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教室から広がるインクルーシブ社会。パラリンピック教材開発者の一人、マセソン美季さんの想い
- 国際パラリンピック委員会(IPC)公認のICT(※)教材『I'mPOSSIBLEBLE(アイムポッシブル)』はパラスポーツを題材にした教育プログラム
- 多様な人たちが活躍できる社会づくりに必要な考え方や行動を、楽しみながら学ぶことができる
- 「当たり前」を疑い、多様な人たちと対話を重ねていくことが、共生社会を実現するために大切
- ※ 「Information and Communication Technology」の略。インターネットやパソコン・スマートフォンなどの情報伝達技術を使ってコミュニケーションできる技術
取材:日本財団ジャーナル編集部
2024年8月28日、いよいよパリ2024パラリンピック(外部リンク)が開幕します。パラリンピックは障害のあるトップアスリートたちが参加する世界最高峰の競技大会。用具やルール、サポートの仕方などの工夫によって、多様な人たちが参加できるように発展してきた歴史があり、まさに共生社会のあり方を具象化した競技大会といえます。
しかし社会に目を向けてみると、多様な人が活躍する場が十分に整っているとは言い難いのが現状です。障害があることによって自由に行き来できない場所があったり、就職できる仕事が限られたりと、誰もが活躍できる共生社会の実現にはまだ多くの課題が残っています。
そこで教育の力によって、共生社会への理解を子どもの頃から深められるよう推し進めていこうと、国際パラリンピック委員会(IPC)が2017年に開発したのが『I’mPOSSIBLE(アイムポッシブル※)』(外部リンク)という教育プログラムです。
世界40カ国で導入され、日本版も2017年から小学生版、2018年から中学校・高校生版の無料配布が始まり、多くの教育現場で取り入れられてきました。ホームページからのダウンロード数は、2024年7月末までに20万以上に上っています。
- ※ 「I’mPOSSIBLE」は「Impossible(不可能)」という単語に「‘」を加えた造語で「私はできる」という意味。ほんの少し考え方を変えたり、工夫をしたりすることで、無理だと思っていたことも可能になるというメッセージが込められている
今回お話しを伺うのは、国際パラリンピック委員会で理事を務め『I’mPOSSIBLE』日本版の制作チームでプロジェクトマネージャーを務めた元日本代表のパラリンピアン、マセソン美季(ませそん・みき)さんです。
『I’mPOSSIBLE』が作られた経緯やその特徴と共に、普段は多様性の国・カナダに暮らしているマセソンさんだからこそ感じる、共生社会を実現するために必要な視点について教えていただきました。
共生社会を実現する方法を主体的・対話的に考える教材
――まず『I’mPOSSIBLE』がどんな教材なのか、改めて教えていただけますか。
マセソンさん(以下、敬称略):国際パラリンピック委員会では、「パラスポーツを通じ、インクルーシブ(※)な世界を創造する」というビジョンを掲げており、それを具象化するために、子ども向けの公式教材として生み出されたのが『I’mPOSSIBLE』です。
インクルーシブな世界を実現するためには、その意義を知るだけでなく、そのために必要な考え方や行動を身につける必要があります。そういった考え方や行動を、パラリンピックの競技を題材に子どもの頃から学ぶことでより身近に感じることができ理解を深められるのが『I’mPOSSIBLE』なんです。
- ※ 人種、性別、国籍、社会的地位、障害に関係なく、一人一人の存在が尊重される社会を目指す考え方
――『I’mPOSSIBLE』ならではの特徴とはなんでしょう?
マセソン:学校の先生が授業に活用しやすいように組み立てられているのも大きな特徴です。
パラリンピックについて学ぶというと、パラリンピック選手を招いて話を聞く、講演会のようなものをイメージする人もいるかと思います。実際、私もお声がけいただくことが多く、とてもありがたいのですが、私が学校に出向いて話すと特別なイベントのようになってしまう。
子どもたちにとって身近な先生ご自身の言葉で、普段から教えていただきたい、という思いが私たちにはあります。そして先生を介せば、今年受け持った生徒だけでなく、来年、再来年とより多くの子どもたちに伝えていただけます。
教育現場での変化は1年、2年で現れるようなものではなく、長い時間をかけて日常的に取り組むことが重要だと考えているため、私は教育関係者への研修会を通して、先生たちをサポートする側に徹しています。
――確かに。マセソンさんが学校に出向くと、学びがそのとき限りで終わってしまう可能性がありますね。他にも教材の特徴はありますか?
マセソン:子どもたちが主体となって、対話を通して共生社会を実現するために必要な考えや行動を身につける点です。先生が知識を伝達する授業ではないのが大きな特徴の1つです。
2021年にパラリンピックが東京で開催された時に行われていた『I’mPOSSIBLE』の授業では、「パラリンピックに興味を持ってもらい一緒に応援する」という意味合いが強かった印象があります。ですが、それから3年経ったいまは教材を通して子どもたちが多様性への理解や、人権を尊重することの大切さを学ぶための教材として、活用くださる先生が増えています。
――開発当初と比べて、子どもたちの反応にも変化は感じられますか?
