沿革 1991年〜2010年

1994年|福祉車両の配備を開始

統一デザインによる福祉車両の配備事業は、車いす対応車の配備を1994年度から開始。その後、高齢者・障害者福祉の拡充に伴い、訪問入浴車、送迎支援車、介護支援車等、送迎主体の車種からバン・トラック・出張販売車等の就労支援のための車種まで、その時のニーズの変化に応じて対応している。

写真:車椅子利用者が福祉車両に乗り込む様子

1995年|阪神淡路大震災

阪神淡路大震災は、日本におけるボランティア活動の歴史を大きく変えた。一般の学生や社会人などが機能不全に陥った被災地の行政に代わって救援活動に参加。97年度までの4年間に104件の緊急復興支援活動を支援。さらに復興支援とボランティア活動の定着を目指し「阪神淡路コミュニティー基金」を設置。ボランティア団体、NPO等との信頼関係が築かれた。

写真:被災地の様子

1995年|第二代・曽野綾子会長の就任と「日本財団」のスタート

95年7月、初代会長の笹川良一が死去(享年96歳)。同12月、二代目会長として曽野綾子が就任。翌96年には「日本財団」のニックネームと、シンボルマーク(シェアマーク)が定められた。笑顔に満ちた人の和を表すキャラクターと、海洋と大地をイメージした色づかいは、日本財団の姿勢を表現したもの。デザイナーは松永真氏。

写真:曽野綾子会長

1996年|ホスピス・プログラムの開始

専門家によるホスピス研究会を立ち上げ、適切なホスピス・緩和ケアの普及・推進のための提言に基づき、啓発活動、人材育成、施設整備の3つを柱とするホスピス・プログラムを始める。ソフト・ハードの両面から支援を行う一方、終末期ケアの現場で質の高いケアを実践できる医師や看護師(ホスピスナース)の養成に力を入れてきた。

写真:話し合いをする看護師たち

1997年|ナホトカ号重油流出事故で支援活動

日本海を航行中のロシア籍タンカー「ナホトカ号」が荒天により船体が分裂、沈没し、大量の重油が流出した。事故当日に神戸から現地入りした阪神淡路大震災救援のボランティア団体と連絡を取り合い、ボランティア受け付けのためのセンターを現地(福井県(旧)三国町)に設置。迅速なセンター開設で週末に間に合い、全国から1000人を超えるボランティアが駆けつけた。

写真:重油回収作業の様子

1997年|犯罪被害者やその家族をサポートする対策

日本では犯罪被害者の相談活動を行う民間団体やボランティアが少ないことから、早急に運営体制を確立し、相談できる組織の拡大が求められていたため、(財)犯罪被害救援基金に対して助成を開始。

写真:平成13年 第2期 ボランティアセミナーの様子

1998年|長野冬季オリンピック・パラリンピック大会を支援

特にパラリンピックでは、情報発信基地として設置されたボランティアセンターの運営費を負担。また、他のボランティア団体と財団の福祉車両を動員して、障害を持つ観客の送迎などを行った。

2000年|「海賊」対策への取り組み

1999年から海賊被害の実態調査を実施。対策の必要性が明らかになったことから、アジア各国の海上保安当局間の連携・協力を提案。2000年3月にシンガポールで海賊対策国際準備会合、4月に東京での海上保安庁長官級会議の開催を支援するなど海の安全に関する国際協力の新しい枠組みづくりを行った。

写真:海上での調査の様子

2001年|東京・赤坂に「日本財団ビル」完成

虎ノ門の海洋船舶ビル(1964年竣工)老朽化に伴い2000年に取得した旧日本NCRビル(赤坂1丁目)へ移転。情報発信基地としての機能を備えた新しい公益法人ビルが稼働。

写真:日本財団ビルの外観

2001年|笹川陽平がWHOハンセン病制圧大使に

2001年5月、理事長笹川陽平がWHOからハンセン病制圧大使に任命された。笹川はまた2007年に日本政府からハンセン病人権啓発大使に任命され、世界中で病気の制圧と差別撤廃に向けた取り組みを続けている。

写真:刺繍をする回復者の女性たち

2002年|第1回ランチタイムコンサート開催

若手演奏家への発表機会提供のため、また近隣にお勤めの方々に対する地域貢献活動の一環として、昼休みの時間帯に日本財団ビルにて無料コンサートを開催。初回の出演者はピアニストの北島哲郎さん。以降毎月2回継続して開催している。

写真:ランチタイムコンサートの様子

2004年|モンゴルで「置き薬」プロジェクトを開始

04年1月、モンゴルで2000世帯に置き薬の配備を開始。地域の薬草などでつくる常備薬を集落ごとに配備、定期的に補充に回る「富山方式」で成功。その後タイ、ミャンマーなどでも導入。

写真:置き薬の薬箱とその中身

2004年|改修による福祉拠点の整備を本格的に開始

築70年の町家を改修した「ボーダレス・アートミュージアム NO-MA(滋賀県/2003年助成・2004年6月オープン)」を皮切りに、古き良き町並みの保存と町家を再生し、地域の資源に活用する改修事業の公募を開始する。

写真:ボーダレス・アートミュージアム NO-MAの外観

2005年|ホームホスピスの整備を開始

終末期や難病などの医療依存度の高い人が、住み慣れた自宅に近い環境で、最期まで自分らしく暮らすことを支援するため、地域の中にある民家を改修したホームホスピスの整備を始める。

写真:ホームホスピスの外観

2005年|曽野綾子会長が退任、第三代として笹川陽平会長が就任

05年7月に笹川陽平会長が就任。情報公開と自らの考えや行動を紹介する「笹川陽平ブログ」をスタート。

写真:笹川陽平会長

2005年|日本財団公益コミュニティーサイト「CANPAN」開始

市民活動に取り組む方々の情報発信をお手伝いすることを目的にしたWebサイト。日本財団の公益事業のポータルサイトとして、膨大な情報が掲載されている。

「CANPAN」Webサイトの画面イメージ比較。左が初期、右が2012年3月にリニューアルしたWebサイト。

2006年|ハンセン病差別撤廃のための第1回「グローバル・アピール」

06年1月、インド・デリーにて、ノーベル平和賞受賞者5人を含む世界の指導者12人の連名で発表。これを機に、毎年、各界のリーダーの賛同を得て差別撤廃を呼び掛けるため発表している。

写真:グローバル・アピール発表の様子

2007年2月|東京マラソン開催実現と運営に協力

車いすの障害者と健常者が同時に走るマラソン大会を実施したい、と曽野前会長が長年提唱していた、世界最大規模の市民マラソンが実現。第1回大会では笹川スポーツ財団が養成したボランティアリーダー299人が活躍。

写真:東京マラソンで活動するボランティアリーダーたち

2009年|真心絶品プロジェクトを開始

全国の障害者施設でつくられた優れた製品を多くの人に知ってもらうため、施設製品の開発秘話や製造過程のストーリーをウェブサイトなどで紹介し、販売促進に資する取り組みを行っている。

写真:真心絶品プロジェクトの販売コーナーの様子

2010年|「渚の交番」プロジェクトを開始

2010年6月26日、宮崎県宮崎市の青島海水浴場で、渚の交番プロジェクトの第一号がオープン。マリンスポーツから地域振興まで、幅広い海の活動の拠点として、既存施設を改修するプロジェクト。

写真:渚の交番の外観