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世界の3人に1人はトイレがない?ユーモアでトイレ問題解決の扉を開く“ミスター・トイレ”の戦術
- 必ず排泄するのが生き物。トイレ文化の向上はあらゆる人の「生活の質」を上げる
- ウンチやおしっこをする行為は飲食と同じ大切な命の営み。もっと気軽な話題になって良い
- 病気の予防や糞尿から堆肥へのリサイクルなど、トイレはさまざまな可能性を秘めている
取材:日本財団ジャーナル編集部
世界人口の約78億人のうち、トイレのない生活を送っているのは約20億人。さらには約42億人が安全に管理されたトイレを使えておらず、年間で29万7,000人(1日約800人以上)もの5歳未満の子どもが不適切な水と不衛生による下痢症で命を落としているという現状がある(※)。
- ※ 2019年発表のユニセフとWHO共同監査報告書より
この「トイレ問題」にいち早く着目し、安心・安全なトイレを世界中に普及させる活動に取り組んできたのが、シンガポールの“ミスター・トイレ”こと、ジャック・シムさんだ。
40代で実業家から社会起業家へと転身、2001年に「世界トイレ機構(World Toilet Organization。以下、WTO)」(別ウィンドウで開く)を立ち上げて以来、そのユーモアに溢れた啓蒙活動で話題を呼び、ムーブメントを拡大してきた。2013年の国連「世界トイレの日(11月19日)」制定にも大きな役割を果たしている。
このWTOが公衆衛生問題の解決に寄与した個人や組織を表彰する「WTO Hall of Fame Award」2020において、日本財団の公共トイレ設置プロジェクト「THE TOKYO TOILET」(別ウィンドウで開く)が受賞の機会に恵まれた。
そこで今回はシムさんに、世界のトイレ問題に寄せる思いや直近の課題、未来に向けて抱くビジョンについて話を聞いた。
難しい言葉では、誰の関心も集められない
――ビジネスの世界で成功していたシムさんが、社会起業家に転身し「WTO」を発足するに至ったきっかけについて教えていただけますか。
シムさん(以下、敬称略):私は社会に出てから懸命に働き、40歳を迎える頃には十分な成功を築いていました。しかし人生の折り返し地点とも言えるその時、「人生において本当に価値のある“通貨”とは、お金ではなく『時間』ではないのか」と感じたのです。
「時間」を使い切った先にあるのが「死」だと考えれば、残されているのは40年ほど。ではこの「時間」という通貨を最大限に活用する方法は、高級品を買うような行為ではなく、社会をより良い場に変えるために奉仕することではないか、と思い当たりました。そこで「世界のために、私に何ができるのだろう」と考え始めたわけです。
ちょうどその頃、シンガポールの首相が「その国のトイレを見れば人々の民度が分かる」といった発言をして話題になっており、私は貧困の中で過ごした幼少期を思い出しました。
その時に使っていたトイレは、木造小屋にバケツを設置しただけの粗末なもの。生理用品やトイレットペーパーが散らばる中、いろいろな排泄物が浮かぶバケツに用を足すのはトラウマになるような経験でした。その後、公共住宅に引っ越して初めて水洗トイレを使った時、どれほど生活の質が向上したことか。
この体験をきっかけとして、トイレについて考えるようになり、公衆トイレのメンテナンスが満足に行われていないにもかかわらず、トイレが汚いのはトイレを使う側だけに責任があるかのような政府の発言に違和感を覚えました。
そもそも人間は必ず排泄を行うわけで、1日に平均6~8回トイレを使います。つまり、より良いトイレ文化をつくるのは全ての人に関わること。そこで私は「トイレのABC理論」というものを考えました。
ABCとは、A=アーキテクチャー(建造物・構造物)、B=ビヘイビアー(行動)、C=クリーニング(掃除)のこと。つまり、A=きちんとしたトイレをつくれば、B=人々がちゃんと使えるようになり、C=プロの清掃人がきれいにすることで、トイレが汚いという問題は解決するのです。
そこで2001年に、世界のトイレと公衆衛生の改善を目指す非営利団体「世界トイレ機構(WTO)」を発足し、シンガポールのトイレ協会にかけ合って、公衆トイレの改善を呼びかけることから活動を始めました。
