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チャリティーではなくチャンスを!障害者と社会成長にコミットする就労支援のカタチ

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障害者の就労支援を推し進める竹村利道さん
この記事のPOINT!
  • 障害者支援に必要な視点は「チャリティー」ではなく「チャンス」
  • 障害者の自立を促進するには、まず福祉事業者こそが自立する必要がある
  • 障害者就労の常識を変えるための仕組み作りを計画中

取材:日本財団ジャーナル編集部

障害があるために企業での就労の機会に恵まれず、福祉就労の現場にいる人たちが全国に約30万人いる。厚労省によると福祉施設で働く障害者が得る月額の工賃は約1万5,000円、時給にするとわずか200円でしかない。また年々上がる障害者雇用率の実態は、省庁の水増し雇用にも見られるように、企業にとって戦力化にはまだまだ課題の多い状況だ。

そんな状況を変えるべく、日本財団では2015年に障害者の就労を支援するプロジェクト「日本財団はたらく障害者サポートプロジェクト(旧名:はたらくNIPPON!計画)」(別ウィンドウで開く)をスタートした。地域に根ざした障害者就労支援のモデルとなる新事業の構築と、年に一度、障害者就労にかかわる人々が集まり障害のある人の“働く”について考える「就労支援フォーラムNIPPON」の開催・運営を行っている。

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2018年12月に開催された「就労支援フォーラムNIPPON」の模様

今回は、プロジェクトを指揮する竹村利道(たけむら・としみち)さんに、自身の経験を踏まえた障害者就労問題の原因について伺った。

障害者の社会参加に必要なのは“保護”ではなく“機会”

竹村さんは、大学の福祉学科を卒業後、地元・高知県にある病院にソーシャルワーカーとして就職。その後、行政機関、NPOを経て、日本財団の障害者就労支援事業に携わることとなる。

「福祉の世界に入ったきっかけは、多感な頃に見たチャリティー番組『24時間テレビ』の影響でした。はじめは、障害のある“大変な人たち”の手助けをしたいというありがちな正義感からでしたが、初めて勤めた病院や、のちに就職する福祉施設で働くうちに、障害者や障害者を取り巻く社会の在り方に対する考え方が180度変わりました。率直に言って、福祉が障害者の自立を妨げているのではないかと。そして福祉の視点を変えなければ障害者の自立はないと」

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障害者就労支援プロジェクト「日本財団はたらく障害者サポートプロジェクト」の指揮を執る竹村さん

病院では、退院した障害者が数カ月も経たないうちに戻ってくる現実を目の当たりにした。

「いくら“川上”の病院で医療を施し寛解しても、“川下”の地域での生活が豊かでないと水泡に帰してしまう。病院に舞い戻ることなく暮らし続けることのできる社会づくりが必要だと感じました」

病院を辞め、市が管轄する福祉施設に転職した竹村さんは、地域の“障害者福祉”の実態を目の当たりにする。

「自分だったら利用したいとは到底思えない“お遊戯”に溢れ、目的のない日々をただ漫然と繰り返すしかないサービスが存在していました」

周囲の反対を受けながら、スポーツ・文化活動など当時は例のなかった取り組みを推進。障害者の社会参加を促した。

「障害があるからという理由で、健常者と同じことをしちゃいけないなんて法はありません。障害者にとって楽しいことは健常者のそれと同じです。それなのにどうして障害者は集められ、みんなで『チイチイパッパ』と歌わされなければならないのでしょう。自分がそこに行きたいかと尋ねられれば答えはすぐに出るのに、これが福祉と思い込んでいる支援者はなかなか気が付きません。デイサービスの枠を超えた活動として、みんなでパチンコや居酒屋、バーに行ったとき、普段のデイサービスでは無口なお父さんが生き生きとした表情で楽しんでいました。そしてその先々の人たちはとても優しく受け入れてくれた。施設の中で退屈なレクリエーションをやるより健全だし、社会の理解が進むと思います」

竹村さんは、活動を通して障害者が元気になっていく姿を見て、障害者がしっかりと社会で自立して暮らすには、“保護”ではなく“機会”が必要だと確信するようになる。そして、社会に存在が認められるという「社会参加」、言い換えれば「権利」を得た今、障害者支援は参加にとどまらない「社会活動」、「義務」を果たしていくフェーズに向かうべき、と方向性の舵を大きく切った。

「勤労や納税といった義務を果たすことで障害者も社会の一員になれる。そしてその景色が社会に当たり前に広がることで、『理解を!』といったありきたりなスローガンや啓発イベントも不要になると考えました」

