村田諒太選手が少年院で激励!人生に負けは当たり前、「リマッチ」で勝つために大切なものとは?

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少年院で、院生とミット打ちを楽しむ村田諒太選手

取材:日本財団ジャーナル編集部

この記事のPOINT!

  • 自分で決めることは自由だが、そこには責任が伴う。それが原動力になる
  • どんなに辛くても自分と徹底的に向き合うことで、自分の弱さを克服できる
  • 勇気は定義できるものではない。自分の行動を持って示すしかない

犯罪は許されない行為である。しかし、その一度の過ちが、これから長い人生を送る少年・少女たちの未来を決めてしまっていいのだろうか。法務省の統計によると、日本の少年犯罪の検挙数は年々減少の傾向にあるものの、再非行の割合は高く35.5%(平成29年度)もある。その背景にあるのは、断ち切れない過去の人間関係や、犯罪を犯したものが生きづらい社会の風潮だ。過ちを後悔し社会復帰が望む受刑者がいても、生きづらい社会が、新しい犯罪を生み出し悪循環につながっているとも言える。

その負の連鎖を断つ取り組みの一つとして、スポーツ選手が少年院の在院生に向けて講演とスポーツ交流を行う「HEROs更生支援プロジェクト」は始まった。アスリートによる社会貢献活動を促進する「HEROs Sportsmanship for the future」(別ウィンドウで開く)。今回、2012年ロンドンオリンピック・ボクシングミドル級の金メダリストであり、WBA世界ミドル級王者でもある村田諒太選手が千葉県にある八街少年院を訪問。自身の競技人生を通じて学んだ、“自分の人生との向き合い方”や高いモチベーションを保つ方法などを院生たちに向けてざっくばらんに語った。

自分からは逃げられない。「自分で決断すること」から責任が生まれる

「僕は、プロボクサー。金メダリストで、世界ミドル級のチャンピオンでもあります。みんなの中には、『どうせ生まれたときから才能があって、諦めない強い心もあって、すごい人間だからこういう風になれたんだろ!俺たちの気持ちの何が分かるんだ?』と思っている人もいるでしょう。昔の僕なら、絶対にそうでした(笑)。

ですが、僕もけんかをしていましたし、目標が見つからずフラフラしていた時期もあるし、ちょっとそこらへんのバイクを借りようとしたことだってあります。全然特別な人間じゃありません。今日は、ボクシングを通して僕なりに学んだ、気持ちの持ち方や人生に対する考え方をお話できれば、と思って来ました。この中の一人でも、『こんな考え方もあるんだ』と感じてくれたらうれしいな」

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2019年9月19日に千葉県の八街少年院を訪れた村田諒太選手

そう穏やかに話始めた村田選手。手には、チャンピオンベルトが光っている。今や世界にその名が響く村田選手がボクシングと出会ったのは、体力が余っていた中学生の時。担任の先生に「お前、何かやりたいことはないんか?」と言われたことがきっかけだったと言う。

「『ボクシングぐらいならやったるわ!』。けんかが多かった僕は、そう答えました。すると先生は『言ったな』と言って地元高校のボクシング部に連れて行ってくれたんです。でも、僕は逃げました。部活に行く前は、力強いパンチで対戦相手をリングに沈めるかっこいい自分を想像していたのに、実際僕を待っていたのは500メートル走5本、800メートル走2本という地獄。しんどくて、しんどくて、2週間で逃げ出したました。でも、しばらくして振り返ってみると、なぜか楽しかったって思えたんですよ。先輩後輩という関係や仲間とのつながりの中で、ここが『居場所』だと感じていたんですね。

そして、また舞い戻ったものの今度は2カ月で辞めてしまった。走りにも慣れてきて、体力がつき出した頃のことです。で、学校でちょっとかっこいいところを見せてやろうと思って、中学の陸上部に顔を出し、3段飛びをやったら、着地に失敗して靭帯を痛めて歩けなくなっちゃったんです。高校の先生に電話して事情を話そうと思ったんですが、『うそだろ!』と怒られるのが怖くって、電話できないまま辞めちゃいました…」

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過去の情けない経験も包み隠さずに語る村田諒太選手と、その話に耳を傾ける少年院の院生たち

そんな村田選手が腹をくくったのは、中学3年生。やりたいことも見つからないまま、フラフラしていた時期だと言う。

「中途半端に流されて生きる人生でいいのかって自分自身に問いかけました。自分が一番楽しかったことは何だ、と。それがボクシングだったんです。そこで、雑誌に載っていたボクシングジムの門を叩きました。僕の中で、これが自分の意思で何かを決断したものすごく大きな経験でした。他人にはうそをつける。もう会わなければいいだけの話だし。でも、自分との約束にはうそはつけないんです。自分から逃げられないからね。自分で決めるのは、自由だけど、そこに責任が生じる。それが、ボクシングを続ける原動力のようなものになりました。だからみんなにも、『自分で決める』ことをしてほしいと思っています」

「負けの歴史」との向き合い方で未来は変わる

自分の意思で選択した「ボクシング」という道。ボコボコにされる毎日ながらも、その魅力にはまり、プロを目指すようになった村田選手は、先輩選手の勧めで南京都高等学校(現在の京都廣学館高等学校)へ進学する。しかし、そのデビュー戦は惨めなものだった。

