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三陸発の「サヴァ缶(Ça va?)」の仕掛け人。次に手掛ける東北復興は「コミュニティーの再生」
- 「サヴァ缶(Ça va?)」の仕掛け人が福島県浪江町に移住しコミュニティーの再生に取り組んでいる
- 誰も取りこぼさない復興に必要なものは、次世代への町の記憶や歴史の継承
- 若者にはハッピーでいてほしい。自由を体現できる町として浪江町はフロンティアになれる
取材:日本財団ジャーナル編集部
2011年3月11日に起こった東日本大震災から12年。いまも福島県の一部区域は「帰還困難区域」に指定されており、水産物への風評被害もなくなってはいない。
その復興に注力しているのが、一般社団法人東の食の会(外部リンク)専務理事兼、一般社団法人NoMAラボ(外部リンク)代表理事を務める高橋大就(たかはし・だいじゅ)さんだ。
高橋さんは、東日本大震災発生の3カ月後に「東の食に、日本のチカラを。東の食を、日本のチカラに。」をスローガンに「東の食の会」を立ち上げ、洋風サバ缶「Ça va?」(以下、サヴァ缶)の開発を岩手缶詰株式会社(外部リンク)、岩手県産株式会社(外部リンク)との3社協働で手掛けた。この商品は2013年9月発売から今まで(2023年2月時点)に累計製造数1,000万缶を超え、いまも多くの人に愛され続けている。
そんな高橋さんがいま取り組んでいるのは、震災によって分断されたローカルコミュニティーの再生だという。サヴァ缶誕生の経緯と共に詳しく話を伺った。
三陸発のヒット商品を生み出せば、復興後の産業にもつながる
いまや大手量販店でも見かけるようになったサヴァ缶。読者の皆さんの中にも、ひと際目を引くカラフルなパッケージに惹かれ、購入した人も少なくないだろう。だが、開発するまでの道のりは平坦ではなかったという。
「もともとは東北の生産者と食品販売事業者とをつなげ、販路を回復させることが目的でした。ただ、今までの商品を売るだけでは販路は戻ってこない。そこで考えたのが『三陸発のヒット商品を生み出すこと』。実現できれば『応援』や『復興支援』という文脈からも抜け出し、三陸に新しい価値が生み出せ、より強い販路も開拓できるんじゃないかと思いました」
そこで高橋さんが着目したのは、スーパーマーケットのワゴンで投げ売りされていたサバ缶だった。
「サバ缶が100円以下で買えるのはあまりにも安過ぎると思ったんです。生産者さんもやっていけないんじゃないかと。新たな価値を付与できれば、サバ缶自体の価値を変えられると思ったんです」
そこで高橋さんは従来のサバ缶のイメージを覆すポップなデザインで売り出すことを決める。
「容器からも楽しさやワクワクが伝わって、それでいて国産のサバのおいしさに気付く。そんなポジティブさに溢れた商品にしたかったんです。サヴァ缶は1缶360円、当時のサバ缶相場からするとかなり高価です。小売店の担当者に『絶対に売れませんよ』と言われたこともありましたね」
B to B(※1)での販路開拓は難しい。そう実感した高橋さんは、すぐに販促経路をB to C(※2)へと切り替え、メディアでの情報発信に力を入れた。プロモーションの甲斐もあって、サヴァ缶は徐々に口コミで知られるようになり、テレビで紹介されるほどの人気商品となった。この結果を高橋さんはこう振り返る。
- ※ 1. Business to Businessの略。企業が企業に対してモノやサービスを提供するビジネスモデル
- ※ 2. Business to Customerの略。企業が直接個人 (一般消費者) にモノやサービスを提供するビジネスモデル
「風評が懸念されていた東北の商品でも、しっかりとマーケティング、ブランディングで価値を伝達すれば、『たとえ高くてもお客さまに選ばれる商品が生み出せるのだ』という1つの成功事例がつくれたと思っています。実際、宮城のブランドいちご『ミガキイチゴ』や、海のスーパーフード『アカモク』など、東北発のブランディングにこだわったヒット商品が数多く生まれました。結果として復興支援につながったとも思いますし、何より東北の食業界に新しい価値の生み出し方を伝えられて良かったです」
復興に関わる中で気付いた、分断されたコミュニティーの存在
現在、高橋さんは一般社団法人NoMAラボの代表理事として、福島県浜通り地域のコミュニティー再生という新たな事業にも取り組んでいる。
「震災から12年 。食産業の再生に注力したことで『生産者同士のコミュニティーが戻ってきたな』という実感は得ていました。一方で分断されてしまった住民同士のコミュニティー再生に取り組めていないことにも気付いたんです。思い切って浪江町に移住し、まちづくりと同時に、コミュニティーを再生させることを決めました」
高橋さんが住む福島県双葉郡浪江町は震災時に計画的避難ができず、住民たちは何も分からないまま、全国各地に分散せざるを得なかったという。
「賠償金の差によって避難者間であつれきが生じたり、避難指示が解除された際、戻る人と戻らない人の間でも感情的な対立が生まれたという話もあって。みんなが震災の被害者で誰も悪くないのに、『なぜ対立しないといけないのか』と、本当に悲しくなりました。これは何とかしないといけないと思いましたね」
まずは浪江町からコミュニティーの再生を。そんな思いを胸に高橋さんは2020年からまちづくりとコミュニティー再生事業に取り組み始めた。当初、外部から移住した人間がまちづくりに携わることに住民から反発されるんじゃないかと不安を感じていたが、予想に反し住民の方々はオープンだったという。その理由は浪江町の歴史にあった。
