ハンセン病の歴史を語る人類遺産世界会議 開会挨拶
皆さま、本日はご参加いただき、ありがとうございます。また、本日は、世界で高い評価を受けておられる宮崎駿監督より、特別に貴重なお話をいただけるということで、誠にありがとうございます。
ハンセン病は、1980年代に治療法が確立し、世界中のほとんどの国において、公衆衛生上の問題としての「制圧」が達成されつつあります。
しかし、病気としての制圧で大きな成果が出ている一方、今では世界各地でハンセン病が「過去の病気」として捉えられるようになってきました。世界にまだ残る療養所や病院などの施設の中には、閉鎖されるところも出てきています。
十数年前、私は、ハンセン病が根絶された地中海の島国、マルタ共和国を訪問しました。マルタ島には、病院も、療養所も、すでになくなっていたので、私は最後に患者の方々が住んでいたという場所を訪ねました。
そこには、小さな石碑のような標識の他は、崩れた石や廃材が残っているだけでした。雑草が一面に生い茂るこの場所に、ハンセン病の患者の方々が暮らしていたという証はもちろん、過去を偲ぶものは何もありませんでした。
それでも私は、かつて、この場所にいたはずの人たちの生活に思いを巡らせてみました。
しかし、今後、療養所や病院の跡が次々に空き地になったり、別の用途に開発されてしまったら、ハンセン病を患った方々の生活に思いを巡らせることは、本当に難しくなってしまうのではないかと、私は焦りを感じました。
このように、療養所や病院の跡地だけでなく、ハンセン病患者の方々が書かれた日記、当時の日常を描いた絵画や写真などの記録や記憶が、世界中で失われつつあります。そして、これらは、誰かが残していこうとしなければ、やがて、永遠に失われてしまうかもしれないのです。
皆さまご存知の通り、ハンセン病は、人類の歴史を通して、厳しい偏見と差別の対象になってきました。強制的な隔離などを含め、社会が、この病気と患者や回復者の方々、ご家族の皆さまにどう接してきたのか。その歴史は「負の遺産」「負の歴史」として語られることが多いものです。差別の経験やその記録を未来に伝え、人類が忘れてはならない教訓として残すことは非常に大切なことです。
同時に、ハンセン病の歴史は、患者や回復者の方々、そして家族の方々が過酷な状況に置かれながらも、差別を乗り越えて生きてゆく、生命の輝きの歴史でもあります。名前を失い、故郷を失い、家族、友人をも失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として、生きようとしてきたその軌跡は、人間の強さと寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史でもあります。
そして、ハンセン病との闘いの歴史を次世代へと引き継ぎ、後世に残していこうという動きが、様々な形で進んでいます。
国立療養所多磨全生園に住む私の長年の友人である平沢保治さんは、小学校や中学校に出向き、子どもたちに、自分の受けてきた体験を話し、人を思いやることの大切さや人としてどう生きるかを語りかける機会を作っています。
全生園の隣の敷地には、国立ハンセン病資料館が建てられました。各地の国立の療養所でも、それぞれの歴史を語り継ぐための取り組みが行われています。
海外には、フィリピンのクリオン島という、昔、ハンセン病患者の方々が隔離されていた島があるのですが、今では、入居者が少なくなった療養所や施設などが資料館として残されています。ヨーロッパ各地の療養所を文化施設として保存するという動きもあると聞いています。
これから行われる3日間の会議では、世界各地のハンセン病の歴史を皆さまと共有し、この歴史を未来に残していくために、私たちに何ができるのか。それぞれの思いや経験を語り、議論を重ねていただければと思います。この会議が、失われつつあるハンセン病の歴史を次世代の人たちにとっての教訓として残す、重要な一歩になることを心から願っています。