――トイレについては、なかなか話題にしづらい風潮が世界中にあります。どのように世間の注目を集めていったのでしょうか。
シム:おっしゃるとおり、トイレや排泄物について語ることはいまだに「失礼である」とか「恥ずかしい」という感覚を持たれがちです。それまでトイレ問題に関わっていた人たちもまた「し尿管理」という難しい言葉を用い、水にまつわる衛生問題として議論を進める傾向にありました。
しかし「水の問題」と「トイレの問題」では性格が異なりますし、そういう難しい言葉を使っていては誰も関心を持ってくれません。
そこで公衆トイレの改善を呼びかける発表会を行う時、私は記者たちをトイレに招き、「ウンチ」や「おしっこ」といった平易で親しみのある言葉を使って面白おかしく説明を行い、便座に座ったところの写真を撮ってもらうことにしました。このようなユーモアを記者の方々が面白がってくれて、たくさんのメディアが記事を掲載してくれたのです。
このような、意外なパフォーマンスで注目を集める手法は「ゲリラマーケティング」と呼ばれていますが、私は“ミスター・コンドーム”と呼ばれるタイの社会起業家、ミーチャイ・ウィラワイタヤさんから大きな影響を受けました。
彼は風俗店に赴き、コンドームを大きく膨らませるパフォーマンスで、そこで働く女性たちへの性感染症予防に努めた人ですが「重要なのはメッセージを届けることで、自分が道化として笑われるくらいは何でもない。自分も一緒に笑ってしまえばいいのだ」とおっしゃっていました。その考えに感銘を受け、私もユーモアの力を使ってみようと思い立ったのです。
本家「WTO」に訴えられたら面白い、と考えていた
――この20年を振り返ると、「ユーモアの力」が果たした役割は大きかったのでしょうか。
シム:とても大きかったですね。多くのメディアは、記事が読者に受けるか、その結果どれだけ広告契約が取れるか、を気にしているものです。ですから、読者がワクワクするユーモア溢れるトピックは当然取り上げられやすくなる。
しかしそこに「世界の人口の3分の1に当たる人にはトイレがない」という事実が書かれていれば、人々は「これは思ったよりも深刻な問題だぞ」とショックを受け、話題にします。
社会に反響が広がることで政治家の耳に届き、彼らもトイレ問題を語り、公約にトイレの改善を入れたりもする。政治が関われば大きな予算が付きますから、衛生環境の整備がどのくらい人々の健康に寄与するか分析が必要になる。
すると学識者までもがこの問題に加わるようになっていきます。これだけ多くの人の関わりが「ユーモアを交えてストーリーを語る」ことを出発点に実現しているのです。
「WTO」という組織名も、もちろん世界貿易機関(World Trade Organization)に引っかけたユーモアですが、当初は「もし訴えられたら面白くなるぞ」なんてことを考えていました。
本家からクレームが付けば私たちの組織にスポットライトが当たりますし、それを機に多くの人たちにトイレ問題を伝える声明が出せる、と思ったのですが……訴えられることはありませんでした(笑)。
その代わりと言っては何ですが、20年もの間、この名称で多くの人々を笑わせることができ、延べ20、30億人に働きかけることができた。マーケティングにもPRにも一切のお金を使わずに、です。これは本当に感謝すべきことで、ユーモアには世界を変える大きな力がある、と実感しています。
――2013年には国連において「世界トイレの日(11月19日)」が制定されるまでになりました。現在における活動の発展を、どのように受け止めていますか。
シム:「世界トイレの日」の制定を目指してシンガポールの外務省に働きかけるところから始まり、国連総会の決議において193カ国(当時)全会一致で採択された時は、大変感動しました。
しかし、それでトイレ問題が解決したわけではありません。WTOが目指すのは「全ての人がいつでも、どこでも、清潔で安全なトイレを使えるようにする」ことで、満足なトイレすらない人たちが世界にはまだまだたくさんいます。
夜間に利用して襲われる心配がなく、排泄物が河川を汚さないよう下水処理も適切に行われ、行きたいときにすぐ行ける場所にある。これらをもっと実現していかなくてはいけません。
