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【オリ・パラ今昔ものがたり】忘れられない「コス・ザ・ボス」

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ヨハン・オラフ・コス選手(1994年リレハンメルオリンピック)ⒸPHOTO KISHIMOTO

執筆:佐野慎輔

冬のオリンピックには忘れられない存在がいる。ヨハン・オラフ・コスという、元ノルウェーのスピードスケート選手である。

コスが初めてオリンピックの代表となったのは1992年アルベールビル大会。脾臓(ひぞう)の炎症を起こし手術後5日で出場した5,000メートルで7位、その3日後には1,500メートルでなんと金メダルを獲得し、さらに10,000メートルは銀メダルと超人ぶりを披露した。

当然、母国のリレハンメルで開催された1994年オリンピックでも大活躍。出場した1,500メートル、5,000メートルをオリンピック記録で、10,000メートルは世界新記録で制し3つの金メダルを獲得した。

アフリカでみたものとは…

忘れられないのは、「コス・ザ・ボス」と言われたその活躍もさることながら、彼が呼びかけ人となって始めた事業である。

ノルウェーオリンピック委員会とリレハンメル大会組織委員会はオリンピック開催の意義を伝え、実践するために「オリンピック・エイド」という慈善活動組織を創設した。その要請を受けてコスが北東アフリカのエリトリアを訪れたのは大会前年の1993年。30年にも及ぶ独立戦争の末にエチオピアの支配から脱し、国際連合に加盟した直後であった。

オスロ大学医学部に在籍する26歳の青年がエリトリアで目にしたのは、貧困と食糧難にあえぎ、病気にかかっても満足な治療さえ受けられない小さな命。自分は大学を休学、医者になる道を少しだけ先に延ばして、母国で開催するオリンピックに向けてスケートの強化練習を続けている。しかしここでは、オリンピックがあることも、いやスポーツの存在さえ知らず、その日を生きていくことだけで精いっぱい、将来の夢など見たこともない子どもたちの姿しかなかった。

「衝撃でした。僕は恵まれた環境にいて、医者になることも、スケートに打ち込むこともできている。しかし彼らは、遊ぶ楽しささえ知らずに死んでいくんです…」

後年、東京を訪れたコスに赤坂のホテルで話を聞いた。「悲しい光景でした」と目元を潤ませながら話してくれたのは、エリトリアの子どもたちの遊び。

「彼らは戦争ごっこをしていたんです。兵士になって互いに撃ち合う。生まれた時から、周囲にはそうした光景しかなかったんですよ」

コスは子どもたちとボールを蹴り合って遊んだ。少しの時間だけでも、スポーツをする楽しさを子どもたちに伝えたかった。やがて遊んでいくうちに笑顔がこぼれ、子どもたちの目に生気が戻ってきたという。

「兵士になる以外の道を教えること、それが平和を希求するオリンピックに出場した僕の役割だと思いました」

リレハンメルの実践

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極寒の中で行われたリレハンメルオリンピックの開会式(1994年)ⒸPHOTO KISHIMOTO

リレハンメルは、それまで同一年に開催されていた冬と夏のオリンピックが初めて2年ごと交互に開催することになった大会である。加盟各国・地域オリンピック委員会の選手派遣業務の煩雑さを表向きの理由とし、実はスポンサー収入の拡大を図るための方策であった。1992年と1994年、2つの冬季大会の開催間隔が2年しかないのはそのためである。

そして開催前年、国際オリンピック委員会(IOC)が古代のエケケイリア(聖なる休戦)に倣い、国連総会で「オリンピック休戦」決議を始めた大会でもあった。1984年大会の開催都市サラエボがボスニア・ヘルツェゴビナ紛争によって街が破壊され、開会式で黙祷が捧げられた大会でもある。

その大会で「ボス・ザ・コス」は文字通りヒーローとなり、嵐のような称賛の中にいた。しかし彼の思いは、別にあった。貧困や食糧難に苦しむ子どもたちに何ができるか。スポーツを知らず、夢も持てない子どもたちに何ができるか。その実践方法を考えた。

