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【オリ・パラ今昔ものがたり】日本発、「オリンピックX環境」

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1972年札幌オリンピック・恵庭岳の滑降コース ⒸPHOTO KISHIMOTO

執筆:佐野慎輔

コンパスの針が真っすぐ札幌の南を指すところ、支笏湖(しこつこ)に威容を映す恵庭岳(えにわだけ)がある。標高1,320m。アイヌ語で頭のとがった岩山「エ・エン・イワ」を語源に持つ山は溶岩ドームに覆われた円錐型の火山である。私も、オリンピック担当記者となった1990年代初頭から幾度も足を運んだところだ。

恵庭岳から支笏湖に飛び込む

頂上から札幌市内を見下ろす恵庭岳が世界の注目を浴びたのは1972年、アジアで初めて開催された冬季オリンピック札幌大会だった。当初、計画していた手稲山(ていねやま)がアルペンスキー滑降に必要な標高差が足りず、恵庭岳に競技会場新設が決まった。すぐに北海道自然保護協会が環境保護の観点から建設反対の声を上げ、組織委員会との間で何度も話し合いがもたれた。ようやく大会終了後、施設を撤去し、跡地は植林により現状復元することで国の建設許可が下りた。

溶岩流で形成された尾根の8合目、標高1,126mから山麓に滑り降りる男子コースは標高差772m、最大斜度37度。女子は870mから滑り標高差534m、最大斜度35度だ。「支笏湖に飛び込む」と評された。篠田正浩(しのだま・さひろ)監督の記録映画『札幌オリンピック』は直線的に支笏湖に飛び込んでいくスピード感を見事に捉えていた。

8億円かけて造成されたコースは3億円かけて復元工事が実施された。オリンピック・ムーブメントにおいて初めて実施された環境保護対策である。ある意味、札幌がそうした手段をとったことは誇っていい。しかし、本来植えるべきエゾマツの入手が困難だとの理由で林相の完全復元には至らなかった計画は羊頭狗肉(ようとうくにく)とそしられて致し方あるまい。

実際、植林された一帯と周辺の環境とは不協和音を奏でている。初めて支笏湖を訪れて恵庭岳を仰ぎ見た私にも、その不自然な調和は実感できた。2013年に滑降コースを踏査した自然公園財団支笏湖支部職員の先田次雄氏は、新千歳市史機関誌『志古津』第19号に嘆息しつつ記している。「支笏湖周辺の天然林で感じる空気とは異質」で、札幌大会の「最終報告書」に記されている「『周辺との調和、同化は時間とともに解決される』とはいったいいつのことだろうか」。

環境保全の取り組みは1972年に始まった

一度壊した自然を元に戻すことは難しい。恵庭岳が象徴かもしれない。1972年は通称ストックホルム会議、国連人間環境会議が開催されて国連環境計画(UNEP)がケニアのナイロビに設立された年である。民間シンクタンクのローマクラブが『成長の限界』を発表。現行のまま人口増加と環境破壊が続けば、資源の枯渇や環境の悪化により、100年以内に人類の成長は限界に達すると警鐘を鳴らした年でもあった。札幌冬季大会がその年に開催された意義を思う。

一方、人々が環境問題に目を向けるにつれてオリンピックはいぶかしくみられるようになっていく。特に自然と身近に接し、自然の中に競技施設をつくらなければならない冬季大会は常に環境問題と背中合わせとなった。

1976年冬季大会は米国のデンバーが開催権を返上。急遽、1964年冬季大会を開催したばかりの、オーストリアのインスブルックに変更された。1972年札幌での問題、そして1972年大会招致に名乗りを上げたカナダのバンフで起きた環境保護団体の抗議活動が返上の理由となったと言われている。

1980年レークプラシッド大会(米国)は長期的な活用を念頭に施設が建設され、仮設施設も用いられた。国際オリンピック委員会(IOC)が初めて、環境への影響に関する調査を行ってもいる。一方で会期中、現地で抗議活動が起きたことも指摘しておかねばならない。1988年カルガリー大会(カナダ)では環境保護団体などから環境に配慮した計画の見直しが提示され、それに沿った施設建設が行われた。そうした意味では札幌発の環境問題が道を開いたといってもいい。

1990年、IOCに起きたこと

IOCは長らく「スポーツと文化」をオリンピック・ムーブメントの柱としてきた。そこに「環境」を加えると当時のフアン・アントニオ・サマランチ会長が公言したのが1990年。IOCはその頃までに環境保護団体からさまざまな批判を受けてきた。発言は1972年に始まる環境問題への世間の流れに敏感に反応したIOCらしい姿であった。

1992年バルセロナ大会では参加した全ての国・地域のオリンピック委員会が「地球への誓い」に署名、国際スポーツ界が環境保護に取り組むきっかけとなった。この年、UNEPは188カ国が参加して「地球環境サミット」を開催、温室効果ガスの増大による地球温暖化を防止するための取り組み「気候変動枠組条約」が締結された。

そして1994年、IOCはパリで開催した創立100周年を記念するオリンピック・コングレスでオリンピック憲章に「環境」を明文化、正式に「スポーツ、文化、環境」がオリンピック・ムーブメントの柱だと決定した。以後、招致段階から「環境への配慮」を立候補都市に要望するなど、この組織は「環境」と絡まり合い活動の枠を広げていった。

リレハンメルと長野、2つの冬季大会

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1998年長野オリンピック・八方尾根の滑降コース ⒸPHOTO KISHIMOTO