マセソン:はい。開発当初は東京大会の機運醸成期だったこともあり「選手たちがすごいと思った」「パラリンピック競技でいろいろな工夫がされていることを知って面白かった」など、パラリンピックの競技自体にフォーカスした感想が多かったんです。
これが最近では、「障害のある人はかわいそうだと思っていたけど、そうではないという当たり前のことに気付いた」「いままで何気なく通っていた通学路に、バリアがあることに気付いた」など、障害や多様性への理解、深い気づきを得ている子どもたちが目立つようになりました。
そして子どもたちは『I’mPOSSIBLE』で学んだことを、お家に帰ってから家族に話すことがとても多いらしいんです。これは、子どもたちが学んだことを大人に教える「リバースエデュケーション」という現象で、直接授業を受けていない周りの大人を巻き込むことにもつながっています。
――素晴らしい効果ですね! 子どもから大人へ広がれば、社会にもより早く浸透しそうです。
マセソン:保護者の方からも評価が高く、保護者会で『I’mPOSSIBLE』のように子どもたち自身で深い気づきを得るような授業をたくさんやってほしいというリクエストが届いたというお話しも聞きました。子どもたちが対話をベースにしながら進められる授業なので、普段はあまり発言しない子どもが積極的に声をあげることもあり、授業参観や公開授業に活用されることも多いと聞きます。
そういえば、授業を受けたお子さんの保護者の方から、直接お手紙をいただいたことがあって、それがとても印象に残っています。
お手紙には「自分の息子は勉強もできないし、お友だちともしょっちゅうけんかする、いわゆる問題児です。ところが先日、家族で出かけた時にとても混んでいるエレベーターに乗っていたら、車いすの方が乗り込めずに困っていて。それを見た息子が『僕たちが降りよう』と声をかけてくれました。初めて息子のことを誇らしいと思えました。どうしてそのような行動がとれたのか聞いたら、学校で『I’mPOSSIBLE』の授業を受けたことが分かり、お手紙お送りしています」と書かれていました。
このお手紙をいただけたことは、今思い出しても胸が熱くなるくらい、本当にうれしかったことです。
海外から見たからこそ分かった、日本のぎこちなさ
――マセソンさんが開発に携わった日本版についても教えてください。これは国際版を翻訳したものなのでしょうか?
マセソン:当初は国際版をそのまま翻訳する予定でしたが、国際版を日本の学校の先生や教育委員など教育のプロの人たちに見てもらったところ、日本の教材のように教える内容やガイドがあまり細かく示されていなかったので、日本の先生には使いづらいだろうとご指摘をいただきました。
そこで国際版をベースにしつつも、日本版には、授業の際の声掛け例を入れたり、補足の情報を丁寧に説明したり、忙しい先生たちが授業の準備に時間を割かなくて済むよう、先生用の指導案や、子どもたちが使うワークシートといった全てをパッケージにして届けるなど、工夫をしながら開発しました。
またサンプルの段階から現場の先生たちにヒアリングを行い、使いやすさにとことんこだわったのも、日本版の特徴だと思います。
――マセソンさんは、中心メンバーとして『I’mPOSSIBLE』の開発に携わり、現在も普及に向けて積極的に動いていらっしゃいます。それはなぜでしょうか?
マセソン:私がさまざまな国に行って感じた、ある気づきがきっかけでした。障害がある人に初めて会ったときの子どもの反応は、だいたいどこの国でも一緒なんです。ちょっと遠巻きに見たり、指をさしてみたり。
ただ、大人の反応には国によって大きな差があります。アメリカやヨーロッパだとインクルーシブなマインドを持って、どんな人でも特別視せずに受け入れる「心のバリアフリー」があると感じました。日本の方は奥ゆかしさ故か、「自分が障害のある方に何かをしてしまって失礼にならないか」「私は専門家じゃないから」とか、「余計なことをしない方がいいか」といった、ちょっとしたぎこちなさのようなものを感じます。
その差はどこから生まれるのかを考えたときに、教育のあり方や、小さな頃から障害のある人と関わった経験があるかどうかが大きく影響しているのではないかと思いました。
――確かに日本では、障害のある人とない人が一緒に過ごす場所が少ないように思います。
マセソン:そうなんです。日本はいまでこそインクルーシブ教育が推し進められていますが、障害がある人は特別支援学級、ない人は通常学級とずっと分けられてきました。そんな状態から社会に出て、急にインクルーシブな社会を実現しようと言われても難しいですよね。社会は多様な人で構成されているのに、学校が社会の縮図になっていない。これが問題ではないかと思うようになりました。
そんなことを考えていた時『I’mPOSSIBLE』に出合い、「まさにこれだ!」と思いました。教育を通して多様な人と共に活動することについて学び、考えることができますし、私自身がずっとスポーツに携わってきたので、「スポーツと教育によって社会を変える」ということが、私のテーマになっていったんです。
社会を変えるのにはすごく時間がかかりますし、少しずつ広めていくために、歩みを止めずにずっと継続して活動をしてきました。多様な人がいることを知らないがゆえに生まれるぎこちなさを、教育の力で溶かしていきたいという思いを胸に活動しています。
――『I’mPOSSIBLE』の活用も含め、共生社会の実現に向けた教育が行われる際に、私たちが大切にするべきことはなんでしょう?