リレハンメルの選手村や競技会場には募金箱を置いた。コスは選手仲間に募金を呼びかけると共に、3つの金メダルの報奨金3万3,000ドル(当時のレートで約380万円)を寄付。さらに世界新記録を出したスケート靴を競売にかけて9万ドルを調達し、仲間たちの協力で集めた募金も合わせて基金を創設した。

そして「オリンピック・エイド」の議長に就任。サラエボとエリトリアの子どもたちに食料や衣料を届け、スポーツをする楽しさを教えた。またエリトリアでは伝染病の予防接種を受けさせる活動も行った。

動き始めた「コス・ザ・ボス」

コスは1994年5月、競技生活を引退、オスロ大学に復帰した。両親は共に医師である。子どものときからの夢、「医者になる」流れに戻ろうとした。

しかし、そんなコスを周囲は放っておいてはくれない。スポーツと社会貢献での実践を迫り、サマランチIOC会長を皮切りに国連のガリ事務総長、米国のゴア副大統領、パレスチナ解放機構のアラファト議長、イスラエルのペレス外相など世界の要人を訪ねて難民支援を訴える役割を担う。

1996年アトランタ大会組織委員会にも「オリンピック・エイド」の継続を呼びかけ、国連児童基金(ユニセフ)のスポーツ特別代表となった。その活動が評価され、米スポーツイラストレイテッド誌の「スポーツマン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたのもこの頃のことである。同誌はコスを「偉大な頭脳とけた外れの運動能力を持つ男」「大きく優しい心を持つ男」と称えた。

1996年アトランタ大会でも募金活動し、リレハンメル大会の募金と合わせた3,100万ドルでサラエボとエリトリアに病院と学校を建設。15カ国の紛争地域の子どもたち120万人と8万人の女性を対象に伝染病の予防接種を実施した。その後の1998年長野や2000年シドニーでも活動は続けられた。

その間、コスはオーストラリアのクィーンズランド大学に移って医学研究を続け、選手会選出のIOC委員も務めた。また、ノルウェー政府の反麻薬・ドーピングフォーラム会長としてドーピング撲滅の先頭に立ってもいた。

やがて、コスは活動の主体を、自ら2000年に創設した非政府組織(NGO)「Right to Play(RTP)」に移していく。

写真:ボールで遊ぶ子ども
RTPの公式HPより

RTPは「遊ぶ権利」を通して、子どもの生活スキルの向上を目指す組織。本部を多民族多文化国家カナダのトロントに置き、国連のあるニューヨークにほど近いこの地から「遊びの力を利用して、子どもたちを保護し、教育し、逆境を乗り越える力を与えることを使命」とする活動の輪を広げていく。

2001年3月、中部アフリカのアンゴラと西アフリカのコートジボワールの難民コミュニティでスポーツと遊びのプログラムを実施したのが始まり。同年「ワクチンと予防接種のための世界同盟」(GAVI)と協力、ガーナで「スポーツ・予防接種フェスティバル」を開催した。

数千人の参加者がサッカーボールを蹴ったりしながらスポーツの楽しさに触れ、2,600人以上の子どもたちに予防接種を実施する世界初の試みでもあった。

2002年ソルトレークシティー冬季大会ではスポーツを活用し、紛争地帯の子どもたちを支援する呼びかけも行った。やがてドイツやノルウェー、オランダ、スイス、英国、米国にも拠点を広げたRTPはユニセフと共に活動。IOCと距離を置き始める。

オリンピック事業との決別

「IOCの途上国支援プロジェクト、オリンピック・ソリダリティー事業はオリンピック出場を目指すエリートアスリートが対象。それ以外の子どもたちへの支援はわれわれのようなNGOの草の根活動が担う」

RTPとオリンピックとの距離感は、コスの強い思いの現れであった。それでもRTPは夏と冬のオリンピックでは公に活動が許され、選手村などでアスリートたちに子どもたちへの支援を呼びかけた。しかし2008年に、IOCと2010年バンクーバー大会組織委員会から関連施設での活動が禁じられた。RTPのいくつかのスポンサーのカテゴリーがバンクーバー大会の公式スポンサーと競合していたことが要因だった。以来、コスとRTPはオリンピックという舞台から離れた。

