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【ソーシャル人】目指すのは「誰も傷つかない社会」。転んだときだけ柔らかくなる床とマット「ころやわ」が生まれたわけ
- 年間約100万人の高齢者が、転倒によって骨折している
- 床とマット「ころやわ」は、転んだときにだけ柔らかくなりけがを防ぐ
- 多くの人にとって優しい社会から、それぞれの人にとって優しい社会を目指す
取材:日本財団ジャーナル編集部
玄関、居間、階段、浴室…。私たちが普段何気なく暮らしている場所は、特定の人にとって危険な空間でもある。東京消防庁の発表によると、東京で救急搬送されてくる高齢者の8割が「転倒」による事故が原因で、その多くが家の中で起こっている。
図表:高齢者の救急搬送原因(2014年〜2019年)
加齢と共に筋肉や骨密度が低下する高齢者や、難病指定の進行性の病を持つ患者にとって、命取りになり兼ねない転倒。そんな転倒によるけがから命を守るべく開発されたのが、普段は床と同じように硬いのに転んだときにだけ柔らかくなる床とマット「ころやわ」だ。
開発者である「株式会社Magic Shields(マジック・シールズ)」(別ウィンドウで開く)代表の下村明司(しもむら・ひろし)さんは、日本財団がソーシャルイノベーション(社会問題に対する革新的な解決法)の創出に取り組む人材やチームを支援するために実施した「日本財団ソーシャルイノベーションアワード2019」(別ウィンドウで開く)のファイナリストにも選ばれた。今回は、下村さんに「ころやわ」が誕生した経緯や開発に込めた思いについて話を伺った。
家の中に潜む「転倒」という大きなリスク
「いつも転ぶのが怖いです。気を付けていても、振り返ったときや物を持ったタイミングで転んでしまって…。家族に迷惑を掛けてしまうのが何よりも心配ですね」
下村さんが「ころやわ」の開発に当たって話を聞いた神経難病の患者は、転倒に対する恐怖をこう話す。
日本では毎年約1,100万人の高齢者が転び、その中の100万人が骨折を経験。そして、その4分の1にあたる25万人が大腿骨を折ってしまい、再び歩けるようになるのは15万人しかいない。それをきっかけに要介護状態や亡くなる人は多い。
「高齢者の方が一度大きな骨折をしてしまうと、寝たきりになってしまったり、長期にわたって痛く苦しいリハビリ生活を強いられることになったりする場合が多いんです。けがが治っても元どおりに歩けず、体力も低下しており、再び転倒骨折する確率は5倍に高まります。ご本人にとっても苦しいですが、家族にとってもつらいことですよね」
転倒によるけがと影響について下村さんはそのように語る。
高齢者の転倒による骨折は大きな社会課題の一つでもある。下村さんの話では、骨折による医療費は8,000億円、介護費は1.9兆円(※)とここ10年で2倍近く上昇しており、早急に解決が必要な状態だという。その原因となっている転倒の多くが室内、特に居間や寝室で起こっている。
- ※ 参考:ミリマン東京オフィス「日本における骨折による介護負担とその推移 -官庁統計を用いた分析」(2019年2月)
「高齢者の他にも、てんかんや脊髄小脳変性症(※)の患者さんなども、同じような転倒による骨折や大きなけがのリスクを抱えています。私たちMagic Shieldsは、そんな室内の転倒によるけがのリスクから当事者やそのご家族を救いたいという思いで活動をしています」
- ※ 運動や知覚、平衡感覚などをつかさどる小脳の障害。歩行時のふらつきや、手の震え、ろれつが回らないといった症状が特徴。全国で3万人程の患者がいる
実は、下村さん自身も大切な人がけがや不慮の事故で苦しむ姿を見てきた経験がある。
「私の祖母も転倒による骨折がもとで寝たきりになってしまい、『早くに死にたい』と言いながら亡くなっていきました。本人もつらいことですが、そんな祖母を気遣う家族にとってもつらい出来事で…。お互いに大切な家族だからこそ、すれ違ってしまう部分もありました。社会人になってからも親しい友人を事故で立て続けに亡くしてしまい、世の中の『けが』が見過ごせなくなったんです」
転倒しても骨折しない「ころやわ」
「大切な人をけがから守るために何ができるのか」
下村さんが考え抜いた末にたどり着いたのが、室内で転んでもけがをしない床とマット「ころやわ」だ。
