【令和4年8月大雨】災害支援のプロフェッショナルの知られざる活躍
近年、夏場になると頻発する豪雨による水害。2022年も各地で水害が発生し、青森県、秋田県、宮城県、新潟県、石川県など多くの場所で新たに「被災地」が生まれました。新潟県の村上市・関川村でも、2022年8月に発生した豪雨により、多くの浸水・土石流被害が発生。
被災の現場では、多くの方たちが日常を取り戻すために助けを必要としている一方で、そのすべてに対して行政が支援をすることはできません。助けを求める声をいち早く聞きつけ、適切なサポートをするためのチームを編成し、導くのが、災害支援のプロフェッショナルであるコーディネーターの仕事です。日本財団では、中小企業の皆さまからお預かりした社会貢献企業基金を、災害支援のプロフェッショナルの皆さんへの支援に活用しています。
災害支援団体の皆さんは災害の現場でどのような活動をしているのか。関川村で災害支援のコーディネーターとして活動する特定非営利活動法人レスキューアシストの中島武志さんにお話を伺いました。
浸水被害からの復旧、何が必要?
8月3日から強い雨が降り続き、関川村では観測史上1位の降水量を記録。各所で土石流災害が発生したほか、荒川の内水氾濫により200軒以上の住宅で浸水被害が発生しました。
この事態を受けて、地元の社会福祉協議会が中心となり、災害ボランティアセンターを設置。日頃から全国の被災状況を注視している災害支援団体の方たちは互いに連絡を取り合い、災害ボランティアセンターと連携しながら、支援にあたるエリアをそれぞれの適材適所で決めていきます。
土石流災害の被害が多かった関川村湯沢地区や隣接する村上市小岩内などでは、大量の土砂や流木の撤去が必要となるため、「技術系」と言われる重機の取り扱いが可能な団体やボランティアスタッフを派遣。一般ボランティアスタッフとともに作業にあたる予定だったレスキューアシストは、大規模な浸水被害が発生した関川村高田地区を担当することに。
「8月3日は福島県沖地震の被災地になった南相馬にいました。強い雨が降り続いているという話や関川村は交通の便が良くないためボランティアスタッフがなかなか集まらないのでは、などの話も事前に聞いていました。レスキューアシストとしては7日に現地入りして、10日から活動を開始。担当することになった高田地区の被害はほぼ浸水で、泥が住宅の中に積もってしまっている状態でした」(中島さん、以下同)
作業は単純に家屋の泥出しをするだけにとどまりません。水浸しになった家屋は壁や床の張り替えを必要する場合もあり、それらを大工さんに引き渡すための掃除や乾燥など、多くの人手が必要になります。中島さんは被災者のニーズをとりまとめて、多くのボランティアスタッフを指導しながら、各戸のニーズに対応していきます。
取材当日に訪れた現場は2mも浸水したという一軒家。床を剥がして乾燥させ、木造の骨組みはきれいに掃除されていました。木の骨組みをきれいに掃除していないと、大工さんは新品の木材に取り替えることになるため、被災者の方の金銭的な負担が増えてしまうのだそう。中島さんは各戸の経済的な事情も踏まえながら、最適な支援を検討。現場ではボランティアスタッフに壁の剥がし方を指導しながら、作業を進めていました。
「私は工事現場の監督のようなものですね。施主さんの希望を聞いて、一般のボランティアスタッフさんが怪我をしないように安全に気をつけながら一緒に作業する。道具の使い方や作業の仕方が分からなかったら指導もします。ボランティアスタッフさんにはきちんとその作業する家のストーリーをお伝えするようにしています。ただ言われた作業をやっているだけでは達成感もないですから。きちんとストーリーをお伝えして、困った人のためになれたという実感が湧くと、もう1度来ようかなという気持ちになってくれるんです」
東日本大震災をきっかけに生まれた災害支援のプロ
中島さんがそこまでボランティアスタッフの気持ちを考えるのには、ご自身の過去の経験が関係しています。