ところが、コスの思いと活動はアスリートたちに理解され、RTPに寄付を申し出る選手も現れた。そして自ら慈善活動を実践するアスリートやオリンピアンたちが増えていった。

RTPはアフリカ、アジア、中東地域などで活動を続ける。創設者のコスは長くCEOを務めた後、理事として支える。いま「社会起業家」と呼ばれるコスは、国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」の達成に向けた走りを止めない。

コスは赤坂のホテルで会った際、こんな風に話していた。

「スポーツには人を動かす力がある。金銭面の支援も重要だが、スポーツの力を信じて、積極的にボランティア活動に参加していくべきだと思う」

アフリカはコスと日本財団の支援の場

こうした実践は日本財団が「HEROs」(外部リンク)のプロジェクトを通して訴えてきたことにも通じる。そしてコスが舞台に選んだアフリカは日本財団の農業支援の場でもあった。

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環境再生型農業の実演をするフィールドデーの様子(エチオピア) 

いまもアフリカの農業支援といえば「ササカワ」の名前が挙がる。1984‐85年にかけて「アフリカの角」とよばれるエチオピアを中心とした地域で100万人以上の犠牲者を出した飢饉が発端だった。

日本財団の創設者、笹川良一(ささかわ・りょういち)会長の呼びかけにジミー・カーター元米大統領やノーベル平和賞受賞の農業学者ノーマン・ボーローグ博士が応じて笹川アフリカ協会(現:ササカワ・アフリカ財団)を創設。食糧難に苦しむ地域に単なる物資支援ではない農業の力で国土を変革する試みを始めた。各国の公務員にあたる農業普及員を最大限に活用し農業技術を移植、普及していくのである。

単に農業機械を導入した先進国の技術を教えるのではなく、現地の事情に応じたきめ細やかな技術の移転。小規模農家を対象に技術指導と人材を育成していく方式は「ササカワ・メソッド」と呼ばれた。こうしたササカワ・アフリカ財団の取り組みは、ササカワ・アフリカ財団(SAA)に受け継がれた。

時が流れ、今日「最後のフロンティア」と呼ばれるアフリカの経済成長は目覚ましく、ありようは随分と変わった。農業も「食うために作る」から「売るために作る」にシフトしつつある。

しかし、それでもなお、アフリカには飢餓と貧困に苦しむ人々がいる。会員制インターネットサイトSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が若者に広がる一方で、国を捨て難民となる人々も少なくない。

そんなニュースを聞くにつけ、コスとササカワ・アフリカ財団を思う。私たちは1人も取り残さないSDGsのゴールに向けて、支援の手を差し伸べ続けなければならない。

〈プロフィール〉

佐野慎輔(さの・しんすけ)

日本財団アドバイザー、笹川スポーツ財団理事・上席特別研究員
尚美学園大学スポーツマネジメント学部教授、産経新聞客員論説委員
1954年、富山県生まれ。早大卒。産経新聞シドニー支局長、編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを歴任。スポーツ記者歴30年、1994年リレハンメル冬季オリンピック以降、オリンピック・パラリンピック取材に関わってきた。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会メディア委員、ラグビーワールドカップ組織委員会顧問などを務めた。現在は日本オリンピックアカデミー理事、早大、立教大非常勤講師などを務める。東京運動記者クラブ会友。最近の著書に『嘉納治五郎』『金栗四三』『中村裕』『田畑政治』『日本オリンピック略史』など、共著には『オリンピック・パラリンピックを学ぶ』『JOAオリンピック小辞典』『スポーツと地域創生』『スポーツ・エクセレンス』など多数。笹川スポーツ財団の『オリンピック・パラリンピック 残しておきたい物語』『オリンピック・パラリンピック 歴史を刻んだ人びと』『オリンピック・パラリンピックのレガシー』『日本のスポーツとオリンピック・パラリンピックの歴史』の企画、執筆を担当した。

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