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「障害の社会モデル」という考え方が“無意識の差別”に気付かせ、より良い社会へと導く

階段の前で頭を抱える車いすユーザー
車いすユーザーが移動できないのは、障害のある個人が原因? それとも移動できる手段を用意していない社会が原因?
この記事のPOINT!
  • 「障害の社会モデル」は、障害者が直面する困難は個人ではなく社会に起因するという考え方
  • 「障害の社会モデル」を体感してもらうために「バリアフルレストラン」が開催された
  • 誰もが当事者になり得るからこそ、当事者が抱える困難を自分事として捉えることが重要

取材:日本財団ジャーナル編集部

2024年4月1日より「障害者差別解消法(※)」が改正施行され、民間事業者による障害者への合理的配慮の提供が法的義務化されました。

この合理的配慮とは、障害のある人とない人とで機会や待遇に差が生じることをなくし、支障となっている事情を改善、調整するための措置のこと。これは誰一人取り残さない共生社会の実現に向けて、必要不可欠な措置ともいえます。

しかし、障害者が社会の不均衡を訴えかけたとき、「努力が足りない」「わがままを言うな」といった否定的な意見が出ることも多々あります。なぜ、理解し合うことが難しいのでしょうか?

そんな問題を解決する糸口になるのが、「障害の社会モデル」という考え方です。

「障害者の社会モデル」とはどういった考え方なのか? そして、平等な社会を目指すためには何が必要なのか?

公益財団法人 日本ケアフィット共育機構(外部リンク)で経営企画室室長を務める佐藤雄一郎(さとう・ゆういちろう)さんにお話を伺いました。

今回、話を伺った日本ケアフィット共育機構の佐藤さん。画像提供:公益財団法人日本ケアフィット共育機構

「障害」は個人の責任か、社会の責任か

――まずは公益財団法人日本ケアフィット共育機構の取り組みについて教えてください。

佐藤さん(以下、敬称略):私たちは「誰もが誰かのために、ともに生きる社会の実現」をビジョンとして掲げています。シンプルに言うならば、「共生社会」の実現を目指しているんです。

そのためにさまざまな取り組みを行っており、例えば2000年に「サービス介助士」(外部リンク)という資格を立ち上げ、共生社会の実現を担う人々の育成に力を入れています。「サービス介助士」とは、高齢者や障害者を介助するための心構えや技術を学び、適切な介助を提供する人のことを指します。

現在では1,000社ほどの企業が導入し、22万人ほどの有資格者が存在します。

車いすを押す人
「サービス介助士」は、障害者や高齢者などに対して適宜適切なサポートができる人になるための資格

佐藤:また、山梨県では障害者就労支援も行っており、多角的な事業を通して共生社会の実現を目指しています。

――その一環として、「障害の社会モデル」という考え方の周知にも取り組まれていると聞きました。

佐藤:そうですね。「障害の社会モデル」とは、「障害者が直面する困り事は社会や環境に起因するもの」という考え方を指します。その逆が、「障害の個人モデル(医学モデルともいう)」で、「障害者が直面する困り事は個人の心身機能が原因である」と捉える考え方です。

例えば、エレベーターがない建物があったとします。それだと、車いすユーザーは2階に上がれないですよね。そんなときに「車いすだから2階に上がれない」と、障害や困難の原因は個人にあると考えるのが「障害の個人モデル」。一方で「車いすユーザーが2階に上がれる方法を建物の管理者が用意していない」と、障害は社会や環境にあると考えるのが「障害の社会モデル」になります。

障害のない人からすると、障害者が何らかの困り事を抱えているとき、原因は「その障害者の障害にある」と考えがちです。だから、車いすユーザーに対して、「自己責任だ」とか「リハビリをすればいい」といった暴論がぶつけられてしまうことがあるんです。

でも本当は、「立って歩けることを前提としている社会の側」に原因があると思いませんか?

