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泊まって学べる国立ハンセン病療養所。今を生きる若者に伝えたい想い、偏見・差別の源

写真:長島愛生園歴史館(左)、長島愛生園で入所者自治会長を務める中尾伸治さん(右上)、長島愛生園の園長である山本典良さん(右下)
研修に訪れた人が無料で宿泊することもできる国立ハンセン病療養所・長島愛生園(岡山県瀬戸内市)
この記事のPOINT!
  • 国立ハンセン病療養所・長島愛生園が2023年4月に宿泊施設「むつみ交流館」を開館
  • 国によるハンセン病患者の強制隔離の資料や遺構が数多く残り、歴史を学ぶことができる
  • 人々の無知が生んだ偏見・差別。同じ過ちを繰り返さないために「知ること」が大切

取材:日本財団ジャーナル編集部

ハンセン病は、末梢神経や皮膚が「らい菌」によって侵される感染症で、悪化すると皮膚の変色や体の変形を伴うこともあり、その外見と感染に対する恐れから、患者は差別の対象となり迫害されてきました。

明治時代に入ると国による強制隔離政策がとられるようになり、ハンセン病患者の人権が大きく侵害されました。その後、特効薬によって完治する病気となったにもかかわらず、強制隔離政策を継続させた「らい予防法※」が廃止されたのは、わずか27年前となる1996年のことです。

そんなハンセン病によってもたらされた偏見・差別の歴史をより多くの人に知ってもらうため、2023年4月4日、岡山県瀬戸内市にある国立療養所・長島愛生園(ながしまあいせいえん)(外部リンク)に新しい施設「むつみ交流館」が開館。最大約70名の宿泊が可能で、学校や自治体の研修、ハンセン病に関する研究を目的とした団体を対象に、無償で提供しています。

ハンセン病問題について学ぶことを目的とした宿泊施設、むつみ交流館(外部リンク)

今回、95名(2023年8月時点)のハンセン病元患者が暮らす長島愛生園を訪問。14歳の時に入所し、88歳になった現在は入所者自治会長を務める中尾伸治(なかお・しんじ)さんと、2016年に園長に就任にした医師・山本典良(やまもと・のりよし)さんに話を伺いました。

2人がハンセン病のことを知らない今を生きる若者たちに伝えたいこと、その想いとは?

強制収容され、働かされる場だった長島愛生園

長島愛生園へは、岡山県の日生(ひなせ)港から発着する「見学クルーズ」(外部リンク)の船に便乗して向いました。参加者はスタッフが語る長島愛生園の歴史に耳を傾けながら長島周辺を回り、長島愛生園の船越浅橋を目指します。

航路の途中で見えるのは、入所者を絶対隔離から解放し、隔離時代の終わりを象徴するものとして1988年に開通された邑久(おく)長島大橋。別名「人間回復の橋」とも呼ばれ、人間としての尊厳や自由を求めた入所者は、この橋を渡り帰郷したと語られています。

豊かな自然に囲まれた長島
隔離時代の終わりを象徴する邑久長島大橋

船越浅橋に到着すると、出迎えてくれた中尾さんから見学クルーズ参加者に向けてこんな言葉がかけられました。

中尾さん「私たちが“働いてきた”施設をゆっくり見学してください」

働いてきた——病に侵された人は治療・療養に専念するのでは? しかし、当時の長島愛生園では、入所者の看護や介護を入所者の中でも症状が軽い人が行い、子どもたちの教育も資格を持った教師ではなく入所者の中から選ばれた人が担っていたそうです。

中尾さん「らい予防法の制定によって国の強制隔離が行われたことで、当時の長島の人口のほとんどがハンセン病患者でした。そのため、入所者が入所者の面倒を見ないといけない状態だったのです。重症な患者の看護や子どもたちへの教育はもちろん、宅地の増設や道路の整備、畑の開墾を行うのも入所者。愛生園は自分たちの手で築いてきたと、私は思っています」