「車の事故を防ぐ自動ブレーキの開発などはいろんな企業がすでに取り組んでいるので、自分はもっと別の分野で何かできないかと考えました。それで私の祖母の経験などから、高齢者や難病患者の方にとって、大きなリスクを含む室内での転倒をなくしたいと思ったんです。とはいえ、本人が転倒するのを防ぐことは難題です。そこで、転倒してもけがをしない商品を作ればよいのではと考えました」
「ころやわ」の大きな特徴は、通常は床のように硬く普通に歩けるが、特定の力かかったときだけ柔らかくなるところ。例えば、衝撃をダイレクトに跳ね返すフローリングの場合、成人男性が直立の姿勢から倒れた場合に大腿骨にかかる衝撃荷重は400〜500キログラム。衝撃吸収マットなどの競合品でも300キログラム以上の衝撃がかかってしまうところを、「ころやわ」の場合は150キログラムほどの衝撃に抑えることに成功した。
「理学療法士、転倒予防指導士であり、共同創業者でもある杉浦太紀(すぎうら・たいき)と一緒に、私は工学的な観点から、彼は医学的な観点から試行錯誤しながら開発しました」
特定の重さで柔らかくなる素材や仕組みの開発もさることながら、転倒を再現した衝撃吸収性のテストなどにも苦労しているそうだ。
「自分で転びながらテストを重ね、転倒についていろいろと思いを巡らせています。ただ製品を開発するだけでは足りない。転ぶ危険を抱えながら生活する人とその家族の気持ちを考えています。例えば、高齢者や患者さんたちの『自分で動きたい』『家族に迷惑を掛けたくない』といった思いにどう応えるかといったものです」
今の会社を立ち上げる前は、ヤマハ発動機で14年間、バイクの設計やデザイン部門での新事業開発、発明活動などを行なっていた下村さん。その中で培った技術やデザイン思考を、「ころやわ」の開発でフルに発揮しているという。
「物理的に骨折しないというだけでなく、高齢の方や患者さんの心を少しでも楽にできたらと考えています。そこについては、いろいろ検討中ですが、例えば『ころやわ』の表面の色を床と同色にしたり、安心感のある色にしたり、使う人の用途や好みによって工夫したいと考えています」
「ころやわ」は現在(2020年4月現在)モニターを募集中で、いよいよ一般の方による実証テストに入る。その結果を踏まえ、さらにユーザー視点を重視しながら改良が重ねられる。
「歴史を振り返ってみると、人類は誰かを傷つけたり、それを治したりということはたくさんやってきましたが、そもそも誰かを傷つかないようにする取り組みが足りないのではないでしょうか」
治す技術も大事だが、そもそもけがをさせないこれまでにない製品をつくるのが社会起業家としての自分の役割だと下村さんは話す。
「今の高齢者の方たちは、戦後の日本を立て直して豊かな国にしてくれました。私たちも社会をより良くして次の世代に渡せるよう、製品の開発に取り組んでいます」
それぞれの人が暮らしやすい未来に向けて
日本財団ソーシャルイノベーションアワード2019に参加したエピソードについても聞いてみた。
「当初は、『ころやわ』についてたくさんの人に知ってもらいたくて参加しました。このアワードでは、他のたくさんの社会起業家の方と知り合うことができて、とても刺激になりました。また、たくさんの反響をいただいて、転倒・骨折に対する社会的なニーズの大きさを知りましたね」
「ころやわ」の量産化の目処は2020年の末頃だが、段階を踏んで早急に必要な人には5月からモニターとして届けたいと話す下村さん。まずは日本の一般家庭向けや医療機関、施設に、次に世界に向けて展開を考えている。
「床以外にも、壁などにも利用できるような製品も検討中です。また、新素材として乗り物の内外装に用いたり、IoT(Internet of Things)としてデータ収集からサービス提供したりといった展開も視野に入れています」
自らの体験から社会課題を見つけ、その解決策を生み出そうと取り組む下村さんは、社会起業家にとって必要な姿勢をこう話す。
「まず、“自分が動く”ことです。自ら行動し、その情報を発信することで、自然と同じ想いを持つ仲間や情報が集まってくるものです。そんな個人の行動が、やがて大きな渦となって、より多くの人が暮らしやすい未来づくりにつながっていくのではないでしょうか」
撮影:佐藤潮
〈プロフィール〉
下村明司(しもむら・ひろし)
ヤマハ発動機にて14年にわたりバイクの機械設計やデザイン部門での新規事業開発、また発明活動などを行う。グロービス経営大学院を卒業し、その仲間と共に「ころやわ」を開発。2019年11月には、株式会社Magic Shieldsを法人化。「ころやわ」の量産化に向けて開発中。ロボット工学修士。MBA。
- ※ 掲載情報は記事作成当時のものとなります。