――「個人モデル」的な考え方を無意識にしてしまっている人は少なくないかもしれません。

佐藤:それは危険なことだとも思います。個人の側に原因があると考えてしまうと、社会の側にある問題が見えなくなってしまいます。すると、障害者だけではなく、さまざまなマイノリティ(社会的少数者)の人たちに過剰な負担がかかってしまうかもしれませんし、差別的な対応もなくなりません。

また、「個人モデル」の考え方のまま配慮がなされていくと、「障害者=かわいそう」「障害者=何もできない」といった、誤った捉え方が広まってしまう恐れがあります。

だから私たちは、「障害の社会モデル」という考え方を、社会全体に浸透させていきたいと考えているんです。

障害者と健常者が反転する体験を通して

――過去に車いす使用の方が、駅員さんに事前連絡をしないで駅に訪れた時に、乗車拒否をされ、その話をブログに公開したところSNSを中心に炎上したというニュースが話題になりました。車いす使用の方に対し「駅員さんを困らせるな」「わがままを言うな」といった意見が非常に目立ちましたね。

佐藤:日本は自己責任論がとても強く根付いているように感じます。例えば、勉強があまり得意ではない人がいたとしたら、「努力が足りない」と見なされがちです。でも、もしかしたら十分に勉強ができる環境が整えられていなかっただけかもしれない。勉強ができる、できないは、家庭環境が大きく影響する場合だってあります。

ただ、勉強ができる人、成功している人からすると理解しづらいかもしれません。むしろ、自分たちはたまたま勉強しやすい環境を与えられていただけなのに、「努力したおかげで成功できている」「努力しないのは甘え」と思い込んでいる人も少なくないかもしれません。

それと同様に、何の不便もなく駅を利用できている人は、自分たちが優遇されているということに気付きづらいものです。

そういう人たちが、支援を求める障害者に対して「わがままだ」と声を上げてしまうのではないしょうか。

――誰かが困り事を抱えている背景には、社会構造のいびつさも関わっているかもしれませんが、そこは考慮されないのですね。

佐藤:そうですね。それを体感してもらうために始めたのが、「バリアフルレストラン」(外部リンク)という体験型プログラムです。「バリアフルレストラン」は、車いすユーザーが社会のマジョリティ(多数派)となった逆転した社会という設定のレストランで、店員は全員車いすユーザーです。

車いすの店員が二足歩行障害者の客を案内している
「バリアフルレストラン」では、二足歩行者が障害者となる、ユニークな試み。画像提供:公益財団法人日本ケアフィット共育機構

佐藤:ここを訪れた二足で歩く人はマイノリティ(少数派)であり、立って歩くことが障害と見なされる「二足歩行障害者」の客となります。

設備も車いすユーザーに合わせて設計されているので、天井が低かったり、いすが備え付けられていなかったりするんです。

二足歩行の方へのおもてなしの心遣いと書かれたポスター。二足歩行障害者への配慮の例がイラストで記されている
バリアフルレストランの壁に貼られている、二足歩行障害者への配慮が記されたポスター。画像提供:公益財団法人日本ケアフィット共育機構

――まさにマジョリティとマイノリティがひっくり返っているんですね。

佐藤:そうなんです。プログラムの中で、二足歩行障害者への配慮としてヘルメットを貸し出したり、車いすが買えるよう寄付を呼びかけたりします。でも、実際に参加した人たちからすると、そんな配慮は全くうれしくないんですよ。ヘルメットを貸してもらったところで、車いすユーザーをマジョリティとした環境は変わらないですから……。

二足歩行障害者がヘルメットをかぶっている
二足歩行障害者には、ヘルメットの貸し出しもするという。これが「バリアフルレストラン」での合理的配慮の形。画像提供:公益財団法人日本ケアフィット共育機構

佐藤:これはつまり、現実の社会と同じなんですよね。二足歩行をできる人がマジョリティの社会の中で「バリアフリーな道を一本だけつくりましょう」とか、「車いすが利用できる席を何カ所か設けましょう」と言われても、それは平等ではありません。

――その場しのぎの対処ではなく、多数派向けに設計されている社会のあり方自体を見直さなければ意味がないですね……。

佐藤:そのとおりです。「マジョリティの無意識」に気付いてもらいたく、バリアフルレストランを企画しました。

実際、参加者からは「障害は社会が生み出しているものだと理解できた」というような感想をいただきます。やはり、体感することで見えてくるものがあるようです。

ただ、「バリアフルレストラン」に一度参加しただけで全てを理解するのは難しいでしょうし、社会の偏りに気付くための取り組みは継続的に行っていくべきだとも感じています。

障害者が生きやすい社会は、誰にとっても生きやすい

――障害のある人たちが抱える困難を、より多くの人が自分事として考えられるようになるためには、何が必要だと思いますか?