マセソン:日本でも障害のある人について学ぶような授業が取り入れられ始めていますが、障害や特性のある人にどう接するのが正しいか、マナーを学ぶような視点になっていることが多いと感じます。障害がある人は常に困っていて、助けが必要という偏ったすり込みにつながることもあります。
障害の有無で分けずに、「みんな」が居心地よく暮らすために何ができるかを考えるという視点があると、本当の意味での共生社会につながるのではないかと思うんです。
また、共生社会や障害について子どもに学ばせることはまだ難しいと、大人が制限してしまうのももったいないことだと思います。日本だと『I’mPOSSIBLE』は小学校5、6年生向けの教材として使われることが多いですが、全学年で活用し、それぞれの発達状況に合わせて学びを深める取り組みも増やしていきたいです。
固定観念がなく、感性が豊かで自由な発想できる子どものうちにさまざまな違いに触れるというのが、その子にとっても、社会にとってもプラスになると考えています。
当たり前を疑い、対話を重ねる
――共生社会を実現するために、大人たちに伝えたい思いがあればお聞かせください。
マセソン:性別や年齢、障害の有無のような属性で人を判断するのはやめてもらいたいです。そして相手に対して分からないことがあれば一人で想像するのではなくて、まずは相手に聞いてみる勇気を持ってほしいと思います。当たり前を疑う習慣を身につけてもらいたいです。
『I’mPOSSIBLE』を使った教育現場でもよく起こることなのですが、子どもがした質問を第三者の大人が「それは失礼だ」と制限してしまうことがあるんです。もちろん質問に答えるかどうかは相手次第になりますが、実はそういった質問の中にも本質的な学びがある気がします。大人の言動から見て学び、これは聞いていい質問、聞いてはいけない質問と子どもが分けてしまうと、障害に対する理解が深まっていかないと思うんです。
日本でも民間の事業者に対して合理的配慮が義務化(※)されましたが、建設的な対話をする姿勢が一番欠けていると感じています。壁を取り払うために相手が必要としていることを聞き、自分にできることを考える。そんなシンプルな関係づくりが、共生社会の実現には必要だと思っています。
- ※ 障害によって生まれる社会的なバリアを取り除いてほしいという意思の表明があった場合に、行政機関や事業者がそれを取り除くために必要かつ合理的な配慮を講ずることが、2024年4月から義務化された
編集後記
マセソンさんのお話しの中で印象的だったのは、障害のある人に対して仰々し過ぎるという日本の空気感でした。特別視するのではなく、まずは相手に手助けが必要か聞いてみて、必要そうであればお手伝いをする。そういったシンプルに対話を重ねていくことが共生社会を実現するために必要なのかもしれません。
そして子どもたちがインクルーシブな社会を築く素質を十分に持ち合わせているのに、それを邪魔してしまっている大人が多いとも感じました。素直な視点を持った子どもたちから学びを得ることも大切し、子どもも大人も一緒になって共生社会を実現していく。その姿勢が必要なのだと感じました。
撮影:永西永実
〈プロフィール〉
マセソン美季(ませそん・みき)
東京都出身。大学1年生の時に交通事故で脊髄を損傷し車いす生活となる。1998年長野冬季パラリンピック、アイススレッジスピードレースの金メダリスト。選手生活引退後は、「こどもが変われば、社会が変わる」と考え、スポーツと教育の力を活用しながら、インクルーシブな社会の構築を目指した活動に従事。『I’mPOSSIBLE』日本版事務局、プロジェクトマネージャー。DEIコンサルタントとして、DEI戦略構築、研修会講師など企業支援にも関与。過去には、「The Valuable500(※)」(外部リンク)のアジア太平洋地域のアドバイザーを務めた経験も。カナダ在住。
I’mPOSSIBLE 公式サイト(外部リンク)
- ※ 日本財団が支援する、ビジネスにおける障害者インクルージョン(雇用・製品サービスが障害者にも不自由なくアクセスできる)推進に取り組む経営者ネットワーク組織のこと
- ※ 掲載情報は記事作成当時のものとなります。