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【避難民と多文化共生の壁】「同じ社会で暮らす人」。学生ボランティアが得たウクライナ支援の視点
- 今この時もなお、多くのウクライナ人が戦火を逃れて故郷を離れ、避難を続けている
- いつ、どこで、誰が当事者になるか分からないのが戦争。決して対岸の火事ではない
- 避難民の人生はこれからも続いていく。各々ができる支援を継続していくことが大切
取材:日本財団ジャーナル編集部
2022年2月に始まった、ウクライナに対するロシアの軍事侵攻。その被害を受けている人たちを支援するため、食料・物資の配布などさまざまな分野で活動しているのが、世界各国から集まったNGOやボランティアたちだ。
「日本財団ボランティアセンター」では、ウクライナから隣国に退避した避難民を支援するため、2022年5月~10月にかけて「ウクライナ避難民支援 日本人学生ボランティア派遣」(別タブで開く)の実施を決定。学校・専攻・年齢・出身地も異なる学生を全国から選抜し、1グループ15名・7回にわたり最大105名が参加する予定だ。
第1陣として5月に出国した「Group1」は約2週間、ウクライナの隣国であるポーランドに滞在。避難民受け入れ施設や国境付近において、物資や備品の管理・配布などの避難民支援を行うNGOの後方支援を展開した。
今特集「避難民と多文化共生の壁」では、理不尽な戦争により大きな困難に直面するウクライナの人々を支援するために、国や自治体だけでなく、私たち一人一人に何ができるのかを、多角的な視点から探りたい。
第1回は、ボランティアとして派遣された学生のお2人にインタビュー。戦地から遠く離れた日本に暮らす彼らは、目の当たりにしたウクライナ避難民の現状から何を感じ、何を学んだのか。また、私たち日本人にできる支援について、どんな思いを抱いたのか。
「Group1」に参加した、五来夏鈴(ごらい・かりん)さんと、齋藤凛花(さいとう・りんか)さんに話を伺った。
戦争の痛みを口に出せずに苦しむ人たち
――なぜ、ウクライナ避難民支援ボランティアに参加しようと思ったのか、応募のきっかけを教えていただけますか。
五来さん(以下、敬称略):11年前、母親に連れられて東日本大震災のボランティアに参加しました。現在は秋田県の大学にいるため在学中に東北を回ろうと、改めて被災地を訪れた時、私が自分のことで必死だったこの10年の間、暮らしている町のことに必死になっている人たちがいる、という事実に気付かされたんです。被災した当事者の気持ちになりきることは難しいかもしれませんが、部外者としてどんなサポートができるのか、その在り方について考えるきっかけになれば、と応募を決めました。
齋藤さん(以下、敬称略):私は大学で障害者の社会参画について研究しているのですが、自分自身も生まれつき感音性難聴(※)という重度の聴覚障害がある、という理由が大きいです。手術によって、聞いたり話したりすることにはほとんど不自由がなくなりましたが、避難民にならざるを得なかった人たちと同じマイノリティだからこそ、何かできること、気付くことがあるのではないか、と感じて「絶対受かりたい!」という強い気持ちで応募したんです。
- ※ 内耳(蝸牛)または聴神経に障害がある場合に起こる難聴
――ポーランドに入国後、国境近くの街・プシェミシルにあるウクライナ避難民の一時滞在施設で支援活動を行いました。どのようなことが印象に残りましたか?
五来:もともと大型スーパーマーケットだったというしっかりとした建物でしたが、人が生活するための場所ではないので、シャワーも仮設で、簡易ベッドも隣の人との距離が近く「長い間生活するのは大変だろうな」と感じました。
まずは掃除から活動を始め、衣類などの物資を配布したり、日本に避難を希望する人の対応を行ったり。日本人が珍しいのか、よく子どもたちが集まってきます。勉強できる環境のない避難施設では、子どもも遊ぶくらいしかすることがありません。童心に返った気持ちで、子どもたちと思いきり遊んだことが印象深く残っています。仲良くなったある母子とはいまだにSNSでつながっており、アイルランドに避難したと連絡がありました。彼女たちは全く英語が話せないので、これからの生活は楽ではないと思いますし、世界各地にウクライナ国民が散らばることは決して幸せなことではないかもしれません。でも、その土地でウクライナ人が根を張り、努力することで明るい未来につながることを願っています。
齋藤:私もベッドメイクや掃除など、体を動かすことから活動を始めたのですが、滞在中盤からは子どもたちや高齢者の経験を傾聴することも行っていました。というのも、自分の戦争体験を人に話すことでその人にトラウマを植え付けてしまうかもしれない、と口に出せずに苦しんでいる人たちがいたからです。
避難所で会ったある男の子は「日本文化やアニメが好き」というきっかけで会話するようになりましたが、年齢も一緒で大学の専攻も私と同じ社会学。しかしお父さんは戦地に行き、お母さんは戦争で足を失ってしまったため、勉学を続けるのを諦めてお母さんの介護をすると話していました。見せてくれたスマホには、通っていた学校が粉々になっている写真や、通りに遺体が転がっている写真も。そのすぐ前に、笑顔あふれる文化祭の写真が入っていて。未来に希望があふれているはずの同年代の子が、「言葉にならないこんなすさまじい経験をしているんだ」と実感して、日本に帰ってから私に何ができるのかすごく悩んでしまいました。
リスクを顧みず国境を越えてきたロシア人ボランティア
――世界各国から集まったボランティアから刺激を受けた面はありましたか?
