26歳で引退を決めたBリーガーが日本財団でインターンをする理由

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小原翼と日本財団ロゴの写真

はじめまして。小原翼と申します。現在、日本財団でインターンをしています。私は大学4年時にプロバスケットボールリーグ「B‐league」の富山グラウジーズに入団し2シーズン、横浜ビー・コルセアーズに移籍し3シーズンと計5シーズンを戦い、今年の6月で引退しました。

余談ですが、「9×9=81、苦しんでも(9)×苦しんでも(9)=這い上がる(81)」をモットーとし、現役時代の背番号は81番にこだわっていました。

引退後、自分のこれからが決まらない中、紆余曲折を経て日本財団と出会い、現在はインターンという立場で色々と学んでいるところです。今回は、私が引退するまでの経緯や日本財団との出会い、セカンドキャリアについて今思うことについて書きました。

戦力外通告を受け引退

プロ最後の年は、「プロとして次のスタートになる」「最後になる」どちらかだと覚悟をしていました。結果、シーズン終了後には、チームから事実上の「戦力外通告」を受けました。悔しさもありましたが、分かっていた部分もあったので「やっぱりか…。」といった喪失感がありました。でも、「まあ、ここまでよくやったな」という達成感があったのも事実です。まだプロとして続けられたかもしれませんが、結局引退を決断しました。

引退の決断には明確な理由があります。

1つ目は、自分の成長とリーグの成長のギャップです。
私は大学在学中から既にバスケットボールが“仕事”になっていました。楽しくてやっているというよりは「198cmの身長が活かせるはずだから、続けよう」と。そんな理由でバスケをしていました。しかし、ラストシーズンに少し変化がおきました。純粋にバスケットボールが楽しいと感じたのです。自分の成長を感じ、久しぶりに体育館に行くことを楽しいと思いました。ここ数年の中でも最も成長できたと年だったことは間違いありません。

しかし、現実は厳しいものでした。
Bリーグの成長スピードは自分の成長スピードは遥かに早く、最終的に自分の力不足を感じました。Bリーグ初年度からは考えられないほど助っ人外国人のレベルが上がっていることを肌で実感しました。(初年度にいた外国籍選手はほとんどいなく、B2・3に移籍するケースも多かったです。)2009年NBAドラフト2位、220cmオーバーのHasheem Thabeet選手や登録は130㎏台でしたが絶対に150㎏オーバーであろうJoshua Smith選手を始め「世の中にはこんな”化け物”がいるんだ。」と感じさせられる選手が多く、現実を突きつけられました。このまま他のチームで続けても、いずれ引退がくる選手に引退までの執行猶予が与えられているだけのような気がして、自分で見切りをつけることにしました。

プロスポーツ界の勝ち負けは本当に厳しいと感じました。勝者以外には厳しい評価が下される。みんな頑張っているのに、勝てなかったら意味がない。「スポーツとは何なのだろう?」と、日々考えさせられました。

「球を入れることが楽しい」と思ったことが僕のバスケを始めた原点です。しかし、プロ選手として活動する中で、自分も自分の周りも傷つけていて、何の為にやっているのかわからなくなりました。批判を受けることで、悲しい思いをすることも沢山ありました。また、普段は家庭に仕事のストレスを持ち込まないのですが、ラストシーズンはイライラを爆発させ、ダメだと分かっていながらも家族に当たってしまいました。かなり情緒不安定な時もありました。その時、「そんなためにバスケットボールを始めたわけじゃない」と我に返り、もう終わりにしようと考えたのも事実です。

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横浜ビー・コルセアーズ時代にプレー中の小原翼
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地元である横浜の夜景を背景に写真を撮る小原翼

私にとって横浜でプレーすることはとても意味があることでした。育ったこの土地だからこそ頑張りたいと思えました。
「いろんなことに挑戦して楽しみたい、楽しませたい」
「バスケットボールでみんなを元気にしたい」
「横浜でバスケットボールを盛んにしたい」
そう思い、踏ん張ってきました。だから、「戦力外通告」を受けた時「他のチームで引退したくない。引退するならこの横浜にしよう」と思ったのです。横浜で引退したという想いは、私のしょうもない「美学」だったかもしれません。(笑)

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横浜ビー・コルセアーズ時代の小原翼

日本財団との出会い

プロバスケットボール選手の引退を本当に覚悟してから、いろいろな方が、いろいろな方を紹介してくれました。チームの方からスポンサーの社長をご紹介いただいたり、昔からお世話になっている方からIT系の社長をご紹介いただきました。その中で今までの世界では聞いたことのない貴重なお話をたくさん聞くことができました。私の常識が全く通用しない、そんな日々に感激しました。話を聞けば聞くほど「自分はなんて狭い世界に生きてきたんだ」と感じました。

人生は1度きりです。だから、「もっと世界を広げてみたい、視野を広げて自分の限界に挑戦したい。」そう思いました。そして、これから世界が広がると思うと毎日が刺激的で楽しくなってきました。