そのためにはまず、トイレの話題をもっと気軽にできる土壌をつくっていきたいのです。例えば、ひと昔前はセックスについて語ることはタブーでしたが、今はそうでもありませんよね。
私たちは飲食についてなら当たり前のように話します。仮にそれらを「体に何かを入れる話」と捉えれば、排泄は「体から出る話」。誰もが食べたら消化して排泄する、それは恥ずかしくも汚くもない大切な命の営みなのだ、という認識をもっと広めていきたいと考えています。
世界のトイレ文化を変える力が、日本にはある
――2020年の「WTO Hall of Fame Award」においては、日本財団の「THE TOKYO TOILET」を選出していただきました。評価の理由について教えてください。
シム:まずお伝えしたいのは、今回は「WTO Hall of Fame Award」の20周年に当たる特別な賞だということです。「THE TOKYO TOILET」(別ウィンドウで開く)を評価した理由は、これが17カ所のアイコニック(象徴的)なトイレを通じてトイレに関する会話を生み出し、日本のトイレ文化を外部に発信するコミュニケーション・プロジェクトである点です。
というのも、世界中どこを見渡しても日本ほど高度なトイレ文化を持っている国はありません。そこには「トイレにも神様がいて清潔にすると喜んでくれる」という考え方があり、店舗や住宅では「トイレをきれいにしておくこともおもてなし」という発想があります。
また刀鍛冶や陶芸などの分野において“匠(たくみ)”と呼ばれるプロフェッショナルがいるのと同様に、トイレにもプロの清掃人がいて、プライドを持って掃除に努めています。
そういった日本のトイレ文化が世界中に広がれば、子どもが下痢で命を落とすようなことはなくなり、何百万人もの命を救うことができるでしょう。
今回の受賞が、清潔で安全な「日本のトイレ」というソフトパワーを世界に発信する契機となることを願っています。
――この先にあるトイレの未来に向け、現在どのようなビジョンを描いていますか。
シム:この先もっとテクノロジーが発展するでしょうから、近い将来、ウンチやおしっこのデータを使って病気の可能性を予測することができるようになる、と考えています。そうすればトイレが予防医学の場になり、病院で行われている医療行為の多くを取り除くことができるかもしれません。
また、排泄物を肥料に変えられないか、ということも考えています。現在の化学肥料にはリンやポタシウムが使われていますが、それらの資源は間もなく枯渇すると言われています。もし土壌を肥沃にするため排泄物を活用できれば、無理のない循環サイクルが生まれてくる。トイレが持つ可能性はまだまだたくさんあるのです。
未来に向け、日本の皆さんにお願いしたいのは、ぜひトイレ文化のロールモデルになってほしい、ということです。
世の中を変えるとき、決して他人に「こうしなさい」と強要することはできません。代わりに「清潔で美しいトイレ文化」という新しい考え方を提案していただきたいのです。そうすることで、世界の人々のトイレに関する意識を変えられる力が日本にはある、と信じています。
いつか日本で「世界トイレサミット」を開催し、世界の要人を東京に案内して「これだけ多くの利用者がいるのに、こんなにトイレがきれいなんだよ」と見せてあげたらきっと驚くのではないか、とワクワクしています。
もしかすると皆さんにとって、安心で清潔なトイレはもはや当たり前で、特別な感動はないのかもしれません。しかしこの話を機に自国のトイレ文化に改めて誇りを持ち、世界のトイレ問題の解決をサポートしていただけたら、と願っています。
〈プロフィール〉
ジャック・シム
社会起業家。会社経営などを経て、2001年に国際NPO団体「世界トイレ機関(WTO)」を創設。世界各国での「ワールド・トイレ・サミット」開催のほか、2005年に「世界トイレ大学」を創立。サステナブルなトイレの開発といった事業を通じて世界におけるトイレ問題の啓蒙に努める。その活動において、2008年 米「TIME」誌が選出する環境ヒーロー賞、2018年 英・エリザベス女王によるポイント・オブ・ライツ賞、ルクセンブルク平和賞ほか数々の賞を受賞。
世界トイレ機関(WTO) 公式サイト(別ウィンドウで開く)
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