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196年ぶりに蘇る祇園祭「鷹山」。復興に尽力する弁護士の、平和と疫病退散の祈り
- 日本三大祭の一つ祇園祭の山鉾巡行に、由緒ある「鷹山」が196年ぶりに復活する
- 弁護士の小町崇幸さんをはじめ多くの人の熱意が、絢爛豪華な鷹山と雅なお囃子を復活させた
- 復活は通過点。祇園祭本来の目的である「平和」「疫病退散」を願い、伝統を後世へ継承していく
取材:日本財団ジャーナル編集部
コンチキチン、コンチキチン♪と、京都の町に響き渡り、夏の到来を告げる祇園囃子。毎年7月1から31日の1カ月にわたり開催される日本三大祭の一つ「祇園祭」は、古くから「祇園さん」の愛称で親しまれる全国の祇園社(※)の総本社「八坂神社」の祭礼だ。
- ※ 八坂神社の旧名。牛頭天王(ごずてんのう)を祀る神仏習合の寺社として、平安時代から明治時代までは「祇園社」または「感神院」と称した。牛頭天王は、日本神話の荒ぶる神・スサノオノミコトと同一視されている
平安時代から1100年以上も続く歴史あるこのお祭りは、開催期間中に多彩な祭事が行われ、毎年世界中から100万人を超える見物客が訪れる。その中でも注目を集めるのが、17日(前祭)と24日(後祭)に行われる山鉾(やまほこ※)巡行だ。
- ※ 神社の祭礼に引かれる山車(だし)の一つ。車台の上に家や山などの造りものをして,その上に鉾やなぎなたなどを立てたもの
2020年、2021年は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で中止となった山鉾巡行だが、2022年は3年ぶりに開催を予定。さらに応仁の乱(1467年〜)以前から巡行していた由緒ある山鉾「鷹山(たかやま)」が約200年ぶりに復活する。
今回は、公益財団法人鷹山保存会(外部リンク)のメンバーの一人で、お囃子(はやし)や法務面から鷹山の復興に尽力した小町法律事務所の小町崇幸(こまち・たかゆき)さんに、祇園祭や鷹山の魅力と共に、復活の裏側について話を伺った。
「祇園祭に参加したくて」京都大学へ進学
京都市内で弁護士事務所を構える小町さんが、祭りのお囃子に魅了されたのは中学3年生の時。生まれ育った東京都東村山市にある金山(かなやま)神社の例大祭(※)でお囃子に参加したことがきっかけだ。
- ※ 神社で1年に1〜2回行われる特別な祭り
「もともとお祭りは好きでしたし、ちょうどお囃子ができる機会があったのでやってみました。そこからは、どっぷりとハマりましたね。お囃子の魅力はたくさんありますが、鉦(かね)、太鼓、笛の演奏がピッタリ合ったときのハーモニーの素晴らしさや、それを多くの方に聴いてもらい、注目や拍手を浴びる快感もハマった理由の1つです(笑)」
それ以来、毎年例大祭を楽しみに、部活の代わりに笛や太鼓の練習に打ち込んだという。そんな小町さんが大学進学にあたって重視したのも、もちろんお祭りとそのお囃子だった。
東京の神田祭に、大阪の天神祭、福岡の祇園山笠…多くのお祭りがある中、最終的に進学の地に決めたのが祇園祭のある京都。「京都で祇園祭に関わりたいと思ったのは、以前にテレビで観た山鉾の美しさや、お祭りにおけるお囃子の重要さでした」と、京都大学へ入学する。
京都で一人暮らしを始めて間も無く、祇園祭の山鉾連合会に連絡を入れたものの「大人のお囃子は募集していない」と断られたという小町さん。それでも諦めきれずに、知り合いのつてを頼って京都の和太鼓グループ入ったところ、山鉾「北観音山(きたかんのんやま)」保存会の幹部の1人と出会い、その紹介で北観音山の囃子方(囃子を受け持つ人)になることができた。