しかし、障害者が企業で就労する例はほとんどなく、受け皿となっている福祉就労支援施設で働く障害者の実態は、デイサービスと変わらない状況だったと言う。障害者に割り当てられるのはティッシュや割り箸の袋詰めといった軽作業ばかりで、労働で得られる対価はたったの月額1万数千円。

竹村さんは、何より許せなかったのは、「そうした現状を“仕方ないでしょ”以外に説明の言葉を持たない支援者ばかりであったこと」と言う。「これでは障害者のモチベーションは上がらず、自立どころか生活保護を受けなくてはいけない。支援者たちはその状況に対して何ら疑問を持ってない。思考停止状態だと思いました」と敢えて厳しい言葉を使う。

そこで竹村さんは、行政機関を退職し、NPO法人と有限会社を設立。本格的に就労支援の取り組みを開始する。

しかし、勇んで事業を開始するも、業績は上がらず、「自分自身が一番自立することができていなかった」と思い知らされる。借金も残り、「もしかしたらこのまま死んでいくことになるかも。底に足が着く音が確かに聞こえた」と振り返る竹村さん。

写真:障害者の就労を支援する有限会社を設立した竹村さんの記事が掲載された高知新聞
竹村さんは、障害者の就労を支援する高知県内初の有限会社を設立し注目を集めた(紙面は高知新聞の許可を得て掲載)

しかし、この経験により「余計なプライドが消え去った。底についたからこそ底力」と、貴重な失敗体験を生かす次の事業を始めた。そのスタートに際し、助成をしてくれたのが日本財団だった。竹村さんは「その時の99万5,400円の助成がなければ、そして日本財団の担当者に弱音を吐いてしまった時、自分のことのように叱咤激励してくれなければ、その後の売上5億円も、そして100人を超える障害者に10倍近くの賃金を支払うことになることもなかった」と振り返る。

障害者福祉の既成概念を覆す、店舗設計や立地、接客サービスや商品の品質にこだわった経営手法が話題となり、全国からさまざまな団体や組織が視察に訪れるようになる。日本財団職員も頻繁に視察に来た。そのたびに「いろいろな施設に5,000万円なり1億円なり助成をしているけれど、施設がきれいになるだけで、当の受益者たる障害者の生活は何ら変わっていない。砂漠に水を撒くことはもうやめないか」と提案したところ、竹村さん自身がプロジェクトを推進することになり、2015年に日本財団に入職。程なく「日本財団はたらく障害者サポートプロジェクト」がスタートした。

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「事業の失敗を経験したことで、固定概念にとらわれないビジネスを考えられるようになりました」と語る竹村さん

障害者の労働環境の改善が進まない福祉事業者が抱える問題

障害者の福祉就労事業に費やされる国の予算は年間で4,000~5,000億円。福祉事業者が、1人の障害者を支援することで得られる報酬は、1日6,000〜7,000円、月に22日稼働したとすると1人当たり14万円程度になる。それにもかかわらず、30万人の障害者が手にする平均工賃はわずか月額約1万5,000円だ。生活の補填のためにさらに生活保護が必要なことを考えると、莫大な社会保障費を費やしている。

高い売上を出して高い賃金を実現した竹村さんが手がけた店舗と、国から支援を受けながら低工賃の福祉事業者。その違いは一体どこにあるのだろうか。

「一番の原因は、福祉事業者の“障害者だから”という思い込みです。障害者だから難しい作業をさせてはいけない、大変思いをさせてはいけない…。この既成概念から変えないといけないんです。障害者も、大変なことを自分で試行錯誤して乗り越えることでスキルが身に付くし、成長もできる。障害者に必要なのはチャリティーではなく、環境づくりを中心としたチャンスなんです」

実際、竹村さんが手がけた店舗では店頭での接客や調理など、積極的に仕事を任せる。もちろん、相応の賃金も支払う。

「『生活保護でもらう10万円と自分で稼ぐお金は重みが全然違いますね!』とスタッフから言われたときはうれしかったですね。できる体験を積み重ねると自信を得て、支援者の同行など必要とせず、自らハローワークへ赴き、企業の仕事を見つけて就職する人も出てきます。障害の有無にかかわらず誰にも伸びしろはいくらでもあると感じることばかりです」

