ということを、多くの人々に伝えるために、メディアの力を借りるようにしています。また、私が話してもなかなか聞いてもらえないかもしれませんが、例えば、大統領や首相、あるいは大臣といったその国のトップリーダーの口から同じメッセージを伝えてもらえるようにすると、たちまちその日のニュースでハンセン病について取り上げてもらえます。

そのため、トップリーダーを巻き込んで、メディアから発信していただくということは、非常に有効だと思います。

日本については、私より皆さんのほうがずっと詳しいわけですが、日本ではここ十数年単位でみても、新しくハンセン病を発症する患者の数は極めて少ないという状況が続いています。

しかし、世界では今なお、毎年多くの人がこの病気を発症しています。病気が蔓延している地域もあります。

ハンセン病にかかっていることに気づかなかったり、気づいていても色々な理由で治療を受けに来ない人、来られない人もいます。結果として、後遺症が出てしまう人もいます。

さらに、病気になったことによって差別される人たちが未だにたくさんいるのです。世界を見渡すと、ハンセン病というのは色々な意味で、まさに現在進行形の問題です。

そして日本においては、ハンセン病によって起こった問題を歴史にとどめておこうという動きが出てきています。そのような時に、ハンセン病の歴史というと、どうしても辛い面というのが強調され、あたかも「負の歴史」として語られることが多いようです。しかし、私はそういう面だけでは捉えていません。

なぜなら、私は多くの国々で出会った多くの患者、回復者の方々の強さ、勇気、希望をもって立ち上がろうとする姿にたくさん触れてきたからです。

その人たちは過酷な状況に置かれながらも、差別を乗り越え、強く生きようとしていました。名前を失い、故郷を失い、家族や友人も失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として生きようとしてきた方々の姿から、私は何度も勇気づけられたものです。

私は、ハンセン病の歴史というものは、人間の強さ、寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史だととらえています。

そうした経験や記録、一人ひとりの想いを未来に伝え、次の世代の人たちにとって、忘れてはならない歴史として残すことは非常に大切なことだと思います。そして実際に、それを後世に残していこうという動きは、世界各地でも進んでいます。

フィリピンには、クリオン島という、昔ハンセン病患者の方々が隔離されていた島がありますが、今では、居住者が少なくなった療養所や施設などが資料館として残されています。

アメリカや南米でも、かつて療養所だった場所に、手錠や、所内で使われたという通貨などが展示されています。

また、かつて患者、回復者が住んでいたハワイのモロカイ島では、昨年、オバマ大統領が8,000人の住民の名前を刻んだ記念碑を建てる大統領令にサインをしました。

さらに、ノルウェーのベルゲンには、らい菌を発見したハンセン博士の研究室とハンセン病博物館があります。そこには、医療面での研究者の成果と、そこで療養をした一人ひとりの人生をノルウェーの歴史として残そうという動きがあるそうです。

日本にも資料館が各地にあり、それぞれが、歴史、資料の保存、患者、回復者の方々の名誉回復のために尽力されています。日本財団もこのような資料館の運営をお手伝いさせていただいています。私は特に日本には、当時療養所に住んでいた方々が素晴らしい陶芸品や絵画などの芸術作品、文学作品などを多く残されていて、海外に比べても、それは質、量ともに抜きん出ていると感じています。

これからもその貴重な作品が大切に保存されていくことは、そこに生きた方々の人生の記録を残すという意味でも、非常に意義のあることだと思います。

本日は、歴史を残すという意義深い山陽放送のシンポジウムにお招きいただき、また、私から世界の現状を皆さんにお話させていただけたことは大変光栄なことです。

そして、本日の皆さんのお話から色々と伺ったこと、感じたことなどを、これからの私の活動にも活かしていきたいと思っています。