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差別は誰の身にも起こりえる。東京藝大大学院生が、ハンセン病療養所を撮り続ける理由

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ハンセン病療養所の「日常」を撮り続けている写真家の木村直さん
この記事のPOINT!
  • 日本におけるハンセン病の歴史は、記録が少なく人々の記憶から失われつつある
  • 東京藝大大学院生の木村直さんは、ハンセン病療養所で暮らす人々の物語を継承するため生活の場を撮り続けている
  • 無知による偏見や差別は誰の身にも起こりえる。苦しんだ人々を大切に思う気持ちが歴史の継承につながる

取材:日本財団ジャーナル編集部

「日本の写真文化/写真の未来について考える」をコンセプトに、写真展やトークイベントなどが開催される国際写真祭「T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO」(外部リンク)。その全国14の美大・専門学校から80人の学生が参加した2021年度のポートフォリオ展で、東京藝術大学大学院に通う木村直(きむら・ちょく)さん(外部リンク)が、グランプリを獲得した。

受賞作品「みちしるべ 2016-2020 -国立ハンセン病療養所の記録と継承-」では、2016年から約4年間にわたって撮影された国立療養所沖縄愛楽園(外部リンク)国立療養所宮古南静園(外部リンク)の「生活の場」が切り取られている。

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作品「みちしるべ 2016-2019」より〈国立療養所沖縄愛楽園〉(2017年)。ハンセン病の歴史も大事だが「そこで暮らす人々がいる・いた」ということを知ってほしいと、生活の場にこだわったという木村さん。写真提供:木村直

ハンセン病は、末梢神経や皮膚が「らい菌」によって侵される感染症。悪化すると皮膚に斑紋(はんもん)が生じ、体の変形を伴うこともあり、その外見と感染に対する恐れから、患者は迫害されてきた。

感染力は極めて弱く治る病気であるにもかかわらず、誤った政策のもと山奥や離島にある療養所に強制隔離され、1996年に「らい予防法※1」が廃止されてから26年が経った今も、全国13カ所にある国立ハンセン病療養所では927人(※2)の元患者が暮らしている。平均年齢は85歳を超え、施設の存続と差別の歴史をどのように継承していくかが課題となっている。

  • 1. ハンセン病 (らい) の発生を予防すると共に,患者の隔離,医療,福祉をはかり,それによって公共の福祉の増進に資することを目的とした法律。旧法(1907年)に代わって1953年に制定された
  • ※2.令和4年5月1日現在。厚生労働省調べ

木村さんがハンセン病元患者の生活の場にこだわった理由、作品を通して伝えたいハンセン病問題に対する思いについて話をうかがった。 

ハンセン病の歴史をなかったものにしたくなかった

「若者が私の隣に座っているなんていい時代になった。あなたが隣に座ってくれて、私は今日、感謝して死ねる」

これは、沖縄愛楽園でハンセン病元患者のおばあさんから木村さんが掛けられた言葉で、いまの活動の支えになっているという。

「ドキッとするような、とても美しい言葉だと思いました。でも、一方で『感謝して死ねる?』『どうして?』と考えさせられました」

木村さんが初めて沖縄愛楽園を訪れたのは2歳の時。母親が大学時代に課外授業の一環で訪れ、施設の人たちと仲良くなったことをきっかけに看護師の道を歩み始めた。免許を取得してからも毎年のように通うようになり、やがて木村さんも同行するように。

「だから、沖縄愛楽園へは大好きなおじいとおばあの家に遊びに行く感覚でした」と、木村さんは振り返る。

沖縄愛楽園は、名護市から車で数十分、沖縄本島の北部にある屋我地島(やがじしま)という島にある。1938年に開園されてから、アメリカ政府の所管となった時期もあったが、現在は厚生労働省の管轄となっている。

「多くの人がハンセン病のことを過去の悲しい歴史から知ることがほとんどの中で、僕の場合は、母が愛楽園に通っていたことで、おじいやおばあとの交流を通してハンセン病のことを知ることができたのは、とても運が良かったと思います」

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美しい海と緑が広がる沖縄県屋我地島。hiro.kamiya / PIXTA

芸術大学へと進み、写真史の講義を受けていた時に、水俣病など歴史に刻まれた他の病気の記録はたくさん残っているのにハンセン病だけあまり残っていないことに違和感を感じたという木村さん。それが、ハンセン病療養所を撮り続けるきっかけになったという。