「自分がもともと一般のボランティアスタッフをしていたので、気持ちがちょっと分かるんですよね」
以前はたい焼き屋を営んでいたという中島さん。ちょうど店を閉めて宙ぶらりんだった時に起きたのが東日本大震災でした。テレビ越しに被災者の姿を見て、居ても立っても居られなくなった中島さんは私財を投じて支援物資を購入。知人の伝手を頼って石巻に向かいました。
車を持っていた中島さんは現地では住民の困りごとを聞いて回る“ローラー班”として活動。欠かせない人材になった中島さんは結果的に3カ月半もの期間、ボランティアスタッフとして石巻に滞在したそうです。
この石巻での経験やつながりがきっかけで、その後も全国各地で災害支援ボランティアとして活動するようになった中島さんは、レスキューアシストを設立。災害支援のプロとして生きていくことを決めました。
「熊本地震が起こる直前のタイミングでレスキューアシストを設立しました。今は他の仕事もやっておらず、災害支援の仕事一本でやっています」
災害ボランティアセンターが閉じても、復興は終わらない
被災者の方たちは自ら助けを呼んでいる人たちばかりではありません。そもそもボランティアの存在や何をやってくれるのかを知らない方。知っていても頼むのを躊躇してしまう方など、さまざまです。
「印象に残っているのは一軒家に住んでいる男性の方。自分一人で何とかしようとしていたんです。私たちがその方を見つけた時はもう家中カビだらけで、臭いもすごかった。最初は『お手伝いしましょうか』と声をかけても『自分で全部やるから、いらん』なんて調子でした。
でも、『健康に悪いからカビだけとっちゃいましょうか』と私が行ってぱっとカビだけ取ったんですよね。そうしたらだんだんと信頼していろいろと頼んでくださるようになって。毎回伺うと『ありがとう、ありがとう』と言って、梨とかスイカとか持ってきれくれるんです。ボランティアの皆さんも喜んでくださってね」
8月10日から活動を開始して、約1カ月間。レスキューアシストはこれまでに被災者からの100件以上のニーズに応えてきたそうです。
「1日5件から7件は対応しています。やっと9合目まで来れて、来週にはほぼ終了する見込みですね。浸水した家屋の掃除もほぼ終わって乾燥させている段階なので。住民の皆さんもようやく目途がついて未来が見えてきたので、少しずつ笑顔が戻って来ている印象です。予想以上にボランティアが頑張ってくれた、と泣いて喜んでくださる方もいらっしゃいました」
その役目を終えようとしている関川村の災害ボランティアセンター。しかし、中島さんは継続的な支援の重要性について話します。
「これからもニーズがあれば、関川村に来て支援は続けるつもりです。これから冬になります。その時に大工さんが作業をできていないと、寒くて家の中で過ごすことができなくなってしまいます。もし大工さんが来れていない家があれば、私たちがいって応急処置で床張りをしなくてはいけないですから」
しかし、継続的に支援をするためには経済的な支えがなくてはなりません。中島さんのような災害支援のプロフェッショナルが継続的に活動できるようにするため、皆さんから募った寄付金が日本財団を通じて届いています。
「私たちは赤字でも最後まで災害支援の現場に残ろうと思ってがんばっています。でも、多くの団体はお金が尽きてしまったら、支援を続けられないのが事実です。私たちは福島沖地震の被災地にもブルーシートの補修をするために毎月行かせてもらっています。これも日本財団を通じて皆さんが寄付してくださったからこそなんですよ」
関川村高田地区での取材後、土石流被害が大きかった隣の村上市小岩内に向かうと、そこにはまだ流木によって全壊になった家屋が生々しい様子で残っていました。
令和4年8月豪雨の被害の大きさを改めて感じるとともに、復興への道のりの長さを感じさせる風景。世間の災害への記憶が風化していくだろうこれからも、災害支援の団体の皆さんと共に継続的な支援は続いていきます。