船越浅橋で見学クルーズ参加者に挨拶をする中尾さん

いまも残る、人権侵害を物語る建造物

国が行なったハンセン病患者への強制隔離政策の跡は、今も長島に数多く残っています。1つは収容桟橋。ハンセン病を疑われた人々は船でこの橋まで連れて来られました。患者の家族や付き添う人は収容桟橋より先に入ることが許されなかったため、ここが入所者にとって社会や家族との別れの場所になっていたそうです。

現在の収容桟橋

入所者が次に向かうのは「回春寮(かいしゅんりょう)」と呼ばれる収容所。現在、国の登録有形文化財に指定されているこの場所では、入所手続きの他に検査、逃亡を防止するために現金・禁止物品の取り上げ、持ち物や入所者の消毒などが行われていました。

「母が夜なべをして作って持たせてくれた布団が消毒され、カビが生えて悔しかった」という入所者の悲しい声もあったと語られています。中尾さんは、ここで初めて社会との隔たりや恐怖を感じたと言います。

国の登録有形文化財でもある回春寮

中尾さん「14歳の時、収容桟橋を渡ると、私は回春寮へ連れて来られました。そこで初めて隔絶された場所で暮らすことになったことを実感し、日が経つに連れて寂しくなったのを覚えています。また当時は治療法が確立していなかったので、顔中包帯だらけ、絆創膏(ばんそうこう)だらけの人がたくさんいました。自分もいつかこうなるのではないかと思い、とても怖かったです」

回春寮内にある消毒風呂。ハンセン病患者は浸かっていたと言われる。masarufujiwara/PIXTA

長島愛生園では、逃亡した人を収監する監房跡や、亡くなっても故郷に帰れなかった3,700柱もの遺骨が眠る納骨堂なども見て回ることができます。

監房は設置当初「園内の秩序維持」を目的としていましたが、懲戒検束権(※)は全て療養所長に与えられており、入所者には人権すらなかったと語られています。

  • 療養所長に与えられた、7日以内の常食量2分の1までの減食、30日以内の監禁などの制裁を加えたり、行動を制限するための権限。大正5年(1916年)に制定
ハンセン病患者たちの遺骨が納められた納骨堂。masarufujiwara/PIXTA

まともに療養できなかった要因の1つとして、入所者の大幅な定員超えもあったそう。らい予防法制定を機に、強制的に長島愛生園に連れられてきたハンセン病患者は、もともと400人の定員に対し、多い時期で2,000人を超えていたとのことです。

当然ながら、食事も十分にいきわたらず亡くなった人も多かったと中尾さんは話します。

中尾さん「食事は、昼食に麦ごはん、夕食にジャガイモ1つが当たり前でした。調味料は一切なかったので、ときどき支給されるザラメやのりと合わせて食べていました。当時亡くなられた人の多くは、ハンセン病ではなく栄養失調が原因でした」

特効薬完成後もなくならない偏見と差別

現在、長島愛生園で暮らす入所者のほとんどが強制収容と偏見・差別によって帰郷が叶わなかった人々で、平均年齢は88歳を超えています。

中尾さん「1950年頃に特効薬としてプロミンが使用され、ハンセン病が完治したと新聞で報道されました。治る病気だと証明されたのですから、普通なら全員退所の手続きが取られるはずですよね。しかしハンセン病患者が愛生園から退所することは許されませんでした。同じ時期に特効薬ができた結核患者は解放されていましたよ。当時は『なぜ私たちだけ解放されないのか』と残念に思っていました。その後、人権理事会などと一緒にらい予防法廃止に向けた闘争を行いましたが、まともに交渉すらできないような状態でしたね。当時の国は変わらず『ハンセン病になったら、鎖をつけてでも入所させた方がいい』という考えだったのです」

ハンセン病患者に対する偏見・差別について語る中尾さん

1996年にらい予防法は廃止され、ハンセン病の後遺症が残った人も帰郷できるようになりました。しかし、一度社会に植え付けられたイメージや偏見を覆すことは難しく、帰郷できても長島愛生園で暮らしていたことを隠す人は少なくなかったそうです。

