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日本初、虐待を学ぶ研究科が誕生。山梨県立大学大学院が「人間福祉学研究科」を設立した理由

山梨県立大学の校舎
山梨県立大学大学院の「人間福祉学研究科」では、子ども虐待対応のプロを育成する。画像提供:山梨県立大学
この記事のPOINT!
  • 児童虐待相談件数は増加する一方で児童相談所は職員不足。専門知識を有する人材も足りていない
  • 山梨県立大学大学院では2024年4月、児童虐待対応のプロを育成する「人間福祉学研究科」を設置
  • 親ではなく子どもの虐待を生む背景に着目することが、児童虐待問題の解決につながる

取材:日本財団ジャーナル編集部

こども家庭庁が発表した「令和4年度 児童相談所における児童虐待相談対応件数」(外部リンク/PDF)によると、2022年の相談対応件数は21万9,170件となり過去最多を更新し続けています。

また、子ども家庭庁の児童相談所関連データ(外部リンク/PDF)を見ると、2023年度は全国で4カ所の児童相談所が新たに設置され、合計232カ所に(2023年4月1日調査時点)。その数は増加傾向にあります。

国や各自治体では子ども虐待(児童虐待)を減らすためにさまざまな取り組みを行っていますが、専門的な知識を持った人材が足りておらず、十分な対応ができていないという現状があります。

そんな中、山梨県立大学では2024年度4月から大学院に、子ども虐待の対応に関する知識習得を目的とした「人間福祉学研究科」(外部リンク)を新設しました。

今回、山梨県立大学人間福祉学部特任教授の西澤哲(にしざわ・さとる)さんに、新研究科設立の背景や、山梨県立大学が目指す社会についてお話を伺いました。

臨床心理の専門家として長年、子ども虐待の問題に携わってきた西澤さん

児童相談所の人手不足解消には、専門職の配置が不可欠

――早速ですが、「人間福祉学研究科」を設立された背景について教えてください。

西澤さん(以下、敬称略):私はまだ子ども虐待が社会で認識されていなかった頃から40年以上にわたってこの問題に関わってきました。ソーシャルワーカーなど子ども虐待の専門職を育成する機関の必要性を強く感じていて、2007年に「虐待対応の専門職を育成してほしい」と要請があり、この大学に赴任してきたのですが、なんだかんだあってようやく2024年に実現したという形です。私も定年を過ぎてしまいました(笑)。

――なぜ、専門職が必要なのでしょうか。

西澤:ニュースで子ども虐待が取り上げられる際、児童相談所の職員などが記者会見で謝罪しているのを目にしたことはありませんか? 「なぜ助けてあげられなかったんだろう」と思う方も多いと思いますが、通報を受けて家庭に出向いても、専門的な観点からは対応できていないというケースが多いのです。

子ども虐待の通告件数が増えるに連れて、児童相談所の数も増えてはいるものの、圧倒的に人材が足りていません。通常、児童相談所の職員というのは、他の福祉施設である程度経験を積んでから児童相談所へ異動するケースが多いのですが、大学を出たての新卒者やほとんど経験がない人を配置せざるを得ない状況なのです。

業務に追われて新人を教育する余裕がない施設も多く、新人は知識や経験がないまま現場に駆り出されています。しかも、激務や心理的なストレス、給与の低さなどが重なり、児童相談所の職員は離職率が高い。

複雑化する子ども虐待の事例に的確に対応し、職員が定着する労働環境をつくるためにも、専門職の育成が急務なのです。

――西澤さんが40年以上にわたって子ども虐待の問題と向き合う中で、大きく変わったことや新しい課題は出てきましたか?

西澤:子ども虐待が起きる背景には社会の変化をはじめ、親が育った環境や、親が今置かれている環境などさまざまな要因があるため、はっきりとしたことは言えないのですが、以前よりも虐待の事例が複雑化していることを感じます。

かつては「しつけ」だとか、「子どもが親の言うことを聞かなければ、力ずくででも聞かせるのが親の務めである」などの思い込みから生まれる虐待が多かったのですが、最近では乳幼児を洗濯機に入れてしまったり、ボストンバッグに入れたまま放置したりと、その後の親との面談を通しても、なぜそのような行動に至ってしまったのか説明できないという事例が増えています。

また、バースコントロール(※)の考え方が広がり、医学・医療の技術が発達したことで、ある程度意図的に妊娠・出産をコントロールできるようになりました。昔はよく子どものことを“神さまからの授かりもの”と言いましたが、そういった感覚が薄れているようにも感じます。

そうすると「自分が意図して生んだはずの子どもが思い通りに育たない」ということで悩み、虐待に発展してしまうケースもあるのではないでしょうか。

  • 仕事・生活・結婚など、自分のライフスタイルに合わせて、妊娠や出産のタイミングを自分の意思で決めること

――技術が発達して、コントロールできるものが多くなった反面、コントロールできないものへの耐性が薄れてしまったのでしょうか?

西澤:そう考える研究者もいます。「泣く子と地頭には勝てぬ(※)」ということわざがありますが、昔から「子どもはコントロールできないもの」という認識なんですよね。

  • 「泣いている乳児や横暴な地頭とは、道理で争っても勝ち目はない。道理の通じない相手には、黙って従うしかない」という意味のことわざ

子ども虐待の専門職に必要なのは、タフさと多角的な視点

――一つ一つの事例ごとに向き合い、対策しなければならないことを考えると、改めて児童相談所の業務の過酷さを感じます。人間福祉学研究科では、具体的にはどのようなことを学ぶのでしょうか?