「それから17年間、北観音山でお囃子をさせていただきました。弁護士という職業を選んだのも、ある意味お祭りのために自分で仕事量を調整しやすいからと言っても過言ではありません(笑)。祇園祭は7月中ずっと行われるので、山鉾巡行に関わる人々はほとんどそれに時間を費やします。だから7月はなかなか仕事ができないんですよ」
「お祭りが最優先」とブレを感じさせない小町さんは、祇園祭に参加する魅力をこう語る。
「動く美術館と言われる山鉾の美しさや迫力はもちろん、30曲以上にのぼるお囃子の美しい音色、八坂神社方面に向かう『渡り』とそこから戻ってくる『戻り』で変化する曲調……。あと山鉾巡行だけで10万人を超える見物客がカメラを向ける注目度です。別に私を撮っているわけではないんですけどね(笑)」
多くの人の熱意で実現した鷹山の復活
そんな小町さんが休み山(※)となっていた鷹山の復興に関わることになったのは、北観音山の囃子方で先輩でもあった現在鷹山囃子方の代表を務める西村健吾(にしむら・けんご)さんから、「鷹山の勉強会があるから来ないか?」と誘われたことがきっかけだった。
- ※ 大火や台風などの災害や、山鉾を保存する町の事情によって巡行を行っていない山鉾
「もともと鷹山という休み山があることは知っていましたし、面白そうな勉強会だと思って参加したんです。この勉強会『鷹山の歴史と未来を語る会』は、鷹山保存会の理事長である山田純司(やまだ・じゅんじ)さんを中心とするメンバーが始めたもので、数カ月に1回くらいのペースで知識人の方を招き、鷹山について理解を深めるものでした」
鷹山は、応仁の乱以前から巡行に参加していた歴史ある山鉾で、江戸後期時代には「くじ取らず(※1)」の山鉾として、後祭では最後尾の大船鉾(おおふねほこ)の前を巡行していたと記録に残っている。当初(約650年前)は、舁山(かきやま※2)と呼ばれる人が乗らない1トン未満のものだったと言われ、最初に絵画に登場する16世紀中頃(約500年前)には、お囃子が乗る大きな曳山(ひきやま※3)へと変わっていった。
- ※ 1.山鉾巡行の順番はくじ引きで決まるが、くじを引かなくてもあらかじめ順番が決まっている山鉾のことを「くじ取らず」という
- ※ 2.人が担いで巡行する山鉾
- ※ 3.鉾の先端が松の枝になっている山鉾
鷹山に乗る御神体は、鷹匠(たかじょう/鷹使い)、犬飼(いぬかい/鷹を補助する猟犬を扱う者)、樽負(たるおい/道具等を運ぶ者)の御三方。中納言・在原行平(ありわらのゆきひら※)が鷹狩りをする場面を題材にしたものだ。
- ※ 平安時代初期から前期にかけての公卿・歌人
「鷹山は文政9(1826)年の巡行で大雨に遭い懸装品を損傷したことを理由に、翌年から加列しなくなりました。その後も数回再建の話も出ましたが、結局それが実ることはなかったようです。祇園祭の山鉾巡行は、たくさんの方の熱意に加え、資金や貴重な山鉾の資材があって成り立つもの。どれを欠いても実現するものではないのです」
2012年に、数名の有志で始まった勉強会は、時が立つに連れて「鷹山を復活させたい」という思いが強くなっていった。そして2014年から始まったのが、お囃子の復興。北観音山の囃子方をしていた西村さんを中心とし、北観音山のお囃子をベースに、鷹山オリジナルのものを作り上げていったという。
「『鷹山の囃子方を作るのを手伝ってくれないか。曲をアレンジするのを一緒にやってほしい』と誘いを受けた時、感激して身震いしたことを覚えています。二つ返事で参加しました。それまでは、自分たちでお囃子を作るなんて考えたこともなかったので、とても新鮮で楽しい経験でした。祇園祭の囃子は全部で30曲ぐらいあり、楽器は鉦、笛、太鼓です。オリジナルのお囃子の制作は、祇園祭が一番絢爛豪華だった江戸時代の曲を模索にしたり、これまでの経験から『ここは一拍伸ばした方が良いのでは?』といったポイントを、みんなで試行錯誤しながら作っていきました」