五来:本当に世界のあちこちから人が来ていましたが、その中には「家族は別の国に避難したけれど、もう一度ここに戻ってきた」というウクライナ人ボランティアがいたんです。先ほど齋藤さんがトラウマの話をしましたが、その方はカウンセラー的な役割として避難民の精神的な問題の対処に当たっていました。自分も大変な状況であるはずなのに、戻ってきて自分の国から避難してきた人たちを支えるために活動する人たちがいるのを見て、相手に貢献する精神について、改めて考えさせられました。
齋藤:訪問時、ボランティアにいたのは、アジアでは日本と韓国だけでしたが、欧州各国や北欧はもちろん、アメリカ、カナダ、ブラジルとさまざまな国の人がいました。最も心が揺れ動いたのは、ロシア人の方がいたことです。ロシアからウクライナには入国を禁じられているばかりか、もし支援すると裁判にかけられたり罰金を取られたりする状況です。しかしイギリス経由で来るなどリスクを顧みず、「ウクライナのシスターたちを助けたい」と志を持って長い間活動している人たちがいる。ニュースを観ていると、どうしてもロシア=悪のような見方をされがちですが、全員がそうではないという当たり前のことに気付かされました。
――現地に赴き、避難民に接したことで、国際的な支援にどのような意義を感じたでしょうか。
五来:私たち学生ができることは限られているのですが、「日本から行った」ということに大きい意味があるのではないか、と思いました。ウクライナからすると日本は遠い国だと思いますが、そんな遠くの国のことを考えて、できることをやろうとしている姿を現地の人たちはちゃんと見ているのを感じたからです。それで日本に対する評価が上がるとか、政治的にプラスに働くとかそういうことではなく、一般の人たちにとって勇気や力を与えるのではないか、と。
齋藤:私自身障害があり、「避難民」と同じマイノリティだとお話しましたが、その共通点は「いつ・どこで・誰がなり得るか分からない」のに、当事者意識を持ちづらいところだと思うんです。そこでどうしても対岸の火事だと思ってしまうのが今の日本であり、国際社会にもそういう現状がまだまだあります。これまでは「一生に一度の人生だから、やりたいことをやって生きていくのがベターな生き方」という意識がありましたが、今回の訪問を通じて、自分のやりたいことよりも先に、「目の前の困難な状況にある人に寄り添い、手を差し伸べることをやらなければいけないのでは」と感じましたし、そこはこれからも追求していきたい課題となっています。
「避難民」ではなく「同じ社会で暮らす人」
――改めて今回のボランティア派遣を振り返り、自分自身の糧になったと感じていることがありましたらお聞かせください。
五来:ボランティアの経験についてはこれまでお話しした通りですが、「アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所」見学をさせていただいたことでも、考えさせられる点が多々ありました。私は今、休学して地球環境に配慮した農業に関わっているのですが、ナチスドイツもそういった環境面に取り組んでいたことを知り、一見ポジティブに見えても他の何かを排除している可能性がないのか、常に自分の頭で考えないといけないんだ、と突きつけられた思いでした。一人一人の国民がきちんと考えず流されていった先に、「民主主義の崩壊や戦争など、未来が変わってしまう可能性は本当にあるんだな」と実感し、今でもそれを考え続けています。
齋藤:日本の戦争についてはひいおじいちゃんから体験を聞いており、絶対に繰り返してはならない負の歴史だと思っていました。でも、10代のウクライナ人の男の子たちは「成人したら、お父さんやおじいちゃんと一緒にあちらで戦いたい」と言いますし、「この戦いは勝つべきもので、戦争に行ったらかっこいいし賞賛される」と捉えていることにすごく驚き、自分の父親や兄弟が戦争に行くことを想像してみたりもしたのですが、どうしても当事者意識は持てませんでした。これはどちらが正しいということではないのですが、戦争に行くことが当たり前という状況になってしまったら、そうするのがかっこいいと思うしかないのではないか。今でも結論が出せずにいますが、考え続けたいと思っています。
――お2人が得た経験を、これからどのように役立てたいと考えていますか?
