【福島沖地震】被災地に復興のバトンを渡す、災害ボランティアの現場

写真:福島県南相馬市の被災地でがれきの除去を行う災害ボランティアの様子

2022年3月16日23時36分頃。福島県沖を震源としたM7.4の地震が発生しました。3.11の震災と同じ時期、近隣エリアとあって、東日本大震災の記憶が呼び起こされた方も多いかもしれません。

一方、今回の震災は津波の影響が少なかったこともあり、被害状況がメディアで報道される機会が多くありません。しかし、震災は確実に被災地に爪痕を残しています。

最大震度6強を記録した福島県南相馬市の現在の状況と災害ボランティアの様子をお伝えします。

3.11の記憶を呼び起こすM7.4の地震

「寝床でうとうとしていると1回目の地震が起きました。携帯電話の警報アラームが鳴って『あっ!』と。

でも、1回目はそれほどでもなくて、起き上がってテレビをつけて『震度なにかな?』なんてチャンネルを回していたんです。そのとき、2回目の地震が来ました」(齊藤さん)

大地震発生の2分前にも比較的大きな揺れを観測していた今回の震災。

福島県南相馬市でご両親と3人で暮らす齊藤優子さんは、ちょうど就寝しようとしていたところ、発生した1回目の地震で目が覚めたそうです。

その矢先に起きた2回目の地震。それは思いのほか大きな揺れでした。

「本当に大きな地震で『いやぁ、いやぁ』と思わず声を上げていました。もう、無我夢中で。それから停電になって、朝まで真っ暗で何も見えない状況が続きました。

ときどき救急車なのか消防車なのかの赤いサイレンが窓越しに見えたり、ヘリコプターの飛ぶ音が聞こえたり、3.11のときの記憶が思い起こされて本当に怖かったです」(齊藤さん)

国土交通省による4月7日時点の発表によると、今回の大地震の死者は3名。東北新幹線の脱線など、インフラの損傷などの報告はあるものの、東日本大震災などの大地震と比較すると比較的被害件数は少ないように感じられたかもしれません。

しかし、南相馬市の多くの家々では、地震によって壊れた屋根がブルーシートで覆われていたり、ブロック塀が壊れていたり、震災の生々しい爪痕が残されたままです。

齊藤さんのご自宅では、3.11の直前に新築したという母屋は無事だったものの、ブロック塀は倒れ、庭にあった代々受け継がれてきた蔵も崩れてしまいました。

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福島沖地震で倒壊した齊藤さんの自宅の蔵

南相馬市で支援活動にあたる日本財団災害対策事業チームの樋口裕司は、市内だけで屋根や家屋の修繕などを中心に2,000件規模の罹災証明書の申請があるだろうと予想します。

  • 被災者支援措置を活用するための被害状況の証明書

南相馬市での災害ボランティアのプロセス

2022年4月4日から2日間にわたり、齊藤さんの自宅ではボランティアスタッフにより崩れてしまったブロック塀と蔵の撤去作業が行われました。

この日は日本財団の災害対策事業チーム、日本財団ボランティアセンター、災害エキスパートファーム「DEF(デフ)」、日本笑顔プロジェクトなど総勢10名ほどのボランティアスタッフが重機やダンプを扱いながら作業にあたっています。

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倒壊した蔵の撤去作業を行うボランティアスタッフ

災害ボランティアを被災地できちんと機能させるためには、地元のニーズとボランティアスタッフの技能などを上手くマッチングさせていく必要があります。そのため、ボランティアを管理する仕組みが不可欠です。

一般的な災害ボランティアのプロセスは、地震発生後に社協(社会福祉協議会)などの地元のセクターが中心となって、災害ボランティアセンターを発足。被災地のニーズの聞き取り調査をしていきながら、ボランティア登録を受け付け、各現場にスタッフを派遣していきます。

今回の南相馬市での災害ボランティアの一連のプロセスを日本財団の樋口は次のように語ります。

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日本財団 災害対策事業チーム 樋口裕司

「日本財団では阪神淡路大震災以降、ずっと連携している『震災がつなぐ全国ネットワーク』の加盟団体をはじめ、複数の災害系NPOと情報共有をしながら、支援に入るエリアを選定します。

今回、宮城県は山元町、福島県では新地町、南相馬市が比較的被害の多いエリアでした。その中でも南相馬で活動することになったのは、震災前からの人的な縁もあり、活動の拠点となる場所をスムーズにお借りできたことが大きいです。