「戦時下において、日本軍は台湾にも韓国にも療養所を設立しています。海外にまで隔離場所があったことにも私たちはちゃんと向き合わなければならないはず。それで、僕はまず日本の療養所を知ることから始めましたが、そもそもアーカイブが少なく、ハンセン病問題に触れる機会が少な過ぎると感じています。だからこそ、 僕らの世代が頑張らないと、なかったことになってしまうという危機感があります。これは自分が引き継いでいくしかない、と使命のようなものを感じました」

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自分にしかできないやり方でハンセン病の差別問題と向き合いたいと話す木村さん

見る者に疑問を生み、考えるきっかけをつくる

2016年から2019年までの間、毎年数回に分けて10日〜1カ月間ほど沖縄愛楽園に滞在したという木村さん。「年に3回は行っていました。沖縄と本州では気候も違うので、本州の春に行ったら向こうは夏、みたいな感じで、四季が8回あるような感覚になるんです」と冗談交じりに話す。

その中で常に意識したことは写真を撮ることの「暴力性」だ。

「僕はカメラを人に向けるという行為には暴力性が伴うと考えています。これは『見る暴力』と言えるでしょうか。一方で『見ない暴力』も存在する。それは『なかったことにしてしまう』という暴力です。僕は常にハンセン病療養所を撮影していく上で、この2つの暴力性を意識してきました。自分の眼差しによって療養所で暮らす人々が傷つくことはあってはならない。けれど、療養所の記録はこれまでの差別もあり、あまり残されていません。特に僕が見てきた生活の場としての療養所の記録は少ないと感じています」

木村さんは「相手が嫌がることはしない」ということを大事にし、常に療養所で暮らす人々を優先し、撮影は二の次という姿勢で交流を深めていった。療養所で暮らす人々の対話は、誰かに伝えたくなるような「宝物」だと語る。

「ハンセン病療養所での暮らしはどこか特殊なものと受け止められがちですが、そこには友人がいたり、食事を作ったり、お裾分けしたり、車で出掛けたり、釣りをしたり、囲碁をしたり、働いたりと普通の生活があります。その場に受け入れてもらえて、たまに一緒に遊ばせてもらって、そういう思い出が僕の宝になっています。シークワーサーの味、おばあの作る激うまジュースを知っているからこそ、残されたハンセン病療養所の歴史もリアリティを持って受け止められます」

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作品「みちしるべ 2016-2019」より〈国立療養所宮古南静園 ぬすとぅぬガマ〉(2017年)。沖縄戦で療養所の人たちが避難したガマ(洞窟)だという。写真提供:木村直

施設の人々の話の中には、自然とハンセン病による差別の体験も絡んできて、ようやく問題の背景が見えてくることもあったという。

「写真は、思いのままさまざまなものを撮らせていただきました。展示会に出したものは、現像した何百枚の中から厳選したもの。選ぶ基準にしたことは、見る人の視点といい意味で『ズレ』を感じさせるものです。例えば、この瘤(こぶ)のできたおじいの手を写した作品を『ハンセン病の後遺症を撮ったもの』と思う人が多いかもしれません。ですが、実はおじいが『俺の力こぶを見てみろ!』と、僕に自慢して見せてくれたところを撮影したものなんです」

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作品「みちしるべ 2016-2019」より〈国立療養所宮古南静園(おじいと俺の手) 〉(2017年)。ハンセン病元患者であるおじいの手(上)を撮影。もう1つの手は木村さんのもの

活動には、自己批判的でかつ懐疑的な精神を持って臨んでいるという木村さん。

「ハンセン病問題は非常に複雑な問題をはらんでいて、『何が良くて何が悪い』と一概に言えないことも多いです。ゆえに物事や自分を疑う気持ちを持って取り組む必要があると考えています。簡単に理解できると思わないこと、その気持ちから問題を抱えた当事者の方たちとの交流が始まるのだと考えていますし、その姿勢が自分の人生も豊かにしてくれると思っています」

先述の「T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO」に応募した理由については、若い世代にハンセン病療養所のこと、そこには自分たちと同じようにいろんな人たちの日常生活があることを伝えたかったと話す。

「僕自身、療養所に何度も足を運ぶことで分かったこともあれば、分からなかったこともたくさんあるんです。作品もそれが伝わるものを出して、見た人が『こうなんだな』と勝手に納得せずに、考えるきっかけをつくりたいと考えました」