五来:日本に避難してきたウクライナの人たちと実際に会って、まずは個人レベルで日本での生活をサポートしていこうと考えています。また実家のある大阪に帰ったときなど、地域の人たちに私の今回の体験を話す場を設けてもらう予定です。遠いところの出来事だと思っている人たちに、私たちが少しでもできることや、今の日本社会をどう進めていくべきかについて、一緒に考える機会になればいいな、と。また、知人のラジオパーソナリティーと一緒に、今回の訪問をテーマにした対談動画を作成し、YouTubeにアップしようと考えています。机上の勉学だけでなく、社会問題や私たちのコミュニティについて意見を交わしたり、話し合ったりする場をつくっていけたら、と思います。
齋藤:参加以前から、将来は国際的な機関で自分と同じような障害者の社会参画に携わりたいという夢を持っていました。でも訪問後、マイノリティは障害者だけじゃないことを実感し、障害とそもそも認定されないような「制度の狭間で生きる人たちに寄り添うことをしていきたい」という思いが強くなりました。直近の取り組みでいえば、私の通う早稲田大学で秋学期からウクライナ避難民を受け入れるプロジェクトが始まっており、その学生のリーダーのような役割を務めることになりました。やはり同年代の私たちが文化や生活について紹介することが、日本になじむ第一歩になります。まずは自分の身近にある環境で避難民を受け入れることから始めて行きたい、と思っています。
――最後に、ウクライナ避難民の問題に対し、私たち社会の一人一人ができることについてメッセージをいただけますか。
五来:これは自分自身に言い聞かせていることでもあるのですが、ウクライナ避難民の方々の人生はこれからまだまだ続きます。国に帰れるのはいつになるか分かりませんし、帰れたとしても大変な日常が待っている。日々世の中が変わっていく中、ニュース報道の機会も減ってくるかもしれませんが、これからも「忘れない」というのが一番大事で、情報にアンテナを張り続けるなど、各々ができることを続けることが必要なのではないでしょうか。
齋藤:先ほど、避難所で同じ歳の大学生の男の子と仲良くなった話をしましたが、彼はイギリスに避難が決まった時、「ウクライナ避難民」というレッテルを貼られて特別扱いされないかを気にしていました。避難民であることは覆せない事実ではあるのですが、もし今後日本で避難民に会うことがあっても、「壁をつくることなく接することが、彼らにとっても私たちにとっても最も良い在り方なのではないか」と感じたんです。「一緒に大学で学ぶ人」など、「同じ社会で生活を営んでいく人」という捉え方で付き合っていけたらお互いに良い関係が築けるのではないか、と感じます。
教育分野を目指す五来さん、障害者の社会参画に取り組む齋藤さん、どちらも将来は国際機関で働きたいという夢を温めている。現地に足を運んだ彼らの体験を糧に、遠い国で起こった出来事としてではなく、同じ国際社会の一員として、私たちにできることについて引き続き考え続けていきたい。
特集第2回では、戦火を逃れ日本に避難してきたウクライナ人家族に、いまの暮らし、求めている支援についてお話を伺った。
撮影:十河英三郎
【Group1活動紹介ドキュメンタリームービー&レポート記事を公開中】
五来さん、齋藤さんが参加したGroup1の活動の様子を、ドキュメンタリー作家の小西遊馬(こにし・ゆうま)さんが制作したドキュメンタリームービーとレポート記事で紹介しています。
ドキュメンタリームービーはこちら(外部リンク)
レポート記事はこちら(外部リンク)
〈プロフィール〉
五来夏鈴(ごらい・かりん)
1999年大阪府生まれ。国際教養大学 国際教養学部 グローバルスタディズ課程5年生。現在は約1年の自主休学期間を設け、農業とレストランを行き来しながら働く。
齋藤凛花(さいとう・りんか)
2002年愛知県生まれ。早稲田大学 社会学部2年生。感音性難聴の障害当事者として、障害者の社会参画を専門とし、慶應義塾大学と東京大学の研究会にも所属し研究活動を行う。
- ※ 掲載情報は記事作成当時のものとなります。