「目の前のことを突き詰めれば、将来の道が開けてくる」中村憲剛が後輩達に送る言葉

写真:中村憲剛さん

2021年12月14日、元サッカー日本代表の中村憲剛さんが母校・中央大学で、サッカー部の選手に講演を行ないました。

中村さんは、中央大学卒業後に、川崎フロンターレへ加入。現役引退までの18年間を同チームでプレーしました。近年は数多くのタイトルを獲得し、ホームスタジアム・等々力陸上競技場の観客席は満員のお客さんで埋め尽くされています。しかし、過去にはタイトルにあと一歩届かない、苦しい時代もありました。そんな時代から、クラブが取り組み続けているのが、積極的な地域貢献活動。中村さんも、フロンターレの一員として活動に参加することで、地域貢献活動の重要性を痛感。引退後も、Frontale Relations Organizer (FRO)として、ピッチ外の活動を継続しています。

今回は、大学時代のエピソードから、プレーヤーそして一人の人間としての考え方などを、講演会の一部を抜粋してお届けします。

『一番下』から、『プロ』へ

―まずは、中央大学サッカー部に入部した当時を振り返っていただけますか?

同期はエリートばかりでしたね。全国大会に出たことも、選抜に選ばれたこともない僕は、入部した中で経歴も能力も一番下でした。練習についていくことができず、最初に参加したトレーニングの持久走でGKの選手にすら負けるほどでした。

―今では考えられないスタートだったんですね。

でも、一番下なのは自覚していたので、「あとは自分次第だ」と考えていました。先生やコーチが仕切っていた高校と違い、当時の中央大学サッカー部は組織がそこまでしっかりしているわけではありませんでした。選手が練習を仕切ることもありましたし、授業を理由に練習を休むことだってできたんです。

あとは、寮生活で1~4学年の4人で一つの部屋だったので、部屋の洗濯や掃除などの家事もすべて1年生の自分がやる環境でした。成長できたというよりも、「やるしかない環境に飛び込んだので、成長せざるを得なかった」という言い方が正しいのかもしれません(笑)。

―そして、3年生の時には2部リーグ降格となってしまいました。

創部から50年以上1部リーグにいた名門を、初めて降格させてしまいました。僕は10番を付けていたこともあり、すごく責任を感じました。4年生になったらキャプテンになることは決まっていたので、「1部に戻さないといけない」という使命感がありました。

写真
中村憲剛さん

―そして見事、1年で1部昇格を果たしましたね。

同期が協力的でしたし、後輩もしっかりついてきてくれたので、苦労はそこまでなかったですね。時には厳しいことも言いましたが、『1部昇格、2部優勝』という目標がハッキリしていたので。全ては昇格のため、組織をどうやって良い方向に持っていくかを4年生の時に学びました。プロになる前に過ごせたあの1年間は、財産です。

―昇格を決めた試合は、中村さんの得点で劇的な勝利でした。

キャプテンとしてピッチ外で説得力を持つためには、ピッチ内でもプレーで魅せてないといけない。その思いは強かったですね。最終節に1人少ない状況で勝利ができて、チームを勝たせるプレーもできました。思いが結実したという意味で、自分のサッカー人生においても大きな意味合いを持つ試合でした。プロ2年目くらいまでは、昇格を決めたこの試合映像を見て、自分を奮い立たせていました。

無名の選手として入部しましたが、4年間で成長して、プロにもなれました。高校時代の実績は正直関係ありません。みんなには可能性しかありませんから、大学での4年間が大事だと伝えたいです。

写真:中村さんに質問をする学生

―(学生からの質問)プロになる前に、大学時代に学んでおいた方が良いことはありますか?

答えをざっくり言うと、「特にない」かなと。とにかく、4年間全力で頑張ることが大事です。この4年間を全力で頑張り続けることでピッチ内外で学べることはたくさんあるので、社会に出て輝ける要素は準備できるはずです。ただ、全力でやらないとダメ。自分を律して、理想の自分に近づけるように続けることが大切だと思います。

「自分の選択に、何一つ後悔はしていません」

―川崎フロンターレに加入し、プロと大学の違いで苦労したことはありますか?