「浪江町には、天明の大飢饉(※)の頃から、他の地方からの移民を受け入れてきた文化があったんです。住民に話を聞きに行くと『実はうちの先祖も移民なんだよね』と言われることは多かったですね。また、住民の方々が一度『避難者』というマイノリティーを体験していることも大きかったと思います。そういう歴史があるからこそ、外部から来た人も寛容に受け入れ、移住してきた人が抱える不安にも寄り添えるんだと思いました。東日本大震災は二度と起きてはならない悲劇ですが、元からの住民も、私のような移住者も垣根を越えてコミュニティーができ、浪江町からワクワクするような新しいイノベーションが生まれつつあるのも事実なんですよね」
- ※ 江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて、東北地方の農村を中心に発生した飢饉
コミュニティー再生において、新しい風を取り入れることはとても重要だ。しかし、忘れてはいけないこともある。それは浪江町に戻れない人を取りこぼさないことと、これまでの町の記憶や歴史を継承していくことだ。
「いま、浪江町の人口は約1,900人(2023年2月時点)。震災前は2万人ほどいたことを踏まえると、9割以上の人は町外にいることになります。浪江町に戻りたいけどさまざまな理由から戻れない人がいるわけで、僕はこの方々を取りこぼしたくありません。町外の方にお話を聞くことがあったんですが、町が復興していく過程を外から見ていると『私はもう浪江町の住民ではないと感じてしまう』と疎外感を抱いてしまうそうなんです。みんなで一生懸命やっているまちづくりが、戻った方と戻れていない方を分断させる原因になってほしくない。記憶や歴史の継承についても同じ。それをないがしろにしては、住民同士の分断を助長させてしまいます」
こうした高橋さんの思いを実現させたのが、「なみえの記憶・なみえの未来」というアートプロジェクト。住民が残したい浪江町の記憶・歴史と、実現したい未来像の共有が目的だ。
また、2023年2月には、浪江町の歴史や想い出を題材にしたオンライン謎解きアドベンチャー「時の波へ」(外部リンク)をリリースした。
震災当時はまだ幼かった子どもたちに、浪江町の歴史を引き継いでいくことを目的として制作されたもので、制作するにあたって高橋さんが大事にしたのは、「地元の力で作る」ということ。
「本来ならゲーム制作会社とかに依頼するのが普通ですよね。でも『時の波へ』は、地元のクリエーターだけで作りました。企業に任せるのではなく地域の力だけでコンテンツを作り上げることが大事だと思ったんです」
こうした多くの人の尽力により、復興への歩みは進められている。ただ、高橋さんは復興後の東北を見据えたとき、自分たちでアクションを起こそうとする気持ちがまだ足りないように感じているという。
「震災後は誰も予想できなかった規模の被害だったために、政府や企業の支援が必要不可欠でした。ただ、それに依存し過ぎるのも怖いと感じています。大企業に依存した経済構造がつくられてしまうと、それありきで地域を養っていくことになりますよね。それでは震災前と何も変わらないんです。大事なのは当事者性で、『自分たちの力で自分たちの町を興そう』という気持ちで働きかければ、本当の意味で強いローカルコミュニティーと、強い産業がつくれると僕は思っています」
ローカルな地で、若者が自由を体現できる環境をつくりたい
高橋さんがコミュニティー再生を手掛けながら目指していること。それは若者が自由を体現できて幸せを感じられる環境づくりだ。
「社会活動とかも素晴らしいとは思うんですけど、若い方にはまずハッピーでいてほしいなと思っているんです。浪江町に移住してきて『自分のありたい姿でいられて、やりたいことをそのままできる環境ほど幸せなことはない』と改めて感じました。なので、これを多くの若者が体現できる環境をこの地でつくれたらいいなと思っています。現代の日本は形式やルールが優先され過ぎていて、ちょっと窮屈ですよね。家の外でギターを弾くとか、トランペットを吹くとか、そういうことすらできないじゃないですか。日本がこれだけ経済が発展しているのに幸福度が低いのは、自由度の低さも起因していると思います。若者がローカルな地でやりたいことやりながら食べていける、かつ家庭も築けるっていうような場所を全力でつくっていきたいです。東北はそのフロンティアになれると信じています」
高橋さんは「福島に移住しても毎日オンラインミーティングで詰まってるけど、朝、どこで仕事するかを選び、車で好きな音楽を爆音でかけ、大声で歌いながら、こういう景色の中を走る。これだけでも、超満員電車に押し込められる東京よりも圧倒的に日々の幸福度が上がる」と、Twitterでつぶやいている。
いまはまだ帰還困難区域が残っている福島県だが、高橋さんや住民の力によって復興やまちづくりは着実に歩みを進めている。近い将来、全ての被災地が復興を遂げることを願ってやまない。
〈プロフィール〉
高橋大就(たかはし・だいじゅ)
一般社団法人東の食の会 専務理事、一般社団法人NoMAラボ 代表理事。1999年に外務省入省。2008年に外資系コンサルティング企業へ転職。2011年、東日本大震災の直後から東北支援のNPOへ参画する。2011年6月に東の食の会を発足し、事務局代表に就任。同年8月にオイシックス株式会社の海外事業部長(執行役員)に就任。そして2019年に福島県浜通りのまちづくりと社会課題解決ビジネスづくりに取組むNoMAラボを立ち上げ、2020年に法人化。現在は福島県・浪江町にてコミュニティー再生事業とまちづくりに取り組んでいる。
一般社団法人東の食の会 公式サイト(外部リンク)
一般社団法人NoMAラボ 公式サイト(外部リンク)
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