はじめは9人だった囃子方のメンバーも気が付けば50名以上に。「これは祇園祭そのものの魅力が大きいかと思うのですが、『鷹山を復興する』という話を聞いて、参加したい!と言ってくれる方がたくさんいらっしゃいました」と小町さん。数人の有志から始まった鷹山復活への思いは、祇園祭に関わる多くの人に伝播していった。
毎月3回以上の合同練習と自主練習を行い、活動を始めてから半年ほどで随分形になったというお囃子。その後、小町さんと西村さんは長年務めた北観音山のお囃子を辞めて、鷹山のお囃子に専念するようになる。
「その時には、鷹山を復活させてその上でお囃子をやる!と決めていました。開始数カ月で形にはなったものの、お囃子としてはまだまだ。その後も多くの練習を重ね、3年ほど経った頃にようやく人前で演奏できるまでになりました」
鷹山の復興をお囃子から始めたことが良かったと振り返る小町さん。当初、復活に向けて他の山鉾同様のものを新しく造るためには2億数千万円がかかるだろうと言われていた。まずはメンバーで1万円ずつ出し合い、笛を数本購入。太鼓と鉦は他の山鉾のつてで借りた。また、祇園祭や地元の小学校、各地のホールなどさまざまな場所で演奏をするうちに、関係者の気持ちが一つになり、世間的な関心も高まっていったという。
そして2015年に一般社団法人鷹山保存会を設立。2016年には公益財団法人として認可され、寄付金もより集めやすくなった。組織をしっかり構築していく中で、小町さんの生業である弁護士としての経験が法務面で活きた。
「法人の定款や計画書を作り、公証人や行政(京都府)からもらった課題解決に取り組みました」
鷹山のお囃子方には公認会計士や建築の専門家なども参加しており、それぞれの経験が鷹山の復興に活かされた。「御神体が呼び集めてくれたのではないか」と、メンバー全員が不思議な縁を感じたという。
「他にも、鷹山の復興は、他の山鉾を保存する町の協力なしでは実現できませんでした。山鉾の基幹部品については、車輪は船鉾(ふねほこ)さん、車体を支える石持(いしもち)という部分は放下鉾(ほうかほこ)さん、櫓(やぐら)は菊水鉾(きくすいほこ)さんから譲り受け、さらに補助金をフル活用し、漆塗りや金工品などの整備を後年の課題としたことで、なんとか手持ちの資金(寄付)で復興にこぎつけることができました。また、浴衣のデザインは京都市立芸術大学の教授の協力のもと学生たちが考案してくれましたし、お囃子以外の車方(山鉾の舵を取る役割)や手伝い方(山鉾を曳く際に合図等を出す役割)といった役割も、口コミで多くの方が手伝ってくれることとなりました」
もともとは、休み山となった1826年から200年後となる2026年の復活を目標に見据えていたという鷹山。多くの人の熱意に支えられ、4年も早めることができた。
平和と疫病退散を願い、祇園祭と鷹山を守り続ける
2022年7月、いよいよ復活を遂げる鷹山。いまの日本の情勢は、祇園祭が始まった時代背景に近いものを感じるという小町さん。
「祇園祭が始まったのは、平安時代前期の869(貞観11)年。当時、全国的に疫病が流行り、播磨地震に貞観地震といった大地震、さらには富士山の噴火と天変地異が続きました。それを祟りだと憂いた清和天皇が疫病退散を祈願して、御霊会(ごりょうえ※)をやりなさいと言ったのが起源と言われます。今回、山鉾巡行へ復活することができましたが、それは通過点に過ぎません。もともとの山鉾巡行の目的である『平和』と『疫病退散』を願い、巡行を続け、後世へとつないでいけたらと思いっています」
- ※ 政治的失脚など思いがけない死を迎えた人々の霊が天災や疫病をもたらすとして、その霊を鎮めるための祭事
コロナ禍を乗り越え、3年ぶりに開催される山鉾巡行。その中で約200年ぶりに見せる鷹山の勇姿、試行錯誤しながら作り上げられたお囃子の音色を楽しみに、2022年の7月はぜひ京都へ足を運んでみてほしい。
撮影:立岡美佐子
- ※ 掲載情報は記事作成当時のものとなります。