僕は、カテゴリーが上がると大体苦労するんです。身体的な部分や、頭の中のスピードも慣れるまで時間がかかってしまう。プロになった時は一番苦労しましたね。あとは、よほどのことがない限り4年間いられる大学とは違って、活躍できなかったらチームにいたくてもいられない。その厳しさを入団して10日くらいで感じて、背筋が凍りました。

それでも、どうやったらここから這い上がっていけばいいのかを考えました。自分に足りないものを分析しながらやり続けたことで、1年目からベンチに入ることができ、プロとして自信がつきました。

―そこから18年間、フロンターレ一筋でプレーしました。移籍を考えたことはなかったですか。

国内移籍は考えなかったですね。ただ、2010年の南アフリカW杯後に受けた海外クラブからのオファーには本気で悩みました。最終的には、大卒で拾ってくれたことへの恩や、当時はまだタイトルが獲れていなかったので、その状態で自分が移籍していいものか、と思い残りました。そこから最初のタイトルを獲るまで7年かかりましたけどね(苦笑)。残って良かったと思います。自分の選択に、何一つ後悔はしていません。

―元々、ご自身のキャリア設計などはしていたんですか?

当時の僕にはキャリア設計をしている余裕は無かったです。目の前の事を必死にやっていたら、延長線上にいろんなものが広がっていた感じ。大事なのは、客観的に自分を見ること。今、自分がどこにいて、何ができて、何が足りないのかを考えながらキャリアを歩むことは大事だと思います。

―(学生からの質問)セカンドキャリアを意識し始めたのはいつ頃ですか?

40歳で引退することは決めていたので、現役を全うすることしか考えていなかったです。やりきったら道は広がっているだろうなと考えていました。具体的に何をするかを考えたのは引退した発表した後の12月くらいでしたね。目の前の事しかできないんです(笑)。

写真:メモをとりつつも真剣に話を聞く学生たち

最後まで崩れなかった地域との結びつき

―引退セレモニーのスピーチでは、地域貢献活動についても言及されていました。改めて、そうした活動の大切さを教えていただけますか?

引退セレモニーのスピーチでは用意していた内容が飛んでしまって、本当にプレーヤーの根底にあるものが言葉として出たんだと思います。

スピーチの中にあるように、僕は本当に「プロはサッカーをしてお金を稼げばいい」と思っていました。でも、フロンターレは僕が入る前から、地域貢献活動に力を入れていたんです。当たり前のように活動に参加していたので、特別なことだとは思っていなった。それは僕にとって幸運なことでしたね。ピッチ外の活動がこれほど選手の成長を促すのかと、徐々に感じるようになりました。

地域の方たちやサポーターの皆さんと触れ合うことで、そういう関係が可視化されるんです。誰が応援してくれているのか、誰が自分のプレーにお金を払ってくれているのかを実感できるんです。一方で、地域の方からすると、テレビ越しで見ていた選手が、自分の商店街に訪れて自分の作ったものを食べてくれる。そうすると親近感が湧きますよね。そこで、相互の結びつきが強くなるんです。最後までその関係は崩れなかったと思っています。

僕は等々力陸上競技場に来るお客さんがどんどん増えていく様子をずっと見てきました。アスリートとして、ピッチで結果を残すことは当たり前。ですが、成績に関わらずピッチ外の活動に力を入れ続けているのはフロンターレのすごいところです。それが地域に愛されて、等々力に人が集まる理由だと思います。

―今後のビジョンを教えてください。

ここまでの話を聞いていたら何となく分かると思いますけど、ビジョンは無いです(笑)。呼ばれたところで、求められたことを全力で取り組む姿勢は現役時代と変わりません。その先に世界が広がっている人生を歩んできたので。

ー最後に、後輩に向けてメッセージをお願いします。

プロを目指す選手にとって、大学でのプレーは遠回りに思えるかもしれません。ただ、僕にとって中央大学での4年間は、プロになるための近道でした。

4年間、ピッチ内外で充実した日々を送れるかどうかは、一人一人にかかっています。試合に出るための競争や、勝ち負けはありますけど、それよりも過程が大事。一人の人間として、どれだけ成長できるか。目の前のことを突き詰めれば、将来の道が開けてくると思います。頑張ってください。

写真:中央大学サッカー部の選手たちと中村憲剛さんの集合写真