他のエリアは他団体にお任せして、日本財団を中心としたボランティアチームは『かしま交流センター』の駐車場の一角を拠点としてお借りし、南相馬での活動にあたることになりました」(日本財団・樋口)

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駐車場にコンテナを設置した災害ボランティアの基地

被災地に復興のバトンを引き継ぐ

また「DEF」の鈴木は、どこのボランティア団体がどこのエリアで活動するかなど、「情報共有をしながら“阿吽の呼吸”で行われている」と言います。例えば今回の被災地支援では山元町ではOPEN JAPANという団体が、新地町ではレスキューアシストという団体が活動。

団体同士の連携・チームワークが求められる中、日本財団と今回の南相馬、そして2021年の熱海土石流災害などの現場を共にしているのが、災害エキスパートファーム「DEF(デフ)」です。

普段は東京都あきるの市のお寺で住職をしているという「DEF」の鈴木暢さん。ボランティア活動の中でも屋根の修繕や壊れた建造物の撤去など、危険を伴い専門的な技能・経験を必要とする作業にあたる、“技術系ボランティア”と呼ばれる方です。

齊藤さんのご自宅のブロック塀・蔵の撤去作業も、器用に重機を扱いながら進めていきます。

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DEF 鈴木暢さん

「『屋根から床下まで』なんて言いますが、任される作業はさまざまです。重機やチェーンソーの扱い、被災地の方たちが自分たちでできるようになるためにこれらの専門作業の特別教育を行うこともあります。

東日本大震災のときに知り合いのお寺がいわき市にあって、物資を届けにいったんです。そのときに海岸線沿いの被災状況を目にしたことがきっかけで、以来、被災地支援のボランティアを続けています。ここ2年は日本財団さんと一緒に現場に入ることが多いですね」(鈴木さん)

3月25日に南相馬に現場入りしてから約10日間、屋根のブルーシート貼りや危険ブロック塀の解体・撤去などを1日1件から3件程のペースで行っています。

拠点としている「かしま交流センター」という駐車場で、車中泊しているという鈴木さん。

いつまで滞在するのですか?という問いに対して、「落ち着くまで」という答えが返ってきました。

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DEF 鈴木暢さん

「地域が自分たちで復興できる免疫力がついた時が引き際ですね。逆にボランティアがずっといることで、ダメになってしまう側面もあります。ボランティアに依存してしまうんですよね。

なので、今回も屋根の応急対応だったら、そのやり方を地元の皆さんに引き継いで、それで『後は頼むよ』と言えるのが理想的です」(鈴木さん)

今後、鈴木さんは地元の皆さんに向けて講習会を開催して、復興のための技術を伝えていく予定です。

人を思いやり、寄り添うことが災害現場で求められる“技術”

2022年4月3日時点で、ボランティアセンターに寄せられた住民からのニーズが170件。対応を完了した件数が87件。住民からのニーズは災害直後よりも、しばらく経ってから上がってくることが多いそうです。

今後も増えていくニーズに対して、外部のボランティアスタッフが1日に対応できる件数は限られています。鈴木さんが語るように、いつかは地元の方たちで復興に向けて動き出さなくてはいけない時が来るのです。

また、日本財団の樋口は平時から各地域で災害ボランティアを経験しておくこと、そのために幅広く多くの人がボランティアに参加することが重要だと語ります。

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南相馬市の海岸

「コロナ禍での災害がわかりやすい例ですが、どうしても地元のボランティアの力を頼らなくてはならないときがあります。ただ、被災したからすぐに何かできるかというと、やはり初めてだと難しいことも多い。

他の地域で災害があったときなどに災害ボランティアをしておくことで、地元の『いざ』というときの備えにもつながります。

ボランティアにもフェーズがあります。最初は重機を扱ったり、力仕事のようなものも多いですが、だんだんと住民の皆さんに寄り添うサロン活動のようなものも求められるようになります」(樋口)

DEFの鈴木さんも、「災害の現場で活躍するのは、重機やチェーンソーを扱う技術だけではない」と語ります。

「私たちは技術系ボランティアなんて言われますけれど、たまたま重機やチェーンソーを扱えるからその役割を担っているだけです。

最終的には、地域の人たちが安心してもう一度暮らしていこうと思えるようになるための手段。介護職や看護職、子どもを見る保育士さんもそうですよね。人を思いやって、寄り添うことが災害の現場で求められる“技術”なのだと思います」(鈴木さん)