園内にあった学校の閉校記念誌に書かれた一節が、当時のハンセン病患者に対する偏見・差別の残酷さを物語っています。

「うそをつくことはよくないことである。一度うそをつくとうそにうそを重ね、ついにばれてしまう。そして逃げ隠れする消極的な態度になりがちである。必要なときは事実を話して解決に努力して、偏見・差別の社会で生きる権利を主張する。不利になっても、うそをつくより人間的な生き方になり、支援を重ねることによってより強くなり、自信もできてくるというのが普通の教え方だ。しかし、この方法には強い意志が必要である。私たちは社会で現実に生きていかねばならない。差別され、偏見で見られ、社会が受け入れてくれないならば、生きる手段として、うそも許されるべきである。うそをつく必要があるときは、おろおろしないで堂々と胸を張って言葉はっきりと社会に立ち向かって生きる必要がある」

ハンセン病の偏見・差別を知り、自分ごとにしてほしい

完治する病気だと判明してからも続いた、ハンセン病患者への偏見・差別。このようなことを繰り返さないために私たちが取り組むべきこととして、園長の山本さんが挙げたのは「自分ごととして置き換えて反省し、誰もが受け入れられる寛容な社会に必要な取り組みを考えること」でした。

社会から偏見や差別をなくすために必要なことを語る山本さん

山本さん「当時、確かに『ハンセン病は恐ろしい病気だ』と伝えたのは国です。国民もその言葉を信じるしかありませんでした。国民も被害者だったと思います。しかし、国だけが悪いんだという結論で片付けてしまっていいのかというと、そうではありません。国民一人一人も『私たちがハンセン病患者を社会の一員として受け入れなかったから偏見・差別が起きたんだ』と考えないと反省もできないし、繰り返さないと誓えませんよね。誰にでも多少は偏見・差別を持つ心があるはず。それを抑えるためには、まずハンセン病問題を自分ごとに置き換えて、何がいけなかったのかを考えることが大切でしょう。長島愛生園は、国によるハンセン病患者の強制隔離という記憶を伝える資料や遺構が今も数多く残り、そういったことを考えるのに絶好の場だと思います。ぜひ見学に訪れてハンセン病だけでなく社会から偏見や差別をなくすためにできることを考え尽くしてほしいですね」

多くの資料を展示しハンセン病とそれを取り巻く問題について理解を深めることができる長島愛生園歴史館。写真提供:長島愛生園
国のハンセン病政策と長島愛生園での出来事を中心に紹介する常設展示室。写真提供:長島愛生園

中尾さんは、今もハンセン病の歴史を伝える語り部として活動をしています。また中尾さんの半生が描かれた絵本「なかおしんじ物語」(外部リンク)は現在、岡山県内の小中学校の教材として活用されています。

中尾さんがいまを生きる若者に伝えたいこと。それはハンセン病について「まずは知ること」でした。

中尾さん「ハンセン病は今、完全に治る病気となりました。しかし私のように後遺症が残る人がいるのも現状です。そういう人でも人権が無視されることなく生活できる社会をつくるには、まずハンセン病について知ってもらい、そこから理解を深めていってもらうことが大切だと思います。まだ長島愛生園に足を運んだことがない人は、ぜひ一度お越しください」

帰船する見学クルーズの参加者を見送る中尾さんと長島愛生園の学芸員の方々

ハンセン病だけでなく、社会にはびこる偏見や差別の多くは無知から生まれるものだと、中尾さんや山本さんの話を聞き、改めて強く感じました。

ハンセン病問題は、入所者の高齢化により忘れられつつあります。その差別の歴史を風化させないためにも、機会があれば長島愛生園に訪れ、自分の目で見て、心で感じてほしいと願うばかりです。

撮影:十河英三郎

〈プロフィール〉

中尾伸治(なかお・しんじ)

1934年奈良県生まれ。13歳でハンセン病感染が判明し14歳で長島愛生園に入所。現在は愛生園で生活をしながらハンセン病の語り部として、小学校などを中心に各地で講演や交流活動をしている。2011年に長島愛生園自治会長に就任。

山本典良(やまもと・のりよし)

1963 年岡山県生まれ。岡山大学医学部、同大学院医学研究科博士課程を卒業し、外科専門医として医療に携わる。2014年に長島愛生園の副園長として就任。2016年から園長となり、現在に至る。
国立療養所・長島愛生園 公式サイト(外部リンク)

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