黒島復興応援隊~「元に戻す」のではなく、地域に新たな命を吹き込む復興を

2024年1月1日に発生、各地に甚大な被害をもたらした能登半島地震。被災地の多くは過疎と高齢化が進む地域ということもあり、復興を担う人材の不足が指摘されています。そんな中、石川県輪島市門前町の黒島地区では地元住民と外部ボランティアの混合チーム「黒島復興応援隊」による新しい形の復興が進みつつあります。応援隊の発起人でリーダーを務める杉野智行さんに活動の概要や今後の展望を聞きました。

街並みも景色も一変。「ゲストハウス開業の夢」実現直前の大地震

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被害の爪痕が残る輪島市門前町黒島地区

能登半島・輪島市の西南に位置する門前町黒島地区。江戸~明治にかけて北前船の船主や船員が住む「天領」として栄えた集落には黒瓦の屋根が美しい木造家屋や蔵が立ち並び、2009年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
しかし、2024年1月1日に発生した令和6年能登半島地震による被害で、美しい集落は変わり果てた姿に。地区のシンボル的存在だった国の重要文化財「旧角海家住宅」をはじめ、伝統的建造物の多くが深刻な被害を受けました。元県職員の杉野智行さん(36)が所有する住宅もその一つ。杉野さんは黒島に魅せられて3年前に金沢市から移住し、旧角海家住宅に面した住宅と蔵を購入、2024年中にゲストハウスとしてオープンさせるべく準備を進めていました。

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倒壊した「旧角海家住宅」

「自分で獲った新鮮な能登の海の幸・山の幸をゲストに味わってほしくて、地元の皆さんのサポートを受けながら船舶免許や狩猟免許を取得しました。すでに県庁の上司にも退職してゲストハウスを開業する意向を伝えており、2024年は新生活スタートの1年とするつもりでした」と杉野さん。

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3年前に黒島地区に移住、ゲストハウス開業準備を進めていた杉野智行さん

しかし、今回の地震により住居部分の2階の床が損壊、バーとして活用する予定だった蔵も傾いてしまったため、ゲストハウスとして使用することは断念せざるを得ない状況になってしまいました。
「何よりショックだったのは、大好きな黒島の景色が変わってしまったこと。地震による地殻変動で海岸が大きく隆起し、海底だったところが陸地になったため、集落から海への距離が最大で200m以上も遠くなってしまいました。これを見たときは、さすがに頭が真っ白になりましたね」と杉野さんは振り返ります。それでもすぐに気持ちを切り替え、お世話になった黒島のためにできることを探し始めました。

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黒島地区から日本海を臨む。海底の隆起で海が200m以上遠くなった

人口の75%以上が高齢者。地元有志のみの復興には限界が

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地震発生10日後には「黒島応急修繕チーム」を立ち上げた杉野さん

地震発生時の黒島地区の人口は約270人。幸い人的被害はありませんでしたが、地震発生直後は、ほぼ全ての住民が避難所での避難生活を余儀なくされました。電気や水道等のインフラは使えなくなっていたものの、正月用に食料を買いだめしていた人が多かったことや、車で10分ほどの場所にあるスーパーの営業再開が早かったことが幸いして、食料や飲料水に困ることはほぼなかったと言います。「物資よりも人材の不足が大きな課題でした。何しろ黒島の人口約270人のうち75%以上は高齢者で、地震発生直後は避難所の運営も70代、80代の皆さんが交代でなんとか回している状況でした。真冬の非常に寒い時期でしたから、風邪やインフルエンザなど感染症に注意しながらの避難生活は、高齢の皆さんに非常に大きな負担になったと思います」と杉野さん。集落の中では圧倒的な「若手」である杉野さんは、自然と高齢被災者から頼られる立場になっていったと言います。避難所で身寄りのない高齢女性が転倒、骨折した際には、杉野さんが車で片道2時間かかる病院まで送り、治療に付き添ったこともありました。

震災発生からしばらくして余震が落ち着いてくると、「自宅を見に行きたい」、「自宅を片付けたい」という相談も多く寄せられるようになりました。「私はゲストハウス開業に向けて自分で改修作業をしていた関係で、素人ながら作業に慣れていましたし、必要な道具も一式持っていましたので、とりあえずの応急措置ならできるだろうと判断。黒島出身の若手数人と一緒に『黒島応急修繕チーム』を立ち上げて、高齢者のご自宅にブルーシートを掛ける作業を始めました。自分自身が県庁で働いていた経験から、すぐには行政からの支援が望めない状況であることもよくわかっていましたので、まずは安全に注意しながら自分たちでできることをやろうと思ったのです」。

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多数の住宅が倒壊。ブルーシートでの家財の保護が急務だった

応急修繕チームの活動は、住民の皆さんに非常に喜ばれました。修繕チームは全員が地元関係者だったこともあり、住民の皆さんも安心して任せることができたようです。しかし、集落内の被害は想像以上に甚大で、次第に修繕チームだけでは必要な作業量をこなせないことがわかってきました。そこで杉野さんらは、外部からボランティアを募ることを決定。1月下旬には団体の名称を「黒島復興応援隊」に改め、SNSなどで黒島復興のためのボランティア募集を開始しました。

最初は失敗の連続。試行錯誤の末に見出した「外部ボランティア活用の極意」とは?

