日本財団ジャーナル

社会のために何ができる?が見つかるメディア

【オリ・パラ今昔ものがたり】モハメッド・アリの存在と差別

写真
グローバル・アピール2020で宣言文を読み上げる池透暢氏(左)、マセソン美季氏

執筆:佐野慎輔

毎年1月の最終日曜日は「世界ハンセン病の日」である。日本財団はこの日、ハンセン病患者と回復者への社会的な差別の撤廃に向けてメッセージを発表し続けている。

15回目の今年は、東京オリンピック・パラリンピックに合わせて国際パラリンピック委員会(IPC)と共同で、東京から「グローバル・アピール2020」を発信した。

IPCの差別撤廃アピール

1998年長野冬季パラリンピックのアイスレッジスケートの金メダリスト、マセソン美季(みき)さんと、2016リオデジャネイロパラリンピック車いすラグビーの銅メダリスト、池透暢(いけ・ゆきのぶ)さん。2人のパラリンピアンが読み上げた宣言文にはこうあった。

「IPCの目的は、障害のある人に対する社会的なバリアを取り除くことで、ステレオタイプに挑み、人々の行動に変革をもたらすことです」

「パラリンピック・イヤーである2020年、我々は社会的烙印と差別の撤廃を求め、ハンセン病回復者と立ち上がります」

しばしば日本は同調圧力が強く、異質の存在を排除する傾向にあると言われる。否定はしない。

しかし、異質なものを排除するのは日本だけのことだろうか?世界に差別があるからこそ、こうした世界に向けたアピールが続けられているのではないのか。

IPCは障害者差別の撤廃を訴え、差別解消に取り組んでいる。

オリンピックはそれと無縁だろうか?いや、そんなことはない。オリンピックもまた、「オリンピズムの根本原則」とよぶ規範でこう述べている。

「スポーツをすることは人権の 1 つである。全ての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づきスポーツをする機会を与えられなければならない」

「オリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由によるいかなる種類の差別も受けることなく確実に享受されなければならない」

オリンピックもまた差別の解消を目指している。しかし、成果をえていないことは前回「ブラックパワー・サリュート」(別ウィンドウで開く)で紹介した。

私には夢がある。

「I Have a Dream」

米国公民権運動の指導者、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がそう語りかけたのは1963年8月28日。黒人差別撤廃を訴える25万人もの人々がワシントンDCに終結した「ワシントン大行進」である。

米国の独立宣言にも盛り込まれた「全ての人は平等に創られている」との理念のもとに、キング牧師は「私には夢がある」と訴えていく。

いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢。不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢。そして、私の4人の子どもたちが肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢、である。

そのキング牧師の演説がオリンピックの舞台に登場したのは1996年7月19日。第26回アトランタ大会の開会式であった。

キング牧師の故郷米国ジョージア州アトランタ。かつての黒人差別が色濃く残る地で開くオリンピックで、組織委員会は「黒人社会との和解」を大会テーマに掲げた。

その象徴が「私には夢がある」であり、閉会式で盲目の黒人エンターテイナー、スティービー・ワンダーが歌った「イマジン」である。

モハメッド・アリは奴隷の名前

写真
1996年アトランタ・オリンピック開会式。パーキンソン病を患い震える手で聖火点火を行うモハメド・アリ ⒸPHOTO KISHIMOTO

そしてもう1人、パーキンソン病と闘うモハメッド・アリ。ぶるぶると震える右手でトーチを持ち、左手を添えて聖火に続く導線に点火した時、彼はこの大会を貫くストーリーの主人公となった。

アリは1942年1月17日、ケンタッキー州ルイビルで看板書きの父カシアスと母オデッサとの間にカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアとして生まれた。イングランドとアイルランドの血も引く、アフリカ系米国人である。

クレイ少年は、12歳でボクシングを始めた。愛用の赤い自転車を盗まれ、「盗んだヤツを叩きのめしたい」思いからだ。「黒人だから」と差別も受けていた。しかし、「強くなれば何かが変わる」と打ち込んでいく。

やがて高校時代、2度の全米王者となり、1960年ローマオリンピックの代表に選ばれた。そして、ライトヘビー級の金メダリストとなる。

強いものが称えられる米国社会で、英雄だと称賛された。当時、ソ連(現ロシア)の記者から「黒人が入れないレストランもある国のために金メダルを獲るのはどんな気持ちか」と聞かれ、「僕にとって米国は世界で最高の国なんだ」と答えている。

しかし、黒人の地位は何も変わっていなかった。意気揚々と戻ったルイビルで「黒人はお断り」とレストランからたたき出され、失望したあまり、首から提げていた金メダルをオハイオ川に投げ捨てた。

というのは、よく知られたエピソードだが伝説である。ソ連記者とのインタビューで白人よりの発言をしたことをとがめられ、金メダルをオハイオ川に投げ捨てたのも作り話。金メダルは掛けたり外したりしているうちに紛失したというのが真実だとされている。