佐藤:そもそも、誰にだってマジョリティ性とマイノリティ性が同居していると思うんです。障害の有無だけではなく、右利きか左利きか、性別はなんなのか、海外にルーツがあるのかどうか……。

そして、それらマジョリティ性、マイノリティ性は固定的なものありません。ある状況下ではマイノリティだったものが、また別の状況下ではマジョリティになることもあります。だから誰もがマイノリティ当事者になり、困難や不便さを感じる場面が出てくる可能性を秘めているんですよね。

ですから、マイノリティが抱える困難というのは、その人自身の問題なのではなく、社会と関わる上でバランスが崩れたときに発生し得るものなんだと理解することが必要だと思います。

そしてそれは、ちょっとしたことで反転し、自分にも降り掛かってくるもの。そういった考え方が当たり前のものとして広がっていくと、本当の意味での共生社会が実現するのではないかと思います。

――「今いる状況が反転したらどうなるだろう」と想像すると、自分事として理解しやすいもしれませんね。

佐藤:まさに「バリアフルレストラン」のように、普段利用している場所が障害者向けに設計されていたら、どんな形になっているだろう……という思考実験をしてみるといいと思います。

優遇されてきた自分自身に気付き、プライドが傷つけられるかもしれないですし、差別に加担してきたことを知り、ショックを受けるかもしれません。でも、困難の原因を見つけることと、それに対してどうアクションを取っていくのかは別の話です。仮にプライドが傷ついたとしても、社会を変えていくためのアクションは起こせるはずなのではと思います。

それに、マイノリティにとって生きやすい社会というのは、マジョリティにとっても大きなメリットがあるものだと思います。分かりやすい例でいうと、コロナ禍で普及したオンラインミーティング用のツールです。

実は、コロナ禍以前から、移動が困難な車いすユーザーから早く導入してほしいという声が上がっていました。でも、多くの方が「対面で会わずにコミュニケーションなんか取れずはずがない」と反対されていました。

ところが、コロナ禍を機に導入された途端、誰もがその利便性に気付き、いまでは当たり前のように利用されていますよね。

オンラインミーティングを行う車いすユーザー
コロナ禍でオンラインでの仕事が特別なことではなくなり、より多くの人が働きやすい社会になった

佐藤:このように障害者への合理的配慮を考えるとき、その配慮が共益性を秘めていることもあるんですよ。

だから、思い込みに気付き、当たり前を見直していくことが重要です。集団や社会にはさまざまな「当たり前」が存在しますが、それが苦痛な人も大勢います。そんなふうに考えながら、社会を少しずつ変えていけたらいいなと思います。

編集後記

立って歩けること、電話ができること、文字が読めること――。この社会にはさまざまな「当たり前」が存在し、それを前提に物事が設計されてきました。そして、そんな「当たり前」ができない人たちは、どうにか工夫を凝らし、社会に順応してきたのです。

でも、「障害の社会モデル」という考え方を知り、その在り方を変えるべきと感じました。立って歩けなくても、電話ができなくても、文字が読めなくても、困難を押し付けられることなく、幸せな人生を歩んでいける。そんな社会こそが、「共生社会」なのではないでしょうか。

そのためにも、私たち一人一人が社会にはどんな不均衡があるのか、社会モデルの考え方に照らしながら一つ一つ見直していけたらと考えます。

〈プロフィール〉

佐藤雄一郎(さとう・ゆういちろう)

公益財団法人日本ケアフィット共育機構 経営企画室室長。2014年公益財団法人日本ケアフィット共育機構入構。年間1万人近く受講する”サービス介助士”の講習運営に携わる中で、ダイバーシティ&インクルージョンに関わる企業や障害当事者とのネットワークを広げ、企業の垣根を超えたコラボレーションや事業者と障害当事者との橋渡しを行っている。
公益財団法人日本ケアフィット共育機構 公式サイト(外部リンク)

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