IOCの決定と前後した冬季大会は私も取材し、環境を強く意識した大会だったと印象づけられた。1994年リレハンメル大会は「Green Games」を標榜、組織委員会とノルウェー政府環境省、環境保護団体とが定期的に会合を持ち、IOCとも連携した環境対策が実行された。景観保護を考え、地域の自然素材を活かした施設建設、エネルギーを節約したメンテナンスなど画期的な試みが推進された。

建設費が増えた反面、維持費は下がった。余分な樹木の伐採には1本80万円相当の罰金が科せられ、市内への一般車両の乗り入れは禁じられた。自然環境への影響が考慮され、今日につながる施策となった。じゃがいもを原料とした食器や会場跡地へのボランティアの植栽などはその後の大会の指針と重なる。

リレハンメルからバトンを引き継いだ1998年長野大会もまた「自然との共存」を基本理念に掲げた。IOCが「環境」をオリンピック・ムーブメントの柱とした後、「気候変動枠組条約」が締結された後、初めて開催された冬季オリンピックである。

幕開けから波乱があった。アルペンスキー滑降会場は当初計画の志賀高原・東館山が環境保護団体の反対にあって頓挫。激論の末、八方尾根の既存コースに移した。しかし標高差を求める国際スキー連盟(FIS)と組織委員会によるスタート地点の問題は、開催2カ月前まで続いた。白馬村で開催予定のバイアスロンはコースに希少猛禽類オオタカの営巣が見つかり、野沢温泉村に移された。

クロスカントリーのコースは薬剤を使わず畳を雪の下に敷いてつくり、開会式では水分に触れると分解する材料でつくられた風船のハトが飛ばされた。リレハンメルのジャガイモに変えて、長野らしくリンゴの搾りかすを利用した紙食器も登場した。

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1998年長野オリンピック開会式で空に放たれた鳩風船 ⒸPHOTO KISHIMOTO

札幌以来の日本開催は環境を強く意識していたことは言うまでもない。施設がつくられた森の再生には、その土地に最も適した樹木の苗をビニールポッドで育てて植える方式がとられた。札幌から26年、植栽の不協和音をなくすための大きな進歩である。

海の環境対策は「瀬戸内海」から

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瀬戸内オーシャンズX調印式(2020年12月25日)。左から湯﨑知事(広島県)、伊原木知事(岡山県)、笹川会長(日本財団)、浜田知事(香川県)、中村知事(愛媛県)

いま日本財団は国土交通省や環境省、各自治体や民間組織と連携し「海の環境保全」に取り組んでいる。地球の地表の7割を占める海。私たちは海からさまざまな恩恵を受けてきたが、日本財団の笹川陽平(ささかわ・ようへい)会長の言葉を借りれば「いま、海は悲鳴を上げている」状態である。地球温暖化の影響による海流の変化や海洋に流れ込むごみの問題、中でも魚類にも大きな被害を与えるプラスチックごみが母なる海を苦しめている。海の環境を考えることは、われわれの使命といっていい。

数あるプロジェクトが進行する中、私が注目しているのは「瀬戸内オーシャンズX」と命名された「瀬戸内海」を舞台にした取り組みである。瀬戸内海に面した広島、岡山、香川、愛媛の4県と連携したプロジェクトが始まったのは2020年12月。閉鎖海域で外海からの海洋ごみが流入しづらい瀬戸内海をフィールドに、調査研究を行い、流入ゴミをゼロにしていこうとする試みだ。

1つの内海に面した複数の自治体が協力して事にあたり、企業や大学・研究機関、そして地域の人々が広く参画する取り組みは、笹川会長の言によると「世界的にも珍しい」という。世界中が海洋ごみ問題に頭を悩ませる中で、5年間かけて調査・分析し、得られた成果をもとに政策提言を行う「瀬戸内」発の実験が海洋環境をどのように変えていくか、モデルケースになると言っていい。

同時に地域を超えた啓発・教育活動は「文化としての海」を考える上でも大きな成果を期待できよう。

オリンピックと環境問題を考える上で、1972年札幌が道を開き、1998年長野で飛躍させた事実を私たちは知っている。今度は「瀬戸内海」を舞台に、日本発の海の環境保全モデルが生まれ、世界に広がっていくことを期待したい。

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〈プロフィール〉

佐野慎輔(さの・しんすけ)

日本財団アドバイザー、笹川スポーツ財団理事・上席特別研究員

尚美学園大学スポーツマネジメント学部教授、産経新聞客員論説委員

1954年、富山県生まれ。早大卒。産経新聞シドニー支局長、編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを歴任。スポーツ記者歴30年、1994年リレハンメル冬季オリンピック以降、オリンピック・パラリンピック取材に関わってきた。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会メディア委員、ラグビーワールドカップ組織委員会顧問などを務めた。現在は日本オリンピックアカデミー理事、早大、立教大非常勤講師などを務める。東京運動記者クラブ会友。最近の著書に『嘉納治五郎』『金栗四三』『中村裕』『田畑政治』『日本オリンピック略史』など、共著には『オリンピック・パラリンピックを学ぶ』『JOAオリンピック小辞典』『スポーツと地域創生』『スポーツ・エクセレンス』など多数。笹川スポーツ財団の『オリンピック・パラリンピック 残しておきたい物語』『オリンピック・パラリンピック 歴史を刻んだ人びと』『オリンピック・パラリンピックのレガシー』『日本のスポーツとオリンピック・パラリンピックの歴史』の企画、執筆を担当した。