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【オリ・パラ今昔ものがたり】パラリンピックの現在地と日本財団

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車いすの激しいぶつかり合いが魅力の車いすラグビー。中央は池透暢(いけ・ゆきのぶ)選手 ⒸPHOTO KISHIMOTO

執筆:佐野慎輔

なお新型コロナウイルス感染の勢いが収まらない中、東京パラリンピックの熱戦は終盤を迎えた。

パラスポーツに接してもらえば…

東京に161カ国・地域から4403選手が集い、22競技539種目にパラアスリートが覇を競う。

車いすラグビーの車いすがぶつかり合う激しい音、一方ゴールボールや5人制サッカーでは静寂の中ボールの転がる音だけが響く。ボッチャの緊張感、義足の走り幅跳びジャンパーが舞い上げる土、伴走者と息を合わせた視覚障害のランナーの速さ…。

私たちはいま、「超人」と称されるパラアスリートのパフォーマンスの凄さ、パラスポーツの持つ新鮮な魅力に引き付けられている。

コロナの影響を被り、オリンピックに続いて無観客となった。競技会場で声援を送ることはできないが、テレビの画面に引き込まれた人は決して少なくないはずだ。

「一度見て、接してもらえれば、その魅力は分かってもらえるはずだ」

国際パラリンピック委員会(IPC)理事で日本財団パラリンピックサポートセンター(パラサポ)の山脇康(やまわき・やすし)会長の言葉を思う。

障害者のリハビリから始まった

周知のことながら、改めてパラリンピックの歴史をたどっておきたい。

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「一つになろう(Live as one)」をテーマに開催されたパラリンピックロンドン大会(2012年)の開会式 ⒸPHOTO KISHIMOTO

1948年7月29日、第14回ロンドンオリンピックの開会式に合わせて、ロンドン郊外のストーク・マンデビルで車いす選手による競技大会が開催された。出場したのは第2次世界大戦に従軍して脊髄を損傷し、下半身が不自由となった16人の元軍人。車いすに乗り、アーチェリーで競ったこの大会こそパラリンピックの原点に他ならない。

発案したのは医師、ルートヴィヒ・グットマン。ストーク・マンデビル病院内に英国政府が設置した国立脊髄損傷センターのセンター長である。グットマンは脊椎損傷者のリハビリテーション療法にスポーツを導入、効用の一環として競技大会を企画したのだった。

ストーク・マンデビル競技大会は毎年開催され、1952年にはオランダから参加を得て国際競技大会に発展。1960年第9回大会は初めて英国から離れて、オリンピックが開催されたイタリアのローマで実施された。

グットマンは創設時から「車いす者のためのオリンピック」としての位置付けを望んでいた。ローマ大会を機にオリンピック開催都市で開くことを思い立ち、1964年の第13回大会は東京開催を決めた。

当時、参加は車いす使用者に限られた。東京大会は「パラリンピック」の名称を初めて公式文書に使用した大会として知られるが、「パラレル(もうひとつの)」オリンピックではなく、「パラプレジア(対まひ=下半身まひ)」からとった命名である。現在の意味になるのは1985年。国際オリンピック委員会(IOC)が「オリンピック」の文言使用をようやく許可し、1960年ローマ大会が第1回パラリンピックとして追認された。

車いす以外の参加は1976年トロント大会まで待たねばならない。車いすにこだわり続けたグットマンが折れて、ようやく切断者と視覚障害者が出場。続く1980年アーネム大会から脳性まひ者、1984年ニューヨーク/ストーク・マンデビル大会から機能障害者の参加が認められた。

様変わりしたパラリンピック

IPCの創設は1989年。2001年にはIOCとの間で連携協定が結ばれて、体制を整えていく。1990年代後半から競技力の向上を目指すようになり、テニスの国枝慎吾(くにえだ・しんご)のようにプロ宣言するトップ選手も現れた。

2008年北京大会からオリンピック・パラリンピックがひとつの組織委員会で運営され、オリンピックへの接近、パラリンピックのオリンピック化が指摘された。一方、開催国にはパラリンピック、パラスポーツが浸透し意識変革も起きた。北京大会開催後の中国は観光地や公共交通機関のバリアフリーが進み、「成功した大会」と称された2012年ロンドン大会後の英国では、障害者雇用が開催前と比べて100万人近く増えた。英国国家統計局の発表である。

東京は「共生」への第一歩に

2021年、東京は世界で初めて2度目のパラリンピックを開催した都市となった。

1964年は隠れた存在だった障害者を表に出した。2度目の大会は「多様性と調和」を掲げて「共生社会の実現」を目指す。パラリンピックやパラアスリートの認知が高まり、公共施設や公共交通機関のバリアフリーが進んだ。

8月24日の開会式は「WE HAVE WINGS(私たちには翼がある)」をテーマに、パラリンピアンが大空に羽ばたく期待が込められた。会場を飛行場に見立て、主人公である「片翼の小さな飛行機」は翼が片方であることに悩み、飛ぶことをためらっていたが、やがて周囲の励ましを受けて力強く飛び立つパフォーマンスが演じられた。

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パラリンピック東京大会の開会式で「片翼の小さな飛行機」を演じた13歳の和合由依さん(写真左端) ⒸPHOTO KISHIMOTO

