ハンセン病の制圧に向けて
人間の安全保障

知って欲しい、ハンセン病のこと


ハンセン病は有史以来記録に残る感染症。原因や治療法が見つからなかったため、患者を隔離・排除する差別が行われてきた。完治する病となった現在も、差別は残っている。制圧には、まず「知る」ことが大切な一歩となる。

2012.10.01

ハンセン病と治療薬の歴史

ハンセン病は「らい菌」によって起こる細菌感染症。末梢神経と皮膚を冒す病気で、早期に適切な治療を行わないと顔や手足などに重い病変が生じることがある。ハンセン病の感染は免疫機能が十分に発達していない乳幼児期に、大量かつ頻繁にらい菌を口や鼻から吸い込むことによるものとされているが、菌自体の感染力は非常に弱く、うつりにくい。たとえ感染したとしても、発病には菌の量や個人の免疫力、栄養事情や衛生状態などが関係するため、栄養が行き届き衛生環境の良い中で生活している場合、発病することは極めてまれ。しかし公衆衛生や栄養状態、経済状況の悪い国々では、新規患者数が1年に十数万人にのぼることもある

治療法が確立される以前は、恐ろしい病気とみなされてきたハンセン病。その治療に大きな光が射したのは、1943年のこと。アメリカのファジェイ博士によって「プロミン」薬の有効性が確認されたことに端を発する。1950年代からは、プロミンの後継薬であったダプソンが世界中で使用されるようになった。しかし’60年代から’70年代にかけて、ダプソンに対する耐性菌が発生してしまう。研究者たちは複数の薬剤の併用によって耐性菌の発現を防ごうと試み、1981年、WHOの研究班がようやく「多剤併用療法(MDT)」を確立した。

MDTの構成成分であるリファンピシンは、1回の投与でらい菌の99.9%を死滅させる。そのため、一端治療を始めた患者からほかの人に感染することはなく、後遺症が残っている、かつて重度の患者だった人からも感染することはない。現在でもこの治療法は効果的で、らい菌の感染力を短期間で失わせるため、ハンセン病は完全に治癒する病気となった。またWHOの統計によれば、MDTの開発によって、’80年代に500万人を超えていたハンセン病の登録患者数は、2011年には約18万人にまで減少している。

日本財団と笹川記念保健協力財団のハンセン病に対する取り組み

日本財団は1960年代から、国内外のハンセン病療養所に対し資金援助などを行ってきた。その後、日本財団初代会長の笹川良一と、ハンセン病の薬「プロミン」の合成に日本で初めて成功した、東京大学の初代薬学部長の石館守三博士が出会ったことがきっかけとなって、活動の場を世界に広げることとなる。ふたりは「世界のハンセン病をなくそう」と合意。1974年にハンセン病対策事業の専門機関として、笹川記念保健協力財団を設立した。

写真:笹川記念保健協力財団常務理事の山口和子氏「これまで慈善事業の対象という観点でしか見られていなかったハンセン病の問題を、公衆衛生対策という視点から、各国の保健省が取り組む必要があるとして、WHOと協力関係を確立したのが、日本財団と笹川記念保健協力財団」と、笹川記念保健協力財団常務理事・山口和子氏は言う。

「世界のハンセン病をなくす」ことを目標として掲げていた両財団は、すぐにWHO(世界保健機関)への働きかけを開始。世界のあらゆる保健問題を抱え、人員も予算も不足しているWHOがハンセン病に本腰をあげて取り組めるように支援を行った。「1975年から今日まで、WHOのハンセン病対策予算の大部分は、日本財団の支援に依っています」(前出・同氏)。

そして1991年、第44回世界保健総会において、2000年末までに、公衆衛生上の問題としてのハンセン病を制圧することが決議され、「人口1万人当たりの患者数を1人未満にする」という歴史的なWHO決議が採択された。ハンセン病制圧の鍵はMDTの世界的な普及にあると判断した日本財団は、1995年から99年までの5年間、毎年1000万ドルのドラッグファンドをWHOに提供し、MDTを全世界に無償供与した。笹川記念保健協力財団は、薬が患者の手元までしっかりいきわたるように、各国の保健省の受入体制の整備支援などに力を注いだ。その甲斐あって、1985年に122ヵ国あったハンセン病の未制圧国は、2011年にはブラジル1ヵ国を残すのみになった。