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「T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO」でのグランプリ受賞を記念して、2022年3月に東京・銀座で個展を開催。写真だけでなく木村さんが制作した映像も展示した

療養所の垣根の中には、命を突き動かすような物語があった

新型コロナウイルス感染拡大の影響で2020年以降、沖縄にある療養所へは通うことができていないという木村さん。近況を尋ねたところ「療養所と社会の境界線について考えるようになった」という。

「東京・東村山市にある国立療養所多磨全生園(外部リンク)は、以前は柊木(ひいらぎ)の垣根で囲われていたのですが、最近はフェンスに置き換わっていたりします。でも、そのことに気付かない人も多いと感じていて……」

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作品「この森で誰かが、生活をしていた」より〈国立療養所多磨全生園 北側 TZ N-01〉(2021年)。1960年代までは3メートルの高さがあったという柊木の垣根。療養所と周囲の境界線に注視したという

療養所と周囲を分断する柊木の垣根で設けられた境界線。それを多くの人に体感してもらうべく、作品作りに木村さんが活用したのは、被写体の輪郭を明確に映し実寸代でイメージを定着する「フォトグラム※」という手法だ。

  • カメラを用いずに、印画紙の上に直接被写体を置き、光を当てて感光させることで、被写体の影が像となって映し出される写真の撮影技法

「垣根の様子が伝わりやすいように、フォトグラムの手法を用いて、原寸大に柊木の葉が映るような作品に仕上げました」

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作品「らい園に美談などあるものか あらいでかというもの あなたもベロニカ」より〈国立療養所多磨全生園 TZ P-N03〉(2021年)。フォトグラムという手法で多磨全生園の柊木の垣根を撮影

医療従事者や感染者への偏見や差別が横行したコロナ禍において、多くの人にハンセン病を考える機会を創出したかったという。

「後世の人たちに、療養所で生きた人たちと命を突き動かすような物語があったことを残すのは、僕の引き受けた使命だと思っています。ハンセン病問題は社会の無知によって起きた差別でもあります。つまり無知による差別は誰の身にも起こりえることだということを伝えたいんです。そして何より療養所で生きた人たちの気持ちを大切にしたいし、僕の作品を通じて、多くの人たちにも大切に思ってほしいです」

人生を懸けて今の活動を続けていきたいと話す木村さん。最後に、思い出に強く残っているという沖縄の療養所でのエピソードを紹介したい。

「とあるおじさんに『今度ここに来た時に、昔の話を聞かせてもらえますか?』というお願いをしたんです。しかし、次に訪れた時にはおじさんは病床につき話せる状態じゃなかった。その様子を見て『おじさんにとって人生とは何だったんですか?』とつい聞いてしまって。すると、おじさんはこちらを見て『ウゥッ…』と唸ったんです。その後、療養所にある資料館でそのおじさんが取材を受けた記事を見つけて、記者さんが僕と全く同じ質問をしていたんです。おじさんの答えは『ていげいやさ、なんくるないさー(いい加減に生きていれば、なんとかなるんだよ)』。前向きな言葉のように思えるけど、人生の苦しみが隠れているようにも思えました」

その言葉を今も忘れないようにしているという。

「これまでも、そしてこれからも活動を通じてその言葉の意味を探っていくんだと思います」

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今後もハンセン病療養所の記録と継承に取り組んでいきたいと語る木村さん。彼の公式サイトでは作品情報のほか、芸術に対するさまざまな思いが綴られたブログも展開

目まぐるしく変化する社会の中で、日本におけるハンセン病の記憶は失われつつある。悲劇の歴史を繰り返さないためにも、まずは一人一人が正しい知識と理解を持つ(外部リンク)ことが大切だ。そして次代へとしっかり継承していくことが、無知からくる偏見や差別を無くし、多くの人の希望や道標となるはず。

撮影:十河英三郎

〈プロフィール〉

木村直(きむら・ちょく)

1998年生まれ。東京造形大学造形学部デザイン学科写真専攻を卒業、現在は東京藝術大学美術研究科先端芸術表現専攻修士課程に在籍。「国立ハンセン病療養所の記録と継承」と「見ない暴力」「見る暴力」を主軸に、写真・映像・インスタレーションを用いて制作活動を行う。2021年「T3 PHOTO FESTIVAL STUDENT PROJECT」グランプリ受賞、2022年「第9回500m美術館賞入選展」グランプリ受賞。
木村直 公式サイト(外部リンク)

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