西澤:多岐にわたりますが、虐待やネグレクト(※)が子どもに与える心理的・精神医学的影響等を学ぶ「子ども虐待領域」、多様な子どもを理解し、保育現場について深く学ぶ「子ども理解領域」、地域社会と連携して子どもや親を支援する「ソーシャルワーク領域」の3つが柱となっています。

理論を学ぶだけでなく、児童相談所や児童養護施設等での実習・演習も並行して行うなど、実践的な教育にも力を入れています。

専門的な知識を持つ人材を育てると同時に、子ども福祉の分野に転職したい人や、既に現場で働いている社会人の方を対象にしたリカレント教育というのも目的としているので、平日夜間や土曜の受講、オンラインと対面授業の併用など、働きながら学べる環境を用意しています。

  • 子どもを遺棄すること、健康状態を損なうほどの不適切な養育、あるいは子どもの危険について重大な不注意を犯すこと

――子ども虐待の専門職を目指す上で、向いている人材や必要な能力はありますか?

西澤:第一にタフであることと。そして、好奇心が旺盛であることです。

――好奇心ですか?

西澤:そうです。子ども虐待の現場では、想像もしていないようなことが起こったり、親や保護対象である子どもから罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられたりすることがあります。

そんなときに、ただ事実を受け止めるだけでなく、「なぜ、こんなことが起きてしまったんだろう?」「この激しい言葉や態度には、どんな意味があるんだろう」と、事実の裏にある背景に興味を持つことが重要なんです。

その上で、「この子はもしかして、自分を怒らせようとしているのだろうか?」「どんな言葉までだったら許されるか試しているのかもしれない」「それとも“虐待の再現性”(※)だろうか?」というように、行動を体系的に分析する必要があります。

  • 虐待を受けた子どもが,別の他者との関係に おいて養育者との虐待的な関係を無意識に繰り返す傾向のこと
イメージ:子どもに寄り添う大人

――卒業後はどのような進路を想定されているのでしょうか?

西澤:子ども虐待が身近にある現場は、児童相談所以外にも保育所や幼稚園などの保育施設、障害者福祉施設、児童養護施設、地域の家庭支援センターなど多岐にわたります。新研究科では、こうした現場で働く人々の再トレーニングの場も担いたいと思っているので、それぞれの職場で専門職として働きながら、さらに高度な知識や技能を身につけてもらいたいです。

大学から大学院に進学した人や、退職して進学した人に対しては、それぞれ関心がある分野、進みたい道に合わせて一緒に考えたいですね。

子ども虐待は社会の問題。安心できる子育環境づくりが大切

――2022年には子育て世帯の支援を目的にした「児童福祉法等の一部を改正する法律」(外部リンク)が成立したり、2023年には「こども家庭庁」が発足したりするなど、国によるさまざまな対策がなされる一方で、子ども虐待の相談件数が増え続けているのはなぜでしょうか?

西澤:子ども虐待は家庭の問題と思われがちですが、実際は社会全体の問題です。

ニュースなどでもよく取り上げられる、親の「貧困」や「孤立」の問題に加えて、出産や子育てによってキャリアが中断される、退職や働き方を変えざるを得なくなるなど、子どもを持つことで社会的に不利になってしまう「チャイルドペナルティー」も大きな問題で、原因の1つではないでしょうか。

経済的な不安から子どもを望まない若い世代の人たちも増えていて、若い人たちが子どもを持とうと思える社会、自分らしく働きながら子育てできる社会に変えていくことが大切だと考えています。

「虐待を根絶しよう」という言葉をよく聞きますが、社会のあり方が変わらなければ、完全になくすことはできないのではないでしょうか。

――子ども虐待を減らすため、子育てを取り巻く環境を変えるために私たち一人一人ができることはありますか?

西澤:うーん、一言では難しいですが……。子どもに暴力を振るってしまう親は、それぞれに事情を抱えて、非常に苦しんでいます。もちろん虐待自体はあってはいけないことですが、はじめから暴力を振るうつもりで子どもを生む親はいません。

虐待する親、問題のある親のことを“毒親”と呼び、「あんな親は死刑だ」などとSNSなどで非難する言葉を目にすると悲しくなりますね。単に暴力を振るったという事実だけではなく、その背景にある社会の現状の方にフォーカスを当てることが重要だと思います。

編集後記

子ども虐待の現場では、虐待された経験を持つ親が「自分が親になったら、絶対に同じことはしない」と強く思っていたにもかかわらず、些細なきっかけから我が子を虐待してしまうケースも少なくないと聞くと、誰もが「虐待をする側」になり得るのだと感じます。

あなたにとって「子育てしやすい社会」とはどんな社会でしょうか? 子育てが辛くなったとき、どんな環境だったら安心できるでしょうか? 子どもがいる人も、いない人も想像してみることが、誰もが安心して子育てできる社会につながるのではないでしょうか。

〈プロフィール〉

西澤哲(にしざわ・さとる)

山梨県立大学人間福祉学部特任教授、日本子ども虐待防止学会理事。1957年生まれ。大阪大学人間科学部行動学専攻課程卒。サンフランシスコ州立大学教育学部カウンセリング学科修士修了。日本社会事業大学社会福社学部專任講師。大阪大学大学院人間科学研究料助教授、山梨県立大学人間福祉学部教授を経て現職。情緒障害児短期治療施設勤務時代に「虐待を受けた子ども」と関わったのをきっかけに心理療法に取り組む。不適切な養育が子どもに与えるトラウマや、アタッチメント障害などの心理的影響と心理療法のあり方などの研究と実践を行い、虐待関連の死亡事例における事件加害者に心理鑑定を行うなど幅広い活動を行う。
山梨県立大学人間福祉学研究科 公式ページ(外部リンク)

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