そんな時、10月から勉強させていただくA‐MAPの関係から、たまたま日本財団の方を紹介していただきました。

そこで実際に話を聞いたとき、日本財団は今の自分が求めていた最適な場所だと感じました。「世界をもっと広げたい」「何がしたいかわからないけど行動したい」日本財団は両方を叶えられる場と感じました。そして、日本財団のHEROsというプロジェクトでインターンをさせていただくことになりました。

見たかったふたつの世界

日本財団で広げられる世界は大きく2つあると思っています。

ひとつはスポーツ関係の人脈です。
私が参加するHEROsには錚々たるメンバーがいます。HEROsは、「スポーツの力(価値)」を活用して社会課題に対する関心を高め、社会貢献活動の輪を広げることで社会課題の解決を目指すものです。HEROsには20競技ものアスリートがアンバサダーとして活動しており、集まって被災地支援に行くなどの活動も行っています。そして、様々な競技のアスリートが一緒に活動し、競技を超えた連携が生み出されています。日本財団に入ることで確実にスポーツの世界が広がると感じました。

ふたつめは、様々な法人や企業との繋がりです。
日本財団は「みんながみんなを支える社会」を目指し活動しています。財団内には多くのプロジェクトがあり、各所と連携し、子ども、社会、国際、海洋の課題解決に向けて活動しています。そのため、今までバスケをするだけでは知らかった、課題に目を向け、色んな企業と連携をしながら仕事をするといった世の中を知ることができると感じました。

「何でも良いから行動したい」と思ったワケ

僕はプロアスリートとして引退を決めた後、セカンドキャリアに迷いました。
アスリートのセカンドキャリアは深刻な問題です。必ず、選手は引退をします。嫌でも次の人生を考えなければいけません。多くのアスリートの引退後の選択肢は少なく(大体自らで狭めているのが現状です)、皆が自身の持つポテンシャルを生かせずにいると思います。

アスリートは競技でしか活躍できないのか?他では輝けないのか?私はそう思いません。だから私は、現役時代からいろいろと準備をしてきました。以下にまとめます。

  • イベント参加
    様々なイベントに積極的に参加することで自分を広げようとしました。横浜市の中学校給食を生徒たちと考え、実現させる経験もしました。
  • ラジオに毎週出演
    パーソナリティとして、毎週放送されるラジオに出演しました。
  • 自らの企画でアパレルの展開TSUBASAGYM企画
    パーソナルGYM経営をしたいという思いがあったが、現役中には難しいと思い、先にアパレルを展開しようと、第3弾企画まで継続的に行いました。
  • NSCA‐CPTの免許取得(パーソナルトレーニングの資格)
    パーソナルトレーナーになりたいと思い、国際的に知られる免許を取得しました。(日本ではトレーナーになるために絶対に必要な資格がないが)
  • 中学高校保健体育科の免許取得
    本来、最終的には教師になりたいという夢がありました。プロバスケットボール選手として活動するのは、プロをやってから教師になる方が、子どもたちに色々な経験を話せると思っていたからです。だから、教師になるために、プロになり経験を増やしたいと思っていました。

色々と準備をしてきたつもりでした。でもいざ引退するとなるとどうしたら良いのかわからない。準備してきた、体験したことをどれもやろうと思わない。将来なろうと思っていた教師にもなりたいと思わない。こんな状況に陥りました。まさか、自分がセカンドキャリアに迷うと思いませんでした。

どうしようか迷っているとき、たまたま日本財団のオファーを受けました。日本財団が僕に求めたことはふたつ。今自分が陥っている状況に向き合うこと、アスリートのセカンドキャリアについて考えること。特に後者については僕自身が迷っている最中だったので、チャンスだとも思いました。どこにチャンスがあるなんてわからないですよね。だから人生は面白い。最終的にはインターンの経験から自分がこれから歩む道が見つかって、羽ばたけると感じています。

引退決断以降、人生が180度変わったくらい色々なことが起き、新たな人生に向けて出発しました。明日何が起きるかなんて誰もわからない今、人生を全力で楽しんで行ければ良いなと思っています。「苦しんでも×苦しんでも=這い上がる」どんな壁が目の前に現れたとしても、楽しみながらよじ登って這い上がっていきたいと思います。

おまけ

引退会見を見てくださった皆さまへ
引退会見時、「9×9=81」をリベンジだったと表現しました。確か、「憎しみは、憎しみを生むから、リベンジのためにスポーツをやってほしくない。リベンジ出来たら虚しくなるだけだ。」という内容を話した気がします。確かに今もその通りだと思います。でも81が違うのか?今考えてみると「9×9=81」他者に向けてるからリベンジだったけど、自分の内部に向ければ良いのではないかと。内部に向けて、困難にぶつかっても、苦しみながらも楽しみながら這い上がっていければ良いのではないかと。だからこれからも、「苦しんでも苦しんでも這い上がる」をモットーに楽しみながら生きていこうと思います。

横浜ビー・コルセアーズ元社長である植田さんからの引退会見時のメッセージはあの時の自分を楽にしてくれたことを今でも覚えています。もうあの時すでに、植田社長はこんなことを伝えようとしてくれたのかな?(笑)