同じ年にプロ転向。ノックアウトを“予言”しながらその通りKO勝ちするボクサーと話題を集め、ときに「ほら吹きクレイ」の異名もとりながら勝ち進む。

そして1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者ソニー・リストンを一方的にたたきのめして6ラウンドTKO。オリンピック王者は世界王者へと駆け上がった。

写真
1960年ローマオリンピックで金メダルを獲得した後プロに転向、華麗なフットワークと多彩なアウトボクシング でボクシング界に君臨したモハメド・アリ ⒸPHOTO KISHIMOTO

「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という言葉が独り歩きし、新チャンピオンは「オレは王者だ!」「オレは美しい!」「オレは素敵だ!」「オレは最高だ!」そして「オレは偉大だ!」と叫ぶ。

だが、頂点にたった翌日、王者は「ブラック・イスラム」と称されるネーション・オブ・イスラーム(NOI)入信を公表。世間を驚かせた。奴隷化される前のアフリカ系米国人の宗教はキリスト教ではなくイスラムだと説き、白人社会への同化を拒否し、黒人の経済的自立をうながす運動である。

「奴隷の名前だ」とカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアの名前を捨て、モハメド・アリに生まれ変わるのだった。

闘う姿勢を止めないアリ

クレイ、いやアリは1963年頃からNOIに関わり、マルコム・Xとも出会って影響を受けていた。白人の既存勢力の価値観に合う“善良な黒人青年”から議論を巻き起こす存在に。

1966年、ベトナム戦争が本格化する中で徴兵を忌避し、ライセンスをはく奪、チャンピオンの座から“追放”された。さらに「禁錮5年、罰金1万ドル」の有罪判決。この時アリは25歳。ボクサーとしてはこれからが絶頂期のはずだった。

1971年、連邦最高裁が有罪判決を破棄して復活。1974年10月、ザイール(現在コンゴ民主共和国)のキンシャサでWBA・WBC統一世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンを8回KOで下し、チャンピオンに返り咲いた。

ハードパンチャーのパンチを腕でブロック、防戦に見せかけながら体力を消耗させて最後の一発で逆転した戦いは「キンシャサの奇跡」と呼ばれている。

それでも根強く残る差別

アリはその後10度防衛に成功。1978年2月に一度はレオン・スピンクスに敗れて王座を失ったものの、同年9月、スピンクスに判定勝ち、3度目の世界王座に返り咲く。

1981年12月に引退するまで偉大なボクサーであり続けたが、それ以上に信念を貫き、反戦活動を続ける姿が米国の青年層の支持を得た。

話は前後するが、1968年メキシコシティー大会での「ブラックパワー・サリュート」は、アリのライセンスはく奪に対する抗議でもあったという。

その後、ボクシングの後遺症だというパーキンソン病を発症。闘病中に大役に選ばれたのは、彼がオリンピアンであり、黒人。徴兵忌避しても戦う姿勢を止めず、難病と闘う姿への共感だったとされる。

しかし、実のところ、大会テーマの象徴として「オリンピック100周年記念大会」を盛り上げる方便だったようだ。

国際オリンピック委員会(IOC)は大会開催に合わせ、川に投げ入れたとされていた金メダルを復刻、アリに贈っている。当時のIOC会長、フアン・アントニオ・サマランチの人気取りだと言われ、打算だと批判も浴びた。

実際、米国における黒人差別問題はあの頃から何も変わっていない。IOCの人権問題への動きも、相変わらず鈍いままである。

〈プロフィール〉

佐野慎輔(さの・しんすけ)

日本財団アドバイザー、笹川スポーツ財団理事・上席特別研究員
尚美学園大学スポーツマネジメント学部教授、産経新聞客員論説委員
1954年、富山県生まれ。早大卒。産経新聞シドニー支局長、編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを歴任。スポーツ記者歴30年、1994年リレハンメル冬季オリンピック以降、オリンピック・パラリンピック取材に関わってきた。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会メディア委員、ラグビーワールドカップ組織委員会顧問などを務めた。現在は日本オリンピックアカデミー理事、早大、立教大非常勤講師などを務める。東京運動記者クラブ会友。最近の著書に『嘉納治五郎』『金栗四三』『中村裕』『田畑政治』『日本オリンピック略史』など、共著には『オリンピック・パラリンピックを学ぶ』『JOAオリンピック小辞典』『スポーツと地域創生』『スポーツ・エクセレンス』など多数。笹川スポーツ財団の『オリンピック・パラリンピック 残しておきたい物語』『オリンピック・パラリンピック 歴史を刻んだ人びと』『オリンピック・パラリンピックのレガシー』『日本のスポーツとオリンピック・パラリンピックの歴史』の企画、執筆を担当した。

連載【オリ・パラ今昔ものがたり】

  • 掲載情報は記事作成当時のものとなります。

関連リンク