能登半島地震を経験して気付いた、”居場所”の必要性
輪島市中心部にある子ども第三の居場所「わじまティーンラボ」は、2023年12月24日に本格開所した子ども第三の居場所です。
2024年1月1日、令和6年能登半島地震が発生。開所後わずか1週間で被災し、安全面から受け入れ停止を余儀なくされました。避難生活を送る子どもたちが、ほんの一時でも日常を取り戻せるようにと、3月下旬からは受け入れを再開。小学生から高校生を対象に、週5日、開けています。
運営するのは、特定非営利活動法人じっくらあと。事務局の小浦明生さんは、「被災して居場所の本当の価値がわかった」と語ります。震災前後の意識と居場所の役割の変化を、「わじまティーンラボ」が生まれた経緯と合わせてご紹介します。
小中高の切れ目をなくし、必要なサポートを
「わじまティーンラボ」は2021年冬、輪島市内で10代の自殺が続いたことに危機感を覚えた、じっくらあとの理事長であり小児科医の小浦詩さんが活動を始めた団体です。
立ち上げ当時、「わじまティーンラボ」は、ティーンとされる中学生・高校生が自習したり遊んだり、悩みを大人に相談できる場所を目指してスタートしました。
輪島地区には小学校が6校ありますが、中学校・高校が1校ずつのみ。自分にあった学校を選択する余地がなく持ち上がりで進学することから、人間関係が固定化しやすい環境にあります。「わじまティーンラボ」を運営する中で、そうした環境に置かれる子どものしんどさを感じとった詩さんは、活動の必要性を痛感し、2022年7月に法人化、翌年に小学生にも利用対象を広げ、子ども第三の居場所を開所しました。
「理事長が小児科医として関わる子どもはほんの一部です。小学生は放課後児童クラブがありますが、中学生以降は学校と家以外に過ごす場所がなく、アウトリーチがほとんどできません。中学生になってから、居場所においでと言っても多感な時期なので難しいかもしれません。小学生のうちに繋がり、小中高の切れ目をなくすことが僕たちの役割なのではないかと考え、子ども第三の居場所に申請しました」(明生さん)
混乱の中を共に過ごしたことによる変化
2023年12月の開所式には子どもから地域の大人まで幅広い年齢層が集まりました。地域にどのような居場所があったらいいのかを話すワークショップを実施し、シンボルモニュメント”DREAM TREE”を制作。参加者が未来への夢や明日への希望を小さな木材ブロックに書き、積み上げました。「サッカーしたい」「子どもに関わることをしたい」「テストで一位をとりたい」など様々な人の願いが集まっています。
様々な人の想いを受け、「わじまティーンラボ」は年明けから本格稼働する予定でしたが、震災によって一時受け入れを停止せざるを得なくなりました。日本財団から緊急支援として500万円の補助を受け、地震によって壊れたものの撤去や剥がれ落ちた壁の修繕などを進め、3月には再び受け入れを始めています。
「早い段階で再開したことで、地震発生直後の混乱から少しずつ日常を取り戻していく激動の期間を、子どもたちと一緒に過ごすことができました。それが安心や安全に繋がり、以前よりもコミュニケーションが深まっている感覚があります」(明生さん)
滞在時間が長くなり、まるで家のように過ごす子どもも増えたそう。休みの日には、朝から夜まで居て、備え付けのキッチンで昼ごはんを作ったり、みんなでたこ焼きパーティーを楽しむ姿も見られます。
「僕は幸いにも仕事も家も家族も友達も無事でしたけど、それでもつらい。3月くらいまでは一旦止まると動けなくなりそうでした。『わじまティーンラボ』が僕自身の居場所にもなっていました」(明生さん)
震災を経て感じた居場所の必要性
輪島では今、「居場所」の必要性や居場所の価値について語られることが増えていると、明生さんは話します。
「震災で、大人も居場所を無くしたんですよね。これまで居酒屋のマスターに『ちょっと聞いてよ〜』とできていたことができない。子どもたちには震災以前からそんな場所がなかったんだと気づく人が増えています」(明生さん)
輪島市では、秋頃までには、避難所で生活する全ての人が仮設住宅に移る見込みです。住み慣れない土地で、知らない人と新しい生活を一からつくっていくことになります。
コミュニティの基盤がなくなった今、必要とされているのが居場所です。お店の軒先で人が集えるスペースをつくりたい、気軽に立ち寄ってもらえるようにしたいなど、いろんな人があちこちで居場所をつくろうとする動きが生まれています。
「阪神・淡路大震災や東日本大震災の経験者、そして子ども第三の居場所と、僕たちには様々な繋がりがあります。繋がりがあることが、前を向く強さになっています。誰しも一人になりたい時もありますが、孤独にはなりたくないはず。有事のためにも、全自治体に居場所があるといいですよね」(明生さん)
「振り返ると、震災前は遊べる場所としての機能しか提供できていなかったのではないかとゾッとするんです。でも今はとにかく子どもに話をしてもらえる環境をつくろうと、スタッフや他団体とも密に連携をして様々な仕掛けをしています。
子どもって簡単には自分のことを教えてくれないですよね。話してくれないから『何もないんだ』で終わらせないで。子どもたちに真摯に体と心を向けて待つこと。いつでも話を聴くスタンスで繋がり続けることで、初めてぽろっと言葉にしてくれることがあります。これは努力しないとできないことなんだと、震災で気付かされました。だから、子ども第三の居場所は必要だし、子どもが安心・安全に過ごせる場をつくろうとした人たちの努力の象徴だと思います。そして地域の人もそういった居場所の必要性を理解してくれるようになりました」(明生さん)
震災から半年、これから必要なこと
学校や飲食店が再開し始めるなど、少しずつ日常を取り戻しつつある輪島。しかし、震災によって失われた学びや体験の機会は、今後子どもたちに大きな影響を与えていくのではないかと、明生さんは懸念します。
「今後3年間、グラウンドは仮設住宅が立ち並び、子どもが遊べる場所が限られています。また、避難所での集団生活や、狭い仮設住宅での生活により、勉強できる環境になかったり、気持ちがざわついたりしている子どもも大勢います。子どもに学びと遊びの機会を提供するため、他団体とも連携していきたいです」(明生さん)
じっくらあとは、子ども支援NPOが輪島市内で活動する際に窓口のような役割を担うことも増え、「輪島の子ども支援ならじっくらあと」と認識され始めているとのことです。震災後を生きる子どもたちに必要なことを、行政やNPOと連携しながら届けていきます。
取材:北川由依