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がれき撤去作業に当たるボランティアの皆さん

募集を始めると、すぐに全国から多数の応募がありましたが、その運用を軌道に乗せるのは決して容易なことではありませんでした。「当たり前のことですが、ボランティアにもいろいろな人がいて、動機も人それぞれ。純粋に黒島が好きで黒島の役に立ちたいという方もいれば、自己実現や自分探しのためにボランティアをしたい人、能登への旅行のついでに立ち寄って手伝いたいという人もいました。持っているスキルやボランティア経験の有無もバラバラです。それをしっかり見極めて適材適所に人員を配置するのが私たちの役割なのですが、最初のうちは上手くできなくて、ボランティア・被災者の双方の気分を害してしまったり、トラブルになってしまったこともありました」と杉野さんは振り返ります。

こうした苦い経験を経て杉野さんが辿り着いたボランティア活用の極意は、「一人ひとりとしっかり向き合って、話を聞くこと」。ボランティア希望者のニーズやスキルを見極めた上で迎えることでミスマッチを防ぎ、より効率的に復興作業を進められるようになりました。

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スキルに応じた役割分担がボランティア活用のカギに

「活動を継続する上でもう一つの懸念事項だった資金確保については、応援隊名義の口座を開設して寄付を受け入れられる体制を整えました。日本財団のような助成財団からの支援の受け入れにも団体名義の口座は必須だったので、早めに開設して本当に良かったと思っています。皆さまからの寄付は、ブルーシートといった資材購入などに有効に活用させていただいています」と杉野さん。「黒島の現状を知って『現地に行けなくてごめんなさい』、『何もできなくて申し訳ない』というメッセージとともに寄付を振り込んでくださる方もいらっしゃり、私自身が支援のカタチは『現地ボランティア』だけでなく、人それぞれでいいんだという大切なことを学ばせていただきました。支援をいただいたみなさんに心から感謝するとともに、私も次にどこかで災害が起きてしまったときには、そのときの自分にできるベストな方法で何らかの支援ができる人間でありたいと思っています」。

『予測不能な未来』を楽しみつつ、黒島に新たな価値を生み出したい

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震災後に再び住宅を取得した杉野さん(左)とボランティアの佐藤暢さん。改装してゲストハウスを開業予定

震災から、もうすぐ半年。少しずつではあるものの黒島地区の復興は進み、自宅での生活を再開する人も増えつつあります。同時に「ゲストハウスを開く」という杉野さんの夢も、再び動き始めました。当初準備していた住宅での開業は断念したものの、地元の方からゲストハウスに活用できる新たな建物を紹介してもらい、取得に向けて手続きを開始。こちらの建物は2階建てで当初予定していた建物より広く、玄関からは杉野さんが愛してやまない能登の海を臨むことができます。2024年3月には県庁を退職、現在はこの建物を「黒島復興応援隊」の事務所として使いながら、ゲストハウスオープンに向けて改修などの準備を進めています。
「私にとってゲストハウスは、普段の生活では出会えない人と出会える場所。世界中から黒島を訪れた人たちがこのゲストハウスで偶然出会い、その出会いが皆さんの人生をより楽しいものにしてくれたら嬉しいですね」。最近では黒島復興応援隊の活動に関する報道を見てゲストハウスの計画を知った人や企業からの問い合わせも増えており、将来的にはリモートワークや企業研修の場としての活用も見据えているといいます。

「復興はまだ道半ばで、これから先のことは誰にもわかりません。それでも、前を向いて歩き続けたいのです。以前、視察で訪れた福島県で復興を手掛けている方が『予測不能な未来を楽しもう』とおっしゃっていたのですが、私も今、全く同じ気持ちですね。予測不能ってことは、いろんな可能性に満ちているということですから」と杉野さんは目を輝かせます。「私の今のミッションは、ゲストハウスを盛り上げていくこと。そうすることで黒島を単に震災前と同じ状態に『戻す』のではなく、新たな出会いと価値を生む場所に変えていきたい。黒島を『ここに来たら、何かしら新しい出会いや気づきがある』と思ってもらえる場所にできるよう、仲間と一緒に頑張っていきたいと思っています」。