「プロのジムで日本スーパーライト級1位の選手とかとスパーリングやっていたから、高校生ぐらい余裕だよって思っていたんです。でも、普通に実力負け…。かっこ悪いですよね。自分にはセンスがないし、辞めたいとも思いました。しかし、自分でやると決めた手前そう簡単には投げ出せず、そのまま続けていました。そうしたら、3カ月後のインターハイで準優勝したんです。これが、自分史上初の成功体験です。負けても、我慢して続けたからこそつかんだ勝利。喜びもかなり大きかった。それ以来、ボクシングへの打ち込み方もガラッと変わりました。皆さんにも何かしらそういった体験をしてほしい。世界の見方が変わるから」

高校では、国体や選抜大会などで優勝を重ね5冠に輝くも、6冠を目指して挑んだ全日本選手権決勝にて負けて6冠ならず。大学でも、はじめは成績が振るわない時期は続いた。そんな時も村田選手は、環境を変え厳しい練習の末、全日本選手権で優勝する。その後、オリンピックを目指す村田選手の前には、世界という大きな壁が立ちはだかる。

「オリンピックで優勝するためには、アジア枠で良い成績を取らないといけません。相手は韓国やインドネシアだけではなく、トルクメニスタンやカザフスタンとか、ウズベキスタンなどといった旧ソビエト連邦の国々も含まれます。名前からして強そうでしょ。実際、強いのよ(笑)。カザフスタンで行われたオリンピックの予選で負けて、終わり。そこで僕のボクシング人生に1年半の空白が生まれます」

人は、自分が特別でいられないとき、他のもので特別性を得ようとする、と語る村田選手。

「ちょっと悪さをしてみたり、色恋に走ったりして、自分の心をごまかしていましたね」

その後、1年半は大学の職員として働いていた。しかし、彼が顧問していた部活が一部の生徒の不祥事による連帯責任で活動停止に。その名誉を挽回したいという思いで、現役復帰する。2カ月間練習に打ち込んだ結果、見事優勝。その時に、部活の活動停止はきっかけに過ぎず、心の底にあった「もう一回オリンピックに挑戦したい」という気持ちに気付いたと言う。2009年のことだ。

「その後も、世界の壁は高く、国際大会ではなかなか優勝できなかったですね。『明日はどんな倒れ方するんだ?』とからかわれたこともありました。でも、言わせておけと開き直って試合に臨んだらポンと勝てた。それが2011年の世界選手権だから、オリンピックを目指した2004年からだと7年以上かかったことになりますね」と村田選手は振り返る。全然エリートじゃない。悪さをした時期もあった。でも「チャレンジすることを辞めなかった。それだけは自分の人生の中で誇りです」。

そんな村田選手が、負けたときに大切にしていることがあると言う。それは、自分の弱さ、ダサいところ、汚いところと徹底的に向き合うこと。

「思い出すのも辛い負け試合を徹底的に見るんです、そこで修正すべきものを治す。本当に辛い作業ですが、自分の弱さとしっかり向き合うことで初めてそれを治せる。皆さんにも自分と向き合う勇気を持っていてほしい」。

勇気を定義できない。行動を持って示すしかない

村田選手の公演の後は、ミット打ちの練習に続き、少年院の院生からの質問タイム。限られた時間ではあったが、たくさんの手が挙がった。

「勝ったときの喜びと負けたときの悔しさ、どちらが大きいですか?」という質問や、「すぐ諦めてしまう自分がいる。どうすればいいですか?」という質問に、「ボクシングの面白さは、それを通してジムの先輩後輩やファンの方とつながれること。そんな仲間たちと喜びを共有できる勝ちの方が大きいかな」「人は弱いもの。それは仕方ないことだ。だから、僕は何かをやると決めたら、あえて自分の退路を断つようにしている。これは、周りに公言するとか簡単なことでいいんだ。ぜひやってみて」。と迷いなく応えていく。

その中で印象的だった質問が「勇気は定義することができますか?」という話だ。

「これは、昔読んでいた本に書かれていたことなんだけど。師匠と弟子が、『勇気を定義できるか』について話し合うんです。そこで師匠が言ったのが、『勇気は定義できない。なぜなら、結局行動でしか見せることができないから』という言葉。ハッとさせられましたね。勇気っていうのは行動なんです。そして、行動をもって勇気を見せるのが、ボクサーである自分の仕事の一面なのではないかと考えました。『行動をもって勇気を示す』。良かったら、覚えておいてください」

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村田選手と日本財団の笹川順平常務理事(写真右から4番目と3番目)、そして八街少年院の職員の方々

最後は、院生からの「少年院でいい思い出ができるのかなって、複雑な思いで入院しましたが、今日、村田選手に会えたことはこれから先一生の宝物になると思います」という言葉と木工制作のプレゼントに、「本当は本田圭佑選手の方が良かったんじゃないの?」と冗談を交えながらも微笑んでいた村田選手。ボクシング歴、15年。自分と向き合いながら、負けの歴史にも打ち勝ち、たくさんの勇気を示してきた彼の言葉だからこそ、院生たちにも響いたのだろう。村田選手の、そしてHER0sの挑戦は、これからも続く。

〈プロフィール〉

村田諒太(むらた・りょうた)

1986年1月12日、奈良県出身。182センチ、72キロ。階級はミドル級。2児の父。2012年のロンドンオリンピックではミドル級で金メダルを獲得。2013年4月、プロに転向。2017年、世界王座獲得。2018年4月、日本人初となる防衛に成功。同年10月、ラスベガスでロブ・ブラントと対戦、防衛に失敗するが、12月4日に現役続行を表明。2019年7月12日、WBA世界ミドル級王者のロブ・ブラントと再戦を行い、2回2分34秒TKO勝ちを収め、WBA世界王者に返り咲いた。日本財団「HEROs Sportsmanship for the future」のアンバサダーを務める。

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