オリンピックよりもはるかに明確なテーマで構成された開会式は、より多くの共感を得たと言えよう。いまの躍動するパラアスリートへの共感につながっていると思う。

しかし、そうした感慨が即、障害者への理解、障害者との共生につながるだろうか。大会が掲げる「多様性の調和」に真っすぐ進むだろうか…。

日本の障害者への支援制度はまだまだ欧米の先進国に後れを取っている。2017年調査でやや数字は古いものの、障害者への公的支出の国民総生産(GDP)比は、経済協力開発機構(OECD)加盟36カ国中31位に過ぎない。障害者の法定雇用率は今年3月引き上げられたが、民間企業で2.3パーセント、国や地方公共団体でもやっと2.6パーセントである。フランスの6パーセント、ドイツの5パーセントに遠く及ばない。

パラアスリートへの共感を障害者に目を向けるきっかけにしていくことが、始まりとなる。2度目のパラリンピックを開催する大きな意義だと言い換えてもいい。

日本財団の取り組みが風を起こすか

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日本財団笹川陽平会長 写真提供:日本財団ボランティアサポートセンター

いち早く、パラリンピックへの意義を言い出したひとりに日本財団の笹川陽平会長がいる。2013年9月、IOCブエノスアイレス総会で東京2020大会開催が決まった直後、こんな話を聞いた。

「せっかく日本でオリンピック、パラリンピックを開くのだから、日本財団としても協力を惜しまない。日本財団らしい貢献を考えている」

笹川会長は間もなく、こう話すようになった。

「パラリンピックの成功なくして、東京2020大会の成功はない」

なぜ、パラリンピックなのか?

笹川会長と日本財団の活動を俯瞰(ふかん)すれば、容易に答えに行き着く。ハンセン病制圧と回復者及びその家族へのいわれのない差別とのいまも続く長い戦い。難病や貧困、あるいはひとり親家庭といった社会的な弱者に手を差し伸べ、一緒になって解決の道を探ってきた。障害のある人たちへの支援も、50年の長きにわたって続けている。

「はたらく障害者サポートプロジェクト」や「WORK! DIVERSITY(ダイバーシティー就労)プロジェクト」といった経済的な自立を支援する事業や「手話の認知を高める活動」や「バリアフリー地図アプリの開発・普及」「アジアにおける義肢(ぎし)装具士の養成」といった障害者のインフラ促進事業。目の見えないシンガーや難聴のピアニスト、車いすのダンサーたちがスポットライトを浴びてパフォーマンスをみせる「障害者芸術祭の支援」など、日本財団のホームページを逍遥(しょうよう)すると多彩な支援活動に驚かされる。

パラリンピック支援もまた、その一環である。2015年5月に創設された日本財団パラリンピックサポートセンターの活躍はすでに小欄も取り上げた。

2021年3月、笹川会長は足弱な組織の多い競技団体の実情を鑑み、時限的な組織であったパラサポを恒久化すると明言した。ポスト・パラリンピックへの目配せである。

日本財団は最近、「障害とビジネス」活動に力を入れている。2019年の世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で発足が決まった国際的な企業ネットワーク「The Valuable 500(V500)」と連携。ビジネスにおける障害者の包括を活動の指針に据え、国内での企業連携も進めている。

障害者支援はどうあればいいのか。パラリンピック閉幕後、日本社会は改めてこの問題と向き合わなければならない。開催が社会をどう変えるのか、そこに関心も集まる。

いまパラスポーツ界では、ここまで吹いてきた順風が逆風に変わるのではないか、と懸念の声があがる。コロナ禍が影を落とす可能性も否定できない。

一歩先を走る日本財団が企業と共に取り組む活動が社会に新しい風を吹き込むだろうか。不安を吹き飛ばし、障害者を取り巻く環境を変える指針となっていくだろうか。本来なら政府の本格的な関与が一番重要なのだが…。

〈プロフィール〉

佐野慎輔(さの・しんすけ)

日本財団アドバイザー、笹川スポーツ財団理事・上席特別研究員
尚美学園大学スポーツマネジメント学部教授、産経新聞客員論説委員
1954年、富山県生まれ。早大卒。産経新聞シドニー支局長、編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを歴任。スポーツ記者歴30年、1994年リレハンメル冬季オリンピック以降、オリンピック・パラリンピック取材に関わってきた。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会メディア委員、ラグビーワールドカップ組織委員会顧問などを務めた。現在は日本オリンピックアカデミー理事、早大、立教大非常勤講師などを務める。東京運動記者クラブ会友。最近の著書に『嘉納治五郎』『金栗四三』『中村裕』『田畑政治』『日本オリンピック略史』など、共著には『オリンピック・パラリンピックを学ぶ』『JOAオリンピック小辞典』『スポーツと地域創生』『スポーツ・エクセレンス』など多数。笹川スポーツ財団の『オリンピック・パラリンピック 残しておきたい物語』『オリンピック・パラリンピック 歴史を刻んだ人びと』『オリンピック・パラリンピックのレガシー』『日本のスポーツとオリンピック・パラリンピックの歴史』の企画、執筆を担当した。

連載【オリ・パラ今昔ものがたり】

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