可能性を限定せず、任せるからこそ、より新しいことへ挑戦しようという意欲が湧くのだ。

竹村さんは、福祉事業者も一般のビジネスと同様、マーケティングや経営、ビジネスをもっと意識するべきだと語気を強める。

「福祉就労施設が行うサービス業の現場は、客がお金を払う価値があるものには程遠い。障害者が扱うからと、その器から調度品まで割れ物は使わない、高価な物は置かない、デイサービス現場のような店内。それでは障害者福祉関係者や知人にしか来てもらえません。一般の人をターゲットにし、品質やサービスに緊張感とこだわりを持つ、障害や福祉を言い訳にしないきっぱりとした姿勢が必要です。また、福祉関係者を現場に配置しすぎないこと。せっかくの仕事現場が福祉施設になってしまっては障害者の可能性を摘んでしまいます。そのようなことを、私は常に心掛けて取り組んできました」

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「日本財団はたらく障害者サポートプロジェクト」プロジェクトから誕生した、岐阜県郡上八幡にある障害者が働く団子屋さん。趣ある佇まいが印象的だ

竹村さんは、「モチベーションを下げている原因の1つは、就労支援にしっかり取り組もうが手を抜こうが、福祉事業者に対して国から予算がほぼ均一に支給されることにある」と言い、福祉事業者ごとの成果に応じて予算を支給するべきだと強く主張する。

写真:岐阜県郡上八幡にある障害者が働く団子屋さんの店内
食器類や家具類も、一つひとつこだわって選び抜かれた物を使用

企業就労が困難な障害者の「働きたい」の受け皿としてこれからも福祉就労施設はあり続ける必要があるが、“やる気”につながる報酬設定に加え、今後は「軽作業、低工賃」の常識を覆す新システム「工賃倍増全国受注センター」を実現させたいと意気込む。「おしゃれなカフェや高度な仕事はできない」と訴える多くの事業者の意識も変えるために、やることは変わらないが対価が数倍になるという企業と福祉をつなげる受発注システムで、すでに鳥取県での実証実験で成果を得ている。

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団子を作り、盛り付ける障害者スタッフ

近い未来、「障害者」という言葉自体をなくしたい

企業で働く障害者を取り巻く状況についても、かなり深刻だ。障害者の雇用義務を果たすというコンプライアンスのために雇い入れる企業がほとんどで、実態は障害者を持て余しているケースも珍しくないという。雇用の範囲が身体障害者から知的、精神障害にも広がっていることから、その傾向はさらに強まると考えられる。

「雇用していても、“仕事”ではなく“作業”が与えられています。ある有識者は『企業の中に福祉施設を作るのが今の障害者雇用の実態』と言っていますが、あながち間違った表現ではないと思います。企業側も障害者側もハッピーな状態ではありません。雇わなくてはいけないという“北風”ではなく、企業に“太陽”を感じさせる新たな支援システムが必要です」

竹村さんが構想を練っているのが、企業が雇用した障害者のための雇用障害者再トレーニングセンターの設立だ。

「企業はコンプライアンスがあるので戦力になっていない障害者であっても辞めさせることをためらいます。また、辞めた障害者は就労移行支援事業という就労支援サービスの利用者になるため、本人にも企業にも社会保障にも健全ではありません。そこで、私の構想では、雇用状態のまま、半年~1年ほど実践を交えた研修を新設のセンターで行います。生活習慣や身だしなみから、基本的な作業を習得し即戦力になれる人材として育成し、企業に送り返す、さらには人材プラットホームとして企業間の人事交流も促進する。そんな場所を考えています」

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健常者も障害者もない、みんなが活躍する社会を目指す竹村さん

障害者が社会で生き生きと働けるために、さまざまなことにチャレンジする竹村さんの夢は、「できれば僕が生きている間に、“障害者”という言葉がない社会をつくること」だそう。

「そう遠くない未来、子どもたちが学校で手にする教科書には『日本には昔、障害者と呼ばれる人たちがいました』と書かれている。そして『障害者ってどんな人たちだったの?』と子どもたちから質問を受けている先生が、車いすに座っている。全盲だった。そんな未来を築きたい」

撮影:十河英三郎

〈プロフィール〉

竹村利道(たけむら・としみち)

1964年、高知県高知市生まれ。駒澤大学で社会福祉を専攻後、高知市の総合病院で医療ソーシャルワーカーとして勤務する。特定非営利活動法人ワークスみらい高知の代表を経て、現在は、日本財団国内事業開発チームシニアオフィサーとして「日本財団はたらく障害者サポートプロジェクト」の指揮を執る。

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