だがこれでハンセン病の制圧がほぼ達成されたのかというと、決してそうではない。前出の山口氏は言う。「ハンセン病の原因菌であるらい菌は感染力は弱いけれど、潜伏期間が長いことが知られています。ですから日本でも、何年かに1人は患者が発生してしまうのです。ハンセン病は患者数をゼロにするのが難しい。だから我々は“根絶”や“絶滅”ではなく、“限りなくゼロにしよう”という姿勢で闘っています。そして何より大切なことは、早期診断・早期治療の徹底です。後遺障がいという大きな重荷を患者さんが負うことを許してはならないと考えています」。

ハンセン病患者と家族の「尊厳の回復」のために

WHOで掲げた「ハンセン病患者を人口1万人あたり1人未満にする」という目標は、1999年まではWHOの薬の無償配布、2000年以降は、スイスの製薬会社ノバルティスの無償供与のかいもあって、ほぼ達成されることとなった。だがこれでハンセン病の問題が解決されるわけではなかった。

ハンセン病は命を奪う病ではないが、早期に適切な治療を行わないと、体の一部に後遺症が残ることもある。このような外的変化を伴うことなどから、有史以来ハンセン病患者は、世界中で社会から強く隔離・排除されてきた。世界のどこでもハンセン病になったとわかった患者は、居場所を失い、自ら命を絶つこともあったと言われている。さらに患者の多くが故郷や家族から切り離され、病気が治癒しても、社会に復帰することが叶わなかった。就学や就職、結婚などさまざまな基本的人権を奪わることが少なくなかったのも世界に共通している。治療法が確立された現在は、制度や法律などによる差別は撤廃されている。だが数千年の歴史に刻まれたハンセン病のスティグマは、国境をこえ、人種も文化もこえて人々の心の奥底に今も残り続けている。

「一度ハンセン病になったら、一生ハンセン病患者のままだ」と患者が口々に言うように、ハンセン病患者というレッテルを貼られたまま、差別にさらされ、社会生活に復帰できないハンセン病回復者やその家族たちの苦悩の声に、日本財団は立ち上がる。

「差別をなくすために、何よりも当事者たちの生の声を社会に届けることが重要だ」という考えから、インドをはじめとする各国でハンセン病回復者組織の設立支援を始める。各地に点在し、社会から忘れ去られていた当事者たちが力を合わせて声をあげることができれば、政府やメディアなどを動かす大きな原動力となるからだ。これまで社会的弱者として暮らしてきた人々がまとまって力を合わせることはそうたやすいことではない。だが「一歩前進した」。そんな言葉が回復者の方々から発せられている。

社会への働きかけとしては、2003年、国連人権高等弁務官事務所へ、ハンセン病をめぐる差別問題を提起し、’05年、ジュネーヴの国連人権委員会(当時)で「ハンセン病と人権」について発表を行うこととなる。「発表の会場で笹川陽平氏が『ハンセン病は歴史的に偏見と差別をともない、当事者たちは社会から排除され自ら声を上げる機会を奪われてきた。私は今日ここにハンセン病の回復者として勇敢に立ち上がった人々と一緒に参加している。全世界の何百万人というハンセン病回復者を代表するこの人たちの声を聞いてほしい。』と同席してくれたインド・ネパール・ガーナの回復者に発言の場をゆずったのです。彼らの生の声は、委員たちに大きなインパクトを与えたと思います」(前出・同氏)。その結果、同委員会で「ハンセン病の犠牲者とその家族に対する差別の問題」の調査に着手することが決議されることとなった。

以降、日本財団は日本の外務省など様々なステークホルダーをまきこんで差別の問題を訴え続けてきた。2006年には、WHOハンセン病制圧大使であり日本政府ハンセン病人権啓発大使となった笹川陽平会長の主導で、ハンセン病と差別の問題を世界に訴える「第一回グローバル・アピール」を発表(以後現在に至るまで世界の各界指導者の賛同を得て毎年発表を続けている)。そこには、ダライ・ラマ師やジミー・カーター元米国大統領らも名を連ねた。

’08年には国連人権理事会において「ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別撤廃決議案」を提出し、全会一致で可決され、’10年には国連総会本会議でも加盟国の全会一致で採択された。’12年に入り、国連決議および原則とガイドラインの周知・実行を促すため、各国の政府やNGO等に呼びかけ、差別撤廃のための具体的な方策を議論するため、世界5地域国際シンポジウムを開催。フォローアップを続けている。